「現実を生きるサル 空想を語るヒト」

現実を生きるサル 空想を語るヒト―人間と動物をへだてる、たった2つの違い

現実を生きるサル 空想を語るヒト―人間と動物をへだてる、たった2つの違い


本書はトーマス・ズデンドルフによるヒトと動物の間の心の違いについての本だ.ズデンドルフは,言語の身振り起源説を唱えたことで有名な認知科学者のマイケル・コーバリスの弟子筋に当たる研究者で,ヒトと大型類人猿との比較認知,比較心理,ヒトの心理の進化などを専門としている.本書の中心となる主張は,「ヒトと動物の心の違い(ヒトの特異性)は,主に『再帰構造を持つシナリオ構築力』と『心を他者の心と結びつけたいという衝動』にある」というものだが,それを説得的に示すためにこれまでの関連分野のリサーチを驚くほど丁寧に総説している.原題は「The Gap: The Science of What Separates Us from Other Animals」*1


本書はヒトの特異性(あるいは至高性)についての認識の歴史から始まる.宗教や神話からダーウィンへ,デカルトの動物=自動機械論からヒトと動物の連続性の認識へということだが,進化心理学も動物とのギャップ問題には割と無関心だとコメントしているところはズデンドルフの立ち位置をよく示している.

続いて比較対照である霊長類の解説が,系統樹とともに新世界ザルからチンパンジーボノボまで簡単にまとめられている.テナガザルの認知能力はほとんど調べられていないこと*2,オランウータンのレイプは代替戦略オスに限られないこと*3,オランウータンはダンバー数の例外になること,脳の相対的な大きさ指数を巡る論争あたりの解説は面白い.


次に比較心理のもやもやっとした部分,比較の方法論の議論が取り上げられている.ここでは観察や実験結果の解釈について,より高次の機能を認めようとする「大層な解釈」と単純な条件付けで説明できるとする「簡素な解釈」の対立として説明している.歴史的にはダーウィン流のヒトとの連続を認める立場から,賢いハンス現象の暴露と行動主義の興隆と衰退,動物行動学や比較心理学でなお続く論争ということになる.ズデンドルフはギャップがあるかないかを議論するより,一つ一つの能力についてなにが違うのか,そしてそれはなぜかを詰めていくことが有益だという立場に立ち,それを一つ一つ見ていくことになる.

ここで,ごっこ遊びをする想像力,素朴物理学,鏡像の自己認識などの能力が動物にあるかという問題が具体的に紹介されている.このあたりは読んでいてもどう解釈すべきかなかなか悩ましい*4ところだ.ズデンドルフは辛抱強く様々な論点を整理し,最低限言えることを丁寧にまとめている.


続いてヒトの特異性を示すとよく指摘される心的能力のヒトと動物の違いを分野ごとに見ていく.取り上げられるのは言語,現在以外の時間を想像できる能力,心の理論,高い知能,協力と文化,道徳だ.ここはそれぞれ,問題の所在,ヒトに見られる能力,動物で見られる能力,まとめという順序で整理されている.手際よく網羅的に総説され,かつ著者の見解も関連して述べられており,非常に充実している.私が面白く感じた部分をいくつか紹介しておこう.

  • チョムスキーの普遍文法の主張は50年間主流の座にあったが,最近これへの異議を唱える言語学者が現れるようになり,潮目が変わってきているのかもしれない.(ズデンドルフは,これらの文化の影響をより強調する異議に好意的なようだ.)とはいえ,限られた語彙と文法規則から無限の意味を持つ文章を作り出すことを可能にする言語を生み出すためには,「再帰的な思考,メタ表象を持つ心」「相手を理解したい,理解されたい心」が生物学的な下地として重要であることは明らかだ.
  • ヴェルヴェットモンキーの敵の種類ごとのアラームコールは有名だが,警報に応じて樹上に逃げたサルは偽りの警報を出したサルが逃げずに餌を漁っているのには無関心だ.
  • 動物は明らかに何らかのコミュニケーション能力を持つが,ヒトの言語に特有と思われることも確かにいくつかある.動物に特に不足しているように見えるのは自分の心にあることを他個体と交換しようとする意欲のように思われる.
  • エピソード記憶を持つには「再帰的なシナリオの再構成能力」と「現在以外の時間について考える能力」が必要だ.このエピソード記憶はエピソード予測と深く結びついており,おそらくこの両能力は有益な未来予測するために淘汰を受けたのだろう.予測をしそれらを考慮することは自由意思の感覚と深い関係があるだろう.そして他者と予測を交換することは予測の精度向上に大きく役立つだろう.
  • 動物にエピソード記憶があるという証拠はない.カケスの貯蔵行動も簡素な解釈で十分説明できる.
  • チンパンジーは8分までならマシュマロテスト的な忍耐テストに合格できる.これは印象的だが,しかしヒトに比べるときわめて短いとも評価できる.また将来予測に基づく行動とはっきり解釈できる観察例はきわめて少ない.
  • 他者の心を読む能力は再帰的な思考を必要とするという点で心の中の時間旅行能力と共通の基盤を持つ.
  • チンパンジーに心の理論があるかについてはポヴィネリとトマセロの間で大論争になっている.トマセロ陣営から提出されているどの証拠も簡素な解釈ができないものはない.またこれまで誤信念課題を達成できた動物はいない.大型類人猿には萌芽的な心の理論があるかもしれないがヒトとのギャップは大きい.ここでも他者の心とつながりたいという強い意欲がヒト特有であることが大きく効いているようだ.
  • 一般知能を巡る論争は,一般知能因子を重視するか複数の能力の複合体と考えるかという点を巡ってなお紛糾を続けている.とはいえヒトに合理的推論能力があるのは明らかだ.合理的推論において特に重要なのは,様々なシナリオを想起し,それを標識に置き換え,それを情報の固まりとして再帰的に扱う能力だと思われる.
  • 動物に高次の知能があるかどうかについてはやはり大層な解釈と簡素な解釈の間で泥沼の論争が続いている.
  • 心理学周りでの知能を巡る最近の流行は「作業記憶」容量についてだ.ヒトにおけるIQの個人差は作業記憶容量差に依存すると主張されている.これに関連して松沢がチンパンジーのアユムに(複数の数字をいったん画面上に表示してから消し,その後数字の順番を答えさせるタスクにおいて)人間をしのぐ記憶容量があると主張して一時話題になったが,その後ヒトでも長期間訓練を受けると同等の成績が残せることがわかった*5
  • 模倣に関して,チンパンジーになくてヒトにあるのは過剰模倣(合目的性を越えてとにかくまねる傾向)だ.これは知識を忠実に伝えるために重要だったと思われる.
  • 大型類人猿についての教育の観察事例はいくつか報告されているが,いずれも簡素な解釈が可能であり,それをおいておくとしても,事例自体が驚くほど少ないのが印象的だ.
  • 一時ミーアキャットの教育事例が喧伝されたが,大人のミーアキャットの行動は子供の技能レベルの評価に基づいていないことが明らかになった.
  • ヒトの教育は言語,心の理論,心の中の時間旅行能力に大きく依存していると考えられる.
  • 動物に,共感や互恵主義などの道徳の要素に似たものはあるかもしれないが,社会的規範がある可能性は非常に低く,さらに善悪の道徳的推論能力がある証拠はない.道徳的な善悪の判断には自由意思の感覚が必要で,そのためには再帰的シナリオ再構築能力が必要なためかもしれない.


この膨大な各論の総説の後で,ズデンドルフはヒトとその他の動物のギャップを構成する要素を整理する.そしてすべてのキーは「再帰構造を持つシナリオ構築力」と「心を他者の心と結びつけたいという衝動」だと説明する.予測能力と社会性が相互に強めあうフィードバックループが生まれ,動物がたどり着けなかった高みに昇ることができたのだ.これは子供の発達を見ても明らかだし,ヒトの独特な生活史戦略にもつながった.このズデンドルフの議論は前もって各論を整理して様々な能力にこの要素があることを見せていることが効いて,かなり説得的に感じられる.


さらにズデンドルフは,アウストラロピテクスからホモ・サピエンスまでヒトの進化史を振り返って,古人類学と系統発生の議論を総説している.ここもなかなか稠密で有用なまとめになっている.
本書の議論との関係ではホモ・エレクトスがポイントになる.ズデンドルフの議論では狩猟に際しての予測や協力が重要視され,料理仮説や共同繁殖おばあちゃん生活史仮説と対比されている.またズデンドルフはハンドアックスの保守性から見て真の再帰的な思考はハイデルベルゲンシス以降だと考えているようだ.さらにネアンデルターレンシスの認知能力についてかなり高く推測しているのも面白い.そして将来についてはこの再帰的なシナリオ構築力と他者の心とつながる意欲により合理的な推論ができるようになったメリットを生かせば様々な課題を解決できるはずだと締めくくっている.


というわけで本書は,ヒトの心や認知能力の何が独特なのかについて,様々な側面を考察し,その基本的要素を取り出して見せてくれている本だ.再帰的な思考も協力指向もヒトの独自性としてよく取り上げられる部分だが,そこを基礎ブロックとして言語をはじめとする広範囲な独自現象をうまく説明できているのが読ませる部分になっている.
ただしそれぞれが適応形質だとしてその淘汰圧の考察についてはやや深みが足りないし,一部ドーキンスやピンカーの議論に対して皮相的にしかとらえていない部分もある.たとえばズデンドルフは協力の進化の部分で,あたかもドーキンスの主張が血縁淘汰とは別の議論であるかのように「ドーキンスは遺伝学の観点から,私たちが・・・利己的な遺伝子の宿主だと説得力を持って主張した.この考えが正しければ私たちの遺伝子にとって利益になる場合に限って協力は長期的にうまくいくはずだということになる」と書いている.ドーキンスはハミルトンの(行動生態学的な)包括適応度理論を遺伝子視点から解説したにすぎず,血縁淘汰とは別の独自の遺伝学的な主張を行っているわけではない*6.またピンカーの暴力減少傾向の議論を,「人類が人為淘汰的に進化した結果,暴力が減少している」と主張していると誤解しているようだ.さらに進化心理学にもややシニカルな書きぶりで,コスミデスの騙し屋感知モジュールの主張に,「裏付け証拠には議論の余地がある」とコメントしている.いずれも本筋からははずれた部分で,全体の総説的な価値を落とすほどのものではないが,やや残念なところだ.
とはいえいったん再帰的な思考と協力指向が生まれた後のシナリオとしてはうまく説明できていると思う.そしてそれより何より,広範なトピックについての総説部分がすばらしい.この総説の網羅性と論争についての客観的で中庸を得た立ち位置が本書の最大の価値だと思う.


関連書籍

原書

The Gap: The Science of What Separates Us from Other Animals

The Gap: The Science of What Separates Us from Other Animals



 

*1:邦題はそのギャップの中身を一言で示そうとしているのだろうが,ナローフォーカスの本であるかのような誤解を与えやすいだろう.「ギャップ:ヒトと動物の違いの科学」あたりでは売れないということなのだろうか.

*2:ズデンドルフは調べようとしてみたらしい.しかし飼育下で心理的なテスト行うのは非常に難しいそうだ

*3:ある研究者はメスのオランウータンに執拗にせまられ,拒否するとその後テストに協力してくれなくなったそうだ

*4:単純な条件付けでも驚くほど多様な行動が可能だし,行動が観察されないとしても能力はあるがやる気がないだけかもしれないのだ.

*5:これは知らなかった,本当にあのタスクをヒトができるようになるとは驚きだ

*6:ズデンドルフは前段ですでに血縁淘汰を解説している.血縁淘汰自体を狭く見過ぎているのだろう