「交尾行動の新しい理解」

交尾行動の新しい理解-理論と実証

交尾行動の新しい理解-理論と実証


書名は「交尾行動」となっているが*1,実際には性役割,近親交配回避,性淘汰理論のここ20年の進展を解説し,さらにグッピーとマメゾウムシについての性淘汰の実証リサーチの詳細が紹介されている本になる.
性役割や性淘汰に関する進化理論は70年代から90年代にかけて大きく進展し,日本でも行動生態学の教科書がいくつも刊行されてその理論的な詳細が紹介されてきた.理論はその後も性的コンフリクト,精子競争と隠れたメスの選択,拮抗的性淘汰をめぐって前進しているが,ここ20年ぐらいは日本語書籍としてはあまり紹介されておらず,包括的な解説としてはわずかにデイビス,クレブス,ウエストの教科書に簡単な解説があるのみという状況だ.本書はこの分野について理論と実証双方の第一線級のリサーチャーによる解説がなされており,学習者にとって貴重な本となっている.

第1章 最近の理論的展開


第1章では粕谷英一と工藤慎一による理論的な解説が収録されている.


まず性役割の決定についての理論が取り扱われている.
何故オスがより競争的でメスがより選別的なのかについては,以前は精子卵子に対する投資量の差から説明するものが多かったが,この説明はコンコルド誤謬的になりがちなのであまり見かけなくなり,それに代わり少し前までは実効性比から説明するものが主流だった.しかしこれらの説明は何となく釈然としない部分がある.また子育て投資にかかる性役割については,ながらくメイナード=スミスのゲーム理論的役割決定モデルが受け入れられていたのが,実はこれが誤りであったことが最近わかったとされている*2.本書はこのあたりを包括的に整理してくれていて非常に素晴らしい.本書の議論の流れを簡単に紹介しよう.

  • (2倍体有性生殖生物の)性役割の進化を考える際に重要な要因は「繁殖集団内の全オスの適応度の合計は全メスの適応度の合計に等しい」という制約(フィッシャー条件)である.これは子供が必ず父と母を一個体ずつ持つことから導かれる.
  • これは片方の性の適応度はもう一つの性の適応度とは独立に決まらないことを意味する.このことはしばしば見過ごされる.例えばよく見かける性転換に関する体サイズ有利性モデルのグラフはそれぞれの適応度が独立に決まる前提になっているので,(直感的な理解を助けるという意味で有益であるが)本来はフィッシャー条件を加味しても成り立つかの吟味が必要になる.
  • 何故オスが競争する性,メスが選り好む性になりやすいのかについての学説史にもこの見過ごしが顕著に表れている.最初にこれを子育て投資量の差で説明したのはトリヴァースだった.しかし彼の説明にはコンコルド誤謬が含まれていた*3.メイナード=スミスは将来の利益のみに基づいてゲーム理論モデルを組み立てた.これは20年以上にわたって受け入れられてきたが,このモデルはフィッシャー条件を加味していなかった*4
  • フィッシャー条件を加味すると結論は変わりうる.加味の仕方にもよるが,例えば子育てをしているメスは浮気に応じないとすると,オスは子を遺棄しても次の繁殖機会が限られてしまうので(メイナード=スミスの条件より)子育てする方に傾く.
  • もう一つのトリヴァースに始まるフィッシャー条件の見過ごしの議論は.最大可能繁殖率を用いるものだ.最大可能繁殖率を持つオスの方が遺棄しやすいという議論は両性の平均適応度が同じであることを無視している.
  • また関連して実効性比を用いて性役割を説明する議論にもいろいろな見過ごしがある.実効性比は確かに交尾しやすさに関連するが,交尾をめぐる競争状況はベイトマン勾配や繁殖成功の分散の性差にも影響を受ける.またある性の繁殖個体の平均適応度は実効性比ではなく繁殖個体性比で決まることにも注意が必要だ.
  • 結局フィッシャー条件は頻度依存を通じて子育て投資にかかる性役割の分化を妨げる方向の力として働く.これに打ち勝って分化を引き起こす要因としては,オスの父性の不確実性,オスに働く性淘汰そのもの(強い性淘汰によりオスの交尾成功率の分散が高くなり,成功率が高く交尾に成功したオスは遺棄しやすくなる*5),繁殖個体性比の偏りが考えられる.

ここでは結論として性役割の分化の謎はなお解決されたとは言えず,過去に投資量や最大繁殖成功が取りざたされたのは妥当ではなかったとまとめられている.
このあたりは行動生態学の本でも様々な説明がなされ(一部の本ではコンコルド誤謬そのままのものもある),すっきりしていない部分だった.本書の整理は多くの誤解を解くのに役立つだろう.


次に近親交配の忌避の進化についてまとめられている.
近親交配は近交弱勢を引き起こすために多くの生物で忌避されるような性質が進化している.このあたりはダーウィンがすでに観察により気づいていたことだ.しかしこれは普遍的に成り立つわけではない.近親交配には包括適応度上の大きな利点があるし,さらに交尾機会の希少性によっても有利になる.
本書ではまずこの忌避が進化するかどうかは近交弱勢の強さと包括適応度上の利益や交尾機会の利用効率のトレードオフで決まり,条件依存的であることが説明されている.続いて一旦近親交配が有利になるとそれは劣性有害遺伝子を取り除く方向に進むので正のフィードバックがかかること,近親交配をめぐる利益はオスとメスで異なりうること*6(そして性的対立の要因となり得ること)が解説されている.
これもまとまった解説をあまり見かけない部分の解説であり価値が高いと思われる.


最後にこのような理論分野の今後の課題として,フィッシャー条件を加味した上で様々な淘汰圧力がどう相互作用するか,トレードオフや共進化を考慮した淘汰過程の解明が強調されている.また交尾相手の探索のコスト要因について未解明領域があることも指摘されている.いずれも大変興味深いところだ.

第2章 性淘汰理論の整理


林岳彦による明瞭な理論整理の章になる.ここではこれまでに提唱されている様々なメスの選り好み型性淘汰理論の整理がなされている.取り上げられているのは以下の6つ

  1. 知覚バイアス(センゾリーバイアス):この知覚バイアス説には単なるきっかけを説明するというものと,バイアスが別の自然淘汰によって保たれることを前提に選り好み形質の安定性まで説明しようとするものがある.ここで解説されているのは後者になる.
  2. 繁殖干渉回避(種の同一性のシグナル)
  3. ランナウェイ
  4. 優良遺伝子(ハンディキャップシグナル)
  5. 性的対立
  6. 直接利益

続いて各理論の概要が解説され,さらにその違いの要因(雌雄間の相互作用に由来するか,直接淘汰か間接淘汰か,交尾自体にコストや利益があるか,交尾相手の質を影響するか)が整理される.またそれぞれの理論による場合の進化動態も比較される.最後にこれらの理論をどう考えるべきかについて,それぞれの理論は排他的でなく同時に多くの過程が効いていると考えるべきであること,そして進化動態の中のそれぞれの時点でそれぞれの過程がどの程度効いていたかの定量的なリサーチが望ましいことが主張されている.
そして補遺Aとして各理論を量的遺伝モデルとしてモデル化した場合にどう異なるのかが解説されている.ここは同じフレームで各理論の違いが明晰に捉えられていて特に素晴らしい.そして最後に補遺Bで性的対立モデルにおいて進化動態がどうなるのかが解説されている.ここもあまり解説されているのを見かけない貴重な解説だ.


というわけでこの章の解説は本当に素晴らしいのだが,私的には不満もある.
そもそもメスの選り好み性淘汰が理論的に興味深い問題とされたのは,オスの馬鹿げたほど派手なディスプレーへの選好性はメスにとって(子供にそのコストのかかる性質が遺伝するなら)一見すると不利になりそうに見えるのに(つまり直接利益はなさそうなのに)それにもかかわらず進化するのは何故か*7というところにある.本書はそこへのフォーカスがないのだ.この点に関しての私の感想は以下の通りだ.

  • 6番目の直接利益説は(ある意味当たり前で)そもそも興味の対象外になる.
  • 1番目の知覚バイアス説はそのバイアスが別の局面における自然淘汰によって保たれるという前提がポイントになる.本書ではこの前提についての吟味はなされていない.私が(安定的形質を説明するという意味での)知覚バイアス説を買わないのは,非常に高いコストのディスプレーを好むバイアスが不変であるということがありそうにないと思うからだ.餌を採るときの好みとオスを選ぶときの好みを分ける方向に淘汰が働かないという制約は何らかのメカニズムが示されない限り説得的には思われない.(なおきっかけの議論としては知覚バイアス説は十分興味ある考え方だと思うし,実際にそれは効いているだろう)
  • 2番目の繁殖干渉回避説は,信号理論からするとオスとメスで利害が一致しているのだからコストのかかる派手な信号が進化するはずがないと思われる*8が,本書ではそのあたりの解説はない.
  • 3番目のランナウェイ説はきっかけがあれば短期的には十分大きなディスプレー形質を進化させるように効くだろう.しかし安定するかどうかについては,まずメスに識別コストがあれば安定しないし,それでも壊れる方向の突然変異バイアスがあれば安定すると解説されている.しかしこの最後の安定は(突然変異の方向性の強さにもよるが)形質がある程度弱くなったところで収束するもので,大きなコストのかかった派手なディスプレーを説明するのはやや難しいのではないだろうか.本書ではそのあたりについては解説されていない.
  • 4番目の優良遺伝子説については,オスの優良性とメスの選好性の相関が(潜在的)ディスプレー形質を経由した遺伝相関だけに依存する場合には進化できないが,結果として実現されるディスプレー形質が優良性に直接依存する場合には進化できるというところで解説が終わっている*9.しかしここから実際に実現されるディスプレーが優良性に依存するということが進化できるか(つまり条件依存型(あるいは暴露型)ハンディキャップが進化できるか)についての解説がない.優良遺伝子説にとってはここが最もキモの部分であり,これをモデル化*10して説得的に示したのがグラフェンであることを何故解説していないのだろうか.画竜点睛を欠くというか,まことに残念と言わざるを得ない.
  • 5番目の性的対立説は最近の進展部分で,メスが得る選好性の利益についての面白い説明になっていて,なかなか興味深いところもある.しかし本書の解説では,交尾コストを避けるために何らかの選好性がメスに進化しうることはわかるが,何故それが派手なディスプレーになるのかのところは難しいように思う.最初は何らかのきっかけで目立つ形質が進化するとしても,要は交尾回数を減らせればいいのだから,この力学だけではいずれよりコストの小さな形質への選好性に曲がりやすいのではないだろうか.やはり大きなコストのかかった形質の進化過程としてはあまり重要な過程ではないのではないかという印象だ.

結論的には,オスの派手なディスプレーとメスのそれへの選好性の進化は,きっかけや共進化の過程では知覚バイアス,ランナウェイ,性的対立もいろいろ効いているのだろうが,最終的に安定的な形質に進化する主要なメカニズムは優良遺伝子ではないのだろうか.本章では並列的に比較解説しているので,この最も興味深い謎についての突っ込んだコメントがない.それはある意味記述スタンスということだろうが,そういう視点から見ても優良遺伝子説についてはもう少し深い解説が欲しかったというのが素直な感想だ.
そしてザハヴィのハンディキャップシグナル理論が受け入れられるための最も重要な理論的な貢献はグラフェンの1990年のモデルであることはドーキンスの「利己的な遺伝子 第2版」で既にはっきりと述べられているし,デイビス,クレブス,ウエストの教科書でも解説されている.しかし本書だけでなく日本人数理生物学者は,巌佐の分析のみ紹介し,なぜかグラフェンの業績に触れようとしない*11.これは私としては本当に残念だし*12,ある意味謎だとしか言いようがない.

第3章 グッピーの性淘汰


第3章では狩野賢司によるグッピーを用いたオスの派手な性淘汰形質とメスの選り好みについての実証リサーチの詳細が解説されている.ここは詳細がひたすら楽しい.

  • グッピーは派手な性淘汰形質を持ち,卵胎生で飼育しやすく性淘汰リサーチにおいてはモデル生物の1つになっている.
  • 交尾には協力交尾と強制交尾(レイプ)があり,観察ではっきり識別できる.なおこの強制交尾行動は頻度依存多型ではなく条件依存的な代替戦略であると考えられる.またメスにとっては捕食リスクの増大,採餌時間の減少などのコストがあると考えられる.
  • メスの選り好み形質には尾の長さと鮮やかな斑点模様(オレンジスポット)がある.
  • 尾の長さについてのメスの好みを調べると,メスは尾の長さではなくオスの全長に対しての好みを持ち,オスは尾を長くしてこれを騙していると解釈できることがわかった*13.メスは(交尾の第2段階の)グライディング段階では尾の長いオスを避けるという形で騙しを回避する.回避されるとオスは強制交尾試行に移行する.オスも自分の尾の長さを認識していて協力交尾への求愛頻度をそれにより調整している.また求愛頻度は遊泳環境等によっても調整されている.
  • またメスはオレンジスポットの大きな(体側面積に占めるスポットの割合が大きな)オスを選好する.スポットの大きさには遺伝性がある.スポットの大きなオスの精子は遊泳速度が速く,その子は遊泳能力が高い(人によって捕獲されにくい).
  • またメスはスポットの鮮やかさにも選好性を持つ.鮮やかさは希少な餌資源である藻類採餌により得られ,免疫能力とトレードオフにある.この藻類採餌能力には遺伝性がある.
  • 全長とスポットの鮮やかさの比較では鮮やかさの方が選好性に大きな影響を与える.これは全長には騙しがあるからだと解釈できる.
  • スポットの左右対称性はメスの選好性の対象になっていない.非対称のオスはよりスポットの大きな側面をメスに見せる.これも一種の騙しと解釈できる.*14
  • メスはオスの魅力に応じて(交尾時間を変えることにより)受け取る精子量を調節している.
  • オス2個体と交尾した場合には,交尾時に受け渡された精子量にかかわらずに,魅力ある方のオスの受精割合がかなり高くなり,先オスか後オスかで2峰型の分布を作る.またこれは単に魅力あるオスの精子遊泳能力の差ではなく,メスが隠れた選択を行っていることが(操作実験により)示されている
  • 複数オスと交尾したメスの子は,平均して,大きく,より群れを作る時間が長く,遊泳能力も高い.(何故かはわかっていない.複数オスの中の最も優良なオスの精子の受精割合を増やすためなのか,そのようなオスの精子を得られたメスが自身の投資を増やすためなのかはわかっていない.)
  • メスはオスの魅力に応じた性比調節も行っている.魅力的なオスと交尾したメスはオスに性比を傾ける.
  • メスは魅力的なオスと交尾した後はすぐに産卵するが,魅力的でないオスと交尾したときには,魅力的なオスとの交尾機会を待って産卵を遅らせる.このため生まれてくる子は(逆説的に)大きくなる.

詳細を読むと,騙しを含むアームレース型の共進化が様々な局面で普遍的に生じていることがよくわかる.なおスポットの鮮やかさや大きさは,希少な藻類への採餌努力に依存し,かつ免疫能力とトレードオフになっており,「よりリソースのあるオスが広告にかけるコストをより負担できる」というハンディキャップ型シグナルのグラフェンの示した要件を満たしそうな印象を強く受けるが,第2章ではより鮮やかなオスの生存率の方が低かったことからこれがランナウェイ型であると示唆されており,このあたりの解説がないのが物足りないところだ.両過程が同時に働いていて測定された個体群ではランナウェイ過程の要因が強く効いている局面だったということだろうか.

第4章マメゾウムシの性淘汰


第4章は原野智広によるマメゾウムシを用いたメスに交尾のコストがある場合の性拮抗的共進化についての実証リサーチの解説.第3章に引き続き操作実験を駆使した詳細が楽しい.

  • マメゾウムシは飼育が容易で操作実験がデザインしやすく,メスが交尾で傷を負うという報告から性的コンフリクトリサーチのモデル生物としてよく調べられるようになっている*15.この傷はオスの交尾器にあるトゲによるもので,2回交尾したメスは1回交尾のメスより早く死亡すると報告された.
  • オスは長いトゲにより受精成功度を高める利益を得るが,メスの傷自体は受精成功度に影響がない.
  • またメスは交尾の途中でオスを蹴上げるような動作を行い,交尾の継続を避けようとしているように見える.しかし蹴り始めたときに人為的に介入して交尾を終了させるとメスの適応度はかえって下がる.この蹴る動作はオスによる操作であるようだ.
  • 種間比較によるとオスのトゲの発達具合とメスの生殖管壁の分厚さに共進化が認められる.
  • またヨツモンマメゾウムシのメスは性的ハラスメントによるコストも受けている.10世代以上一夫一妻系統と多夫多妻系統を分離して人為淘汰をかけると,一夫一妻系統のオスのトゲが短くなり,増殖率が高くなる.また性比を変えて人為淘汰するとオスの多い系統で免疫機能が低くなった.
  • さらにヨツモンマメゾウムシのメスは精液による有害作用にも晒されている.これは交尾受容性を低下させるための物質の影響だと思われる.
  • このような多面的なコストがありながら何故メスは多回交尾に応じるのか.
  • 当初多回交尾でヨツモンマメゾウムシのメスの寿命は短くなると報告されたが,その後の多回交尾のメス寿命に与えるリサーチの結論は割れている.しかし産卵数は増加する方向で一致している.精液中にある栄養分や水分の吸収による効果であるようだ.なおここの部分の詳細は実験手続きの考察も含め特に面白い.近縁のアズキマメゾウムシとの間でこのあたりには大きな差があるようだ.
  • またヨツモンマメゾウムシのメスに多回交尾による間接的利益はなく(むしろマイナスの影響があり),子の質(成虫になる子の数)を低下させるオスの方が受精成功率が高い.これは傷を負わせて産卵数を減らしてしまうオスの受精が有利になるためかもしれないし,オスから見て受精成功と子の質のトレードオフがあるからかもしれない.後者の場合には遺伝子座内性的対立の状況が生じている可能性がある.
  • 多回交尾は隠れた選択により近親交配を避けるメリットをもつのかについて調べてみると,ヨツモンマメゾウムシには隠れた選択による近親交配の回避は見られないが,アズキマメゾウムシは近縁個体と交尾した後は再交尾に応じやすくなり,隠れた選択を行っている可能性があることが示唆された.
  • 一方多回交尾はメスにとって適応的であるとは限らないという主張もある.オスの多回交尾への適応形質と遺伝相関を持つ遺伝子座内性的拮抗状況であるかもしれないからだ.しかしアズキマメゾウムシで検証した結果遺伝相関は否定された.
  • またメスにとっては多回交尾を避けようとするとより大きな性的ハラスメントコストがかかるのでやむを得ず受け入れているのかもしれない.アズキマメゾウムシではそれを支持する事例が見つかっている.

この一連のリサーチは,調べてみると予測を裏切るような意外な結果が得られ,それについてさらに詳しく調べるということの繰り返しであり,リサーチのリアリティが感じられ,実に奥深い.特にメスにとっての多回交尾の得失については非常に掘り下げられており読み応えがある.またBoxで遺伝子座内性的対立についての概説(全く同じ遺伝子座にあるアレル同士の対立でなくとも遺伝相関があれば理論的にそう見なせる.),学説史(かつては希な事象と思われていたが,かなり普遍的に見られる現象であることがわかってきた)なども取り扱われていて充実している.

本書は最新の性役割決定理論の解説,各性淘汰理論の明晰な整理,そして2つの実に興味深い実証リサーチの紹介が収められ,真に充実した書物になっている.行動生態学を学ぶ人にとってはデイビス,クレブス,ウエストの教科書の第7章から第10章までの副読本として最適だろう.優良遺伝子説についてのより突っ込んだ解説がないことだけが残念だが,それ以外については全く素晴らしい本だ.性淘汰に興味関心のあるすべての人に推薦する.



補足
オスの派手なディスプレーの進化について私が真に重要だと思うグラフェンの論文(1990)についての私の読解はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20070827以下に載せている.


関連書籍


現在最も充実している日本語による行動生態学の教科書.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20150505

デイビス・クレブス・ウェスト 行動生態学 原著第4版

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数理生物学者の手による行動生態学理論の数理的な解説書.充実した素晴らしい本だが,性淘汰理論に関してグラフェンの業績について触れていない.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20130116

進化生態学入門 ―数式で見る生物進化―

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交尾行動ではなく交尾器に焦点を絞って精子競争と隠れた選択を解説した一般向けの本.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20160315


トリヴァース自伝.コンコルド誤謬についてドーキンスから指摘された顛末が載せられている.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20151230 コンコルド誤謬の指摘の顛末はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20151128参照

Wild Life: Adventures of an Evolutionary Biologist (English Edition)

Wild Life: Adventures of an Evolutionary Biologist (English Edition)

*1:どうしてこのような題名にしたのだろう.検索に不用意に「交尾」と入れると大量のエロコンテンツにヒットするので,それを回避するために妙に気を使わざるを得ないのが少し面倒だ.

*2:本書ではこの理論的誤りについて日本語の解説は見当たらないようだとある.私が知る限りでは性役割についての簡単な解説はデイビスたちの行動生態学第4版邦訳本の第8章に書かれている

*3:ドーキンスコンコルド誤謬を指摘された顛末についてはトリヴァースも自伝で語っている.既に投資した量の多寡を単純に問題にするのは確かに間違っているが,既に投資した量が将来の繁殖機会を制限しているような場合にはこの説明が成り立たないわけではない

*4:具体的にはこのモデルでは,メスが子育てをしオスが遺棄する場合にオスはよそでの繁殖機会があることになる.しかしその相手のメスはどこにもいないのだ.

*5:成功率の高いオスのみが子を持つことができ,子育て投資をするかどうかについての淘汰圧を受ける.交尾できないオスはそもそも子育て投資を行うかどうかに関与しない

*6:一回血縁個体と交尾することが将来的な繁殖成功の減少にどの程度つながるか(血縁個体との交尾を拒否することのメリットの大きさ)が両性間で異なる場合などにそうなる

*7:ウォレスがダーウィンのメスの美的感覚に基づく選り好み性淘汰に懐疑的だったのは,何故メスがそんなものを好むようになるのかについてダーウィンが説明できなかったからだということはダーウィンとウォレスの書簡集,及びウォレスの「ダーウィニズム」を読めばわかる

*8:そして実際に多くの同所的に分布する隠蔽種が知られている

*9:なおこの部分は「(潜在的)ディスプレー形質 t」と「実現されたディスプレー形質 v」が何を意味するかの説明がなく,しかも最後にいきなり「実現されたディスプレー形質」が登場するので解説としては少しわかりにくい.

*10:オスの実現されるディスプレー形質が遺伝のみで決まらずにオスの条件依存戦略で決まるというフレームをとり,優良性に対する増加関数として条件依存的に決めるという戦略が進化できることを示したもの

*11:なおグラフェンの1990年論文自体については,優良遺伝子説がなお主要な理論であり続けているという箇所でザハヴィ,ハミルトン,ポミヤンコフスキー,巌佐と並んで参照されているが,解説はない.そして巌佐論文についてのみ補遺で詳しく紹介する形になっている

*12:実際に一部の行動生態学者には「優良遺伝子説は連鎖不平衡がない限り成り立たない」という誤解が見られるようである.

*13:もっともメスが全長で選ぶなら,オスに対してはコストを抑えた全長の伸ばし方に淘汰圧が掛かるから,(捕食圧等に関して同じようなトレードオフの環境下にあれば)尾の長さ自体はオスの優良性に関する正直なシグナルになるはずではないかと思われるが,そのあたりの解説はない.そもそも同じ環境下のオス集団は全長と尾の長さの比率に関してどのぐらい分散を持つのだろうか.もし集団内のオス個体間でこの比率が異なっているとすると,確かにそれはハンディキャップシグナルになっていないことになるが,何故尾の短いオスは尾を伸ばすような淘汰を受けなかったのだろうか.あるいはそれは交尾戦略の多型として(尾の短いオスには別のメリットがあるという形になっているとして)理解されるのだろうか.いろいろ興味は尽きないところだ.

*14:メスは両側を見せるオスをより好むことによって簡単にこの騙しを回避できそうなものだが,なぜそうなっていないのだろうか.

*15:なお実験室の操作実験リサーチにはよく「自然のフィールドでは異なるのではないか」という意見が寄せられるそうだ.著者はそもそもマメゾウムシは現在では貯蔵穀類に適応した生活環を持っていて何が自然かも判然としないとコメントしている.