Language, Cognition, and Human Nature 第5論文 「自然言語と自然淘汰」 その4


ピンカーの言語進化論文.本論はまずグールドの怪しげな進化理論の批判から始まる.ここまではスパンドレル論文の主旨を簡単に要約し,それを拡大解釈した「適応主義的な進化理論は外適応をベースとしたよりよい進化理論に代替される」などの主張は棄却すべきだと主張してきた.

2.2 非適応的な説明の限界 その2

ではどのような理由でグールドを退けるべきなのか.ピンカーはこう始める.

  • グールドとルウォンティンによる適応主義への批判に対して指摘すべき根本的なポイントは,「自然淘汰は適応的複雑性に対する唯一の科学的説明である」ということだ.
  • 「適応的複雑性」とは,多くの相互作用するパーツからなるシステムで,パーツの構造や配置の詳細のデザインが何らかの機能に基づくデザインを示唆するものを指す.(ここで脊椎動物の眼が例としてあげられている)ダーウィン以前には(ペイリーが代表的だが)これらのデザインは神意を受けたデザイナーの存在の証拠と考えられた.ダーウィンはこのような途方もない完成度と複雑性を持つ器官が自然淘汰という純粋に物理的なプロセスから生まれることを示したのだ.
  • 本質的なポイントは自然淘汰以外のどのようなプロセスも眼のような器官の進化を説明できないというところだ.その理由は,眼のような構造は,そのパーツとなる物質の配置確率が極端に低いものであることだ.ほとんどの生物的物質配置はまず間違いなく,映像を焦点に結び,十分な光量を得,境界線に反応することはできない.ドリフトでそのような配置が得られる遺伝子群が固定される確率はほとんど無限に小さいし,事実上奇跡の範囲に入ってしまうだろう.そしてそれはグールドたちが示唆するその他の非適応的なメカニズムにも同様に当てはまる.(この後それぞれのメカニズムで眼のようなものが作られるはずがないことを具体的に説明し,自然淘汰が唯一の説明であることをもう一度強調する)

この部分は何度も何度も自然淘汰が適応的複雑性についての唯一の科学的説明であることを繰り返しており,ピンカーが想定読者たちがグールド的世界に強くとらわれていることを深く案じていることが伝わってくるようだ.ここからは初歩の進化学講義になる.

  • ここまでの議論ですべて完璧というわけではない.それは「機能」と「デザイン」という少し直感的な概念によっているからだ.懐疑論者は,それは循環論法ではないのかと指摘し,なぜ粘土のかたまりはまさにその形のためにうまくデザインされているといえないのかと問うかもしれない.しかし循環には少なくとも3つの切れ目がある.
  1. 第1に,生物学者は存在するシステムよりはるかに少ない機能を考えればいいだけだ.新しい機能はすべての器官ごとに作られるのではない.
  2. 第2に,すべての機能は,因果の連鎖によって別の機能につながり,最終的には生存と生殖という機能に結びつく.
  3. 最後に,収斂進化と,同じ機能を持つ人工物のデザインとの類似は,デザインに独自の基準を与える.
  • そしてデザインについての現代的な議論の面倒な定式化にかかわらず,実際の現場ではそれはほとんど問題にならない.グールド自身,循環論法非難には反論し,脊椎動物の眼は自然淘汰産物だと認めているのだ.おそらくそのためにグールドとルウォンティンも「自然淘汰が最も重要な進化メカニズムだ」と認めているのだろう.


次は淘汰的説明と非淘汰的説明の関係性について

  • では進化における淘汰主義と非淘汰主義の正しい関係はどんなものになるのだろうか.
  • 最もつまらないのは機能を持たない純粋のスパンドレルだ.血液の血が赤いこと,指と指の間がV字型になることなど.これらは生物の種特異的な行動や機能を何も説明しない.このような特徴はいくらでもあるだろう.
  • より面白いのはスパンドレルが修正されて使用されるようになっているケースだ.この場合には淘汰が重要な役割を持つ.4つのアーチの上にドームを乗せればスパンドレルが得られる.しかしそれだけではそこにモザイク画は現れない.天使が描かれるにはデザイナーが必要なのだ.スパンドレルや外適応や成長の法則は,その上に自然淘汰が働く基本的なプランやパーツや材料を説明するのだ.
  • 自然は白紙の上に何かを描き出すデザイナーというより,(与えられた材料を叩いたりつないだりする)鋳掛け屋なのだ.非適応的に形作られた形質は,通常単純な法則を反映したただひとつの部分か,あるいは同じものの繰り返しだ.しかしそのようなものの上に自然淘汰が働くと,それは修正され組み合わされ,精妙な機能を果たすようになる.
  • 真の淘汰なしの進化産物といえるのは,(自然淘汰によって)修正されていないスパンドレルということになる.グールドはそのようなものの例として,水面に影を作って魚を捕る水鳥の翼を挙げている.淘汰なしで役に立つこのような進化産物の可能性が,グールドとルウォンティンの議論が意味する最も興味深い含意ということになるだろう.
  • しかしこのような修正なしのスパンドレルには制限があることに注意が必要だ.影を作る翼というのは,飛翔のために精妙に配置されたデザインが,ほとんどどんなものでも利用可能な目的に(外適応として)使われている例に過ぎない.(ピンカーは似たような事例として「(壊れた)コンピュータが文鎮として使える」という例をあげている)もし逆の例があるなら(例えば昆虫のソーラーパネルが翼になったという仮説のような例では)自然淘汰が効いているに違いないのだ.


ここからピンカーの嘆き節だ,グールドを権威として信じ込んでいる当時のアメリカ東海岸の認知科学周りのアカデミアの雰囲気がよくわかる.

  • ここで自然淘汰の基準についてくどくどと説明しているのは,これらのことが本当に誤解されやすいからだ.私たちはここまで述べてきたことで,現代の進化生物学はピアテリ=パルマリーニの「言語と認知は私たちの種の最も顕著で最も新奇な生物学的な特徴であるので,・・・それがおそらく全くの外適応的メカニズムで進化しただろうということを示すのは非常に重要だ」という結論に決してお墨付きを与えたりしないことを示せていることを望んでいる.
  • そしてピアテリ=パルマリーニは決して例外ではない.私たちは認知科学者たちとの多くの議論の中で,「適応」や「自然淘汰」が議論にふさわしくない単語(dirty words)と扱われていることを発見した.これらを示唆すると「ナイーブな適応主義者」あるいは「進化の誤解者」として非難されてしまうのだ.最悪な場合「なぜなに物語」を語る「パングロス博士」として嘲笑の対象になる.
  • 進化における自然淘汰の役割についての全く議論の余地のない重要性を考えると,これは真に不幸な状況だ.おそらく多くの人々は進化理論についての知識をグールドのエッセイのみを通じて得ているのだろう.これらのエッセイ群にある進化の考え方は,現在の高校や場合によっては大学で教えられているダーウィン理論の19世紀バージョンよりは洗練されている.しかしグールドは,現在の進化リサーチの主流にあるバランスのとれた見方ではなく,革命を煽りあげ,そのため容易に誤解される.そして彼のエッセイでは,どのようなときに自然淘汰を考察すべきであるか,適切であるかについては全く触れられていないのだ.


「なぜなに物語」攻撃についても嘆き節がある.当時は適応仮説を持ち出すと反射的にそれは反証不能で非科学的だと攻撃されたのだろう.

  • このような人々の態度は,自然淘汰についての方法論的な懐疑(自然淘汰の主張は,ある説明が失敗してもいくらでも別の説明を思いつけるので,実質的に反証不能で,その結果非科学的なのではないか)とセットになっている.
  • グールドとルウォンティンが,生物学者や心理学者は容易に信じがたい仮説に飛びつくとコメントしているのは正しいのかもしれない.しかしそれとロジックとしての適応主義の成否とは別の問題だ.軽薄で信じがたい提案はどんな理論からも出てくる.そもそも言語進化の研究についての悪い評判は,あまりに多くの馬鹿げた「非適応的な」起源仮説(ピンカーは具体例をいくつか挙げている)が提唱されたからだ.
  • 特定の適応仮説は原理的にも実証的にもテスト可能だ.問題の形質とそれが機能する環境条件の相関をテストすることもできるし,様々な形質を持つ個体の繁殖価を実際に計測することも不可能ではない.
  • もちろん,自然淘汰理論全体は,特定の仮説に問題があっても別の仮説構築が可能だという(つまらない意味で)は反証不能だともいえる.しかしそれはスケールの大きな科学理論に共通する特徴だ.
  • そして非適応主義的説明こそ,中身のなさという重大な問題を抱えているだろう.特定の適応主義的仮説は時に馬鹿げているかもしれないが,それらは通常生物学的物理的な理解の範囲内にあり,単にどの仮説が正しいかの証拠を欠いているという問題に過ぎないことが多い.これに対して非適応主義的仮説は,未だ知られていない何らかの法則を持ち出し,要するに無内容で,反証不能になりがちなのだ.