協力する種 その6

協力する種:制度と心の共進化 (叢書《制度を考える》)

協力する種:制度と心の共進化 (叢書《制度を考える》)

訳者たちによる解説 その6

本書をめぐる論争 各論 パート2 (解説:高橋伸幸)

3番目の論点は「ヒトには『強い互恵性』という社会的選好」が協力行為を起こす至近的メカニズムとして存在するのだという著者たちの主張だ.ここは理論というよりヒトにどんな性質があるかという事実の問題であり,解説も高橋が担当している.

各論3-1 強い互恵性の概念をめぐる激しい論争

「強い互恵性」は見知らぬ人にも親切にすることや,非協力者に対し利他的な罰を与えるようなヒトの傾向を指し,本書の最重要概念になる.

  • 著者たちは「ヒトは強い互恵性という社会選好を持ち,それは進化の過程で獲得した」と主張している.これは10年以上激しい議論を招いているトピックになる.
  • 本書ではこれに対する反対論があまり書かれていないが,様々な反対論がある.これについて実験研究からの批判とフィールド研究からの批判に分けて解説する.
各論3-2 実験研究からの批判
  • 多くの実験研究者は,本書で「強い互恵性」の実証証拠とされている実験結果については認めているが,その解釈には大きな疑義を提出している.
  • 特に本書では「自分にとって利益がないあるいは不利益がある場合でも,そして将来の相互作用の可能性のない相手に対して親切にする」ことは,「自己利益最大化,血縁淘汰,直接互恵性,間接互恵性シグナリング」などでは説明できないと言い切っている.反対派の論点はここに集中している.
  • 例えば,実験の際に「匿名」だと教示されても,参加者には匿名でないように感じられたり,無意識に他人の目を気にしてしまうことが排除できないことは社会心理学者には良く理解されているが,著者たちはこの点に関してあまり敏感ではない.また例えば,本来自己利益最大化のための行動が,認知資源節約のためのヒューリスティックによっており,それは人工的な実験室環境で誤射してしまうという説明も可能である.要するに著者たちが棄却できたと考えている代替説明は棄却できていないという批判が強いのだ.
  • この点は本書の主張の根幹にかかわる.本書の主張は「強い互恵性を持つ集団は内集団成員への利他行為を行い,それが集団間の争いで有利になる」ということになる.しかし実験室で作られた「内集団」は,日常的によく相互作用するわけでも血縁度が高いわけでもより情報が得られるわけでもなく,ましてや運命共同体などではなく,実質的に何の意味も持っていない.要するに想定されている進化的内集団になっていないのだ.つまりこのような人工的な内集団で「誤射」が生じているというのが強い互恵主義者たちの主張になる.であれば,間接互恵性などが「誤射」されているという可能性も棄却できないはずである.
  • 要するに著者たちの論理は,強い互恵性という説明のみに対して甘く,それ以外の説明に対して厳しすぎるように見えるのだ.


高橋の指摘は,要するにボウルズとギンタスはあまりに社会心理学の知見に対してナイーブであり,しかも仮説の棄却に対して自説のみに対して甘いということだ.このナイーブさは本書を読んでいて非常によく感じられるところだ.単に「匿名」と教示されただけで,(実際に実験者が知ることができる環境下で)何をしても自分の評判には絶対に影響しないと(無意識も含めて)認識して行動すると考えるのはあまりにもナイーブだろう.私の基本的な印象は,彼等は自分たちの「美しい」仮説に目がくらんで周りが見えなくなっている状況にある可能性が高いというものだ.


高橋は指摘していないが,私の本書を読んだ印象では,彼等のこの脇の甘さは,進化的な議論についての理解の浅さとも関連しているように思う.端的に言うと彼等は直接互恵性,間接互恵性,血縁淘汰などの究極因の説明を至近因的な説明だと誤解している.(そしてしばしばこれらをマルチレベル淘汰の対抗仮説ではなく,「強い互恵性という社会的選好の存在」への対抗仮説だと扱っている.)だから例えば間接互恵性の説明に対して「匿名と教示されればそれを認知した上で評判形成への影響を判断し,その上で合理的な手を意識的に選択」していなければこの仮説を棄却できる(そしてそもそもそれは意識的な選択でありヒューリスティックにはならないのだから誤射があり得ない)とするのだろう.そして自分たちのマルチレベル淘汰的な説明は究極因の説明だから誤射可能だということになる.
ここまで考えるとこの「誤解」はあまりにも彼等の主張にとって都合が良く,もはや単にナイーブというよりも自らの仮説主張に有利なために自己欺瞞的に目がくらんでいるのかもしれないとまで感じさせる.


この「ナイーブさ」あるいは「自己欺瞞的狡猾さ」は本書を読んでいて非常に目に付くところだ.本書の主張の本筋であるマルチレベル淘汰的説明の中でも,著者たちによる「代替仮説に全く考慮を払っていないような記述」は散見される.全体にそのあたりについてのボウルズとギンタスの態度には本当にイライラさせられるというのが私の感想でもある.

各論3-3 フィールド研究からの批判
  • フィールド研究者たちからの批判は主に2点ある.
  • 1つは,定性的モデルであるはずのものが定量的に扱われていることに関連している.まずパラメータの値が少し異なっただけでも結果が大きく異なる可能性があるにもかかわらず,結果の頑健性についての検討が不十分だという批判がある.
  • そしてそもそも代入されているパラメータ値が妥当かどうかについても問題があると批判されている.著者たちは進化環境におけるパラメータ値の推定について,専門の研究者の論文を引用して議論を組み立てている.しかしその選択についてバイアスがある(チェリーピックしている)という批判がある.具体的には著者たちは進化環境における死因について集団間の闘争によるものが多いと主張しているが,死因の多くは個人的な殺人であるという反論がなされている.(Fry and Soderberg 2013)
  • もう1つの批判は,そもそもフィールドでは「強い互恵性」を支持する証拠はほとんど観察されないという指摘だ.グァラ,及び多くの人類学,経済学,考古学などのフィールド研究者が,利他的でコストのかかる罰のフィールドデータはほとんどないと指摘している(Guala 2012他多数).実際の小規模な平等主義的社会で見られる協力問題を解決するための罰は,(実験室実験でなされるような「各個人が自発的にコストを背負い,ターゲットの資産を差し引く」ようなものではなく)コストを最小限化し,かつフリーライダーへの罰はなるだけ避けるようなものであり,よく見られるのは「まず口頭での注意,陰口,それで効果がないときには社会的関係からの排除(村八分)」だというのだ.
  • また実験室で利他的罰で協力が可能になるからといって,現実社会でもそれで協力が維持されているとは限らない.
  • 本書でも実は第8章でコーディネートされた罰というメカニズムが登場しているが,それは「強い互恵性」で想定されている罰とは極めて質的に異なる行動であることに注意が必要だ.


高橋(そしてフィールド研究者たち)の指摘はもっともで,一見著者たちがスロッピーであるようでもある.しかし実験室では利他罰が観察されることは事実だし,(自省的考察においても,SNSなどの書き込みをみても)我々には(特に匿名であれば)「フリーライダーを罰したい」という強い感情があると信じる理由があるのも確かだろう.
おそらく顕名の罰は(特に小規模社会では)報復を招く可能性が高く,しかも小規模社会では匿名で罰を与えるのは極めて難しい(いつどこでばれるかわからない)ため,実際に生じる罰は極めて文脈依存的になるということだろう.あるいは極めて匿名性が強い場合にのみ利他罰を行うのであれば,フィールド研究者がそれを目撃することはまず期待できないということなのかもしれない.このあたりは罰を考えるときの難しさだという気がする.

各論4 社会科学全般に対する含意

高橋は最後に,科学の主張を越えた,政策面への含意についてコメントしている.

  • 本書でなされる主張は極めて野心的なものであり,政策への含意も持っている.
  • 著者たちは,注意深く直接的な言及を避けているが,本書の主張をそのまま敷衍すれば「中央集権化された罰システムがなくても,各個人の自発的利他罰により協力は保たれる.だから政府は各個人の「強い互恵性」社会選好を推奨すべきだ」ということになるだろう.
  • しかし本当にそれでいいのだろうか.本書において協力へのメカニズムとして否定された「罰コストの引き下げ」「罰と自己利益のインセンティブ適合性の強化」「将来の相互作用可能性の押し上げ」「他者行動情報の共有システムの構築」は否定されるべきなのか.フィールドデータはまさにこれらの「古い」解答こそ重要であることを示しているように見える.
  • また(著者はそこまで主張していないとしても)「『強い互恵性』の発動にまかせる」という態度は偏狭な行動を促進しかねない.結局「強い互恵性」とは内集団のための自己犠牲を指すのだから,それは全体主義の主張に極めて近いものだ.社会科学者としては,読者が主張を極端に解釈して自然主義的誤謬に陥る可能性にもっと配慮すべきではないのだろうか.
  • そもそも著者たちはラディカル政治経済学の旗手たちであり.本来革新的リベラルであるはずだが,何故このような自らの立場と正反対である全体主義的な主張を行うのだろうか.私(高橋)はこのことについて10年以上も疑問であった.しかし本書を訳してみて,彼等が一貫しているのは「中央集権化された権力装置に対する反発」なのだと感じるようになった.


本書で書かれているのは,協力の進化が過去こういう過程をたどっただろうという仮説だ.そして現在の人類社会は進化環境とは異なる状態なのだから,進化環境で有効だったメカニズムを強化することが有用であるとは限らない.だから本書の主張について現代社会への全面的適用の政策的含意を読み取ること自体,かなりむちゃくちゃな議論だろう.各個人による自発的な利他罰というのは,各個人が勝手に私設警察,私設検察,私設裁判官になって他人を自由に裁くということだから,法治主義の全否定にほかならない.
ただし何らかの自治的な小集団という限られた局面への応用という面では考えられなくもない.そしてその場合には彼等の代替説明の棄却のスロッピーさから言って高橋の主張通りということになるだろう.


後段の「なぜリベラルのはずのボウルズとギンタスが全体主義的な主張を繰り広げるのか」という考察はちょっと面白い.私も常々,ヒトの利他性の説明についてグループ淘汰を熱狂的に支持するリベラル的な人々の議論が,突き詰めていくと全体主義的になるはずなのに,そのことを気にしていないとしか思えないことを不思議に思っていた.高橋の推測は面白いものだが,しかし「中央集権化された権力装置に対する反発」だとすると,これはリベラリズムというよりアナーキズムであり,むしろ逆にリバタリアン的にもなりうるのではとも思ってしまう.
結局協力を進化的に説明しようとすると,直接互恵や間接互恵はどこまでも利己的な説明になるし,(彼等の誤解による)血縁淘汰はネポティズム的で嫌だし,その中では「自分の属する集団のために協力する」というのが自らの道徳観に一番ぴったりくるということなのかなと思う.そしてそれが全体主義につながる道であるというのは自己欺瞞的に封印しているのではないだろうか.これも全く私の推測に過ぎないが,なかなかヒトの心の闇は深いということだろうか.


以上が訳者たちによる解説の骨子になる.準備は整い,得られた注意書きを胸に本書を見ていくことにしよう.