協力する種 その12

協力する種:制度と心の共進化 (叢書《制度を考える》)

協力する種:制度と心の共進化 (叢書《制度を考える》)

第3章 社会的選好 その4

3.10 協力すること,フリーライダーを罰することに人間は喜びを感じる
  • このような最後通告ゲーム,公共財ゲーム,信頼ゲームの結果を説明する至近因としては「人々は協力を正しいと考えて喜んで協力し,それを逸脱する人間を罰したいと強く感じる」というものだ.これを支持する脳のイメージング研究がある.(いろいろな知見が紹介されている)

ボウルズとギンタスはここから本章のまとめに入る

3.11 実験室と自然環境における社会的選好

ここで著者たちはこれらの実験室での結果をどう取り扱うべきかについてをまとめている.

  • 実験室実験の外的妥当性を示すいくつかの証拠がある.(実験での行動と実社会での行動の相関性が調べられ肯定されているリサーチがいくつか紹介されている.ゲームの選択と債務の返済傾向を調べたもの,ゲームの選択とエビ漁師の漁法漁獲協定破りの傾向を調べたものなど詳細はなかなか面白い.)
  • ただしゲームの選択が額面通りに実社会でも選択されかどうかについては反例がいくつもある.より緻密な検証には効果量や共分散を検討しなければならないが,人間を対象にした実験には,(1)被験者が観察されていることを知っている(2)現実世界には「匿名状況」があまりない(3)被験者が偏っている(4)実験には固有構造があることなどから来る限界(実験室の方が協力が誘発されやすい)があることは理解しておかなければならない.
  • しかしこのような懸念を勘定に入れても社会的選好が行動に対する重要な動機助であることが否定されるわけではない.


この2節で著者たちは「社会的選好」の存在を示したという整理なのだろう.至近因としてはおかしくはないだろう.この後著者たちの強引な記述が始まる.

3.12 その他の競合する説明


ここから高橋の解説でも指摘されていた著者たちのナイーブな代替説明の否定の議論だ.詳しく見てみよう.

最初の議論は,人々が利己的なナッシュ均衡的な手を選択しないのは「金銭的な報酬が少なすぎるからだ」「どんな行動が利得最大化に結びつくかについての学習が足りていないからだ」「プレーヤーは実験を良く理解していないからなのでは」という批判への反論だ.これは行動経済学者がよく批判されていた議論と同じだろう.この部分の著者たちの指摘はもっともだ.

  • 贈与交換ゲームにおいて,金額をある程度大きくしても,実験を繰り返しても,プレーヤーの反応があまり変わらないことが示されている.(囚人ジレンマにおいて大きな金額と繰り返しを試した実験は知られていない)
  • 公共財ゲームにおけるアンケートでは参加者が互いに協力する結果を望んでいることが示されている.これは1回限り囚人ジレンマにおける裏切りは,利己的動機よりも裏切られたくないという動機によると解釈できる.
  • 多くのゲームは非常に単純だし,実験者は教示が理解されているか確かめてから実験を進めるのが普通であり,参加者が理解していないとは考えにくい.


次の議論は匿名性の教示にかかるもので,高橋の解説で問題視されていたところだ.

  • 次の批判は「匿名状況で1回限りというのは日常にはなく,参加者が繰り返し状況だと勘違いしてタフな取引相手だという評判を打ち立てようとしている」というものだ.しかし私たちはこの指摘が正しいとは考えない.「1回限りであっても長期と同じように振る舞え」という学習をしてきた可能性は低く,私たちは長期にわたってつきあうであろう相手とそうでない相手を区別することにたけている.
  • 「他者を考慮する選好」と「他者から良い人だと思われたいという利己的な選好」を区別できないのではないかという批判もある.しかし匿名状況でもこのような行動が見られているからこの批判は当たらない.
  • 「目の効果」が実験で示され,間接互恵性の支持証拠とされている.しかし「見られているかもしれない状況で寛容に振る舞う」事実から「見られていると信じているときにのみ寛容に振る舞う」と推論するのは誤りだ.「目の効果」は「個人は自分自身のために道徳的価値を保持する」という私たちの考えに整合的だ.
  • 「目の効果」は独裁者ゲームでは見られるが,参加者の間に戦略的な相互作用がある社会的状況では「目の効果」があるという証拠はない.シュナイダーとフェールによる信頼ゲームでは効果は検出されなかった.


これはまさに間接互恵性の説明が至近因であると著者たちが誤解していることから来るものだろう.(1回限りと教示されたゲームにおける協力行動についての)間接互恵性の説明は,プレーヤーが意識的に「(繰り返し状況だと)勘違いしている」ことを求めない.進化環境においてどのようなヒューリスティックが平均して有効だったかが問題になるのだ.その意味では「少なくとも目撃者(実験者)がいて,彼あるいは彼女が口先で誰にも教えないと約束している」ような状況で,わずかな利得に釣られて(その後重大な影響があり得る)評判を傷つけるようなことを安易に行うという行動が採られるようになると考えるのはあまりにナイーブだということになるだろう.
「目の効果」についてのとんちんかんな反論はさらに理解に苦しむところだ.なぜ「見られているかもしれないときに寛容に振る舞うこと」が評判を高めようとする行動ではないと考えるのだろうか.評判が長期的に大きな影響を与えるなら(そしてそれは進化環境でもそうだっただろうし,現在の社会状況でも大いに当てはまるだろう),評判を落とすリスクのある行動を避けようとするのはむしろ当然であり,意識的に行っていたとしても十分に合理的だ.また「目の効果」は相互作用があるゲームでは見られないとしているが,少なくとも公共財ゲームでは観測されているし,この効果が有名になったドリンクサーバの料金BOXへの代金投入はリアルな状況だ.著者たちの「目の効果」に対する反論はやや常軌を逸しているように思われる.
ここに批判者の批判が集中するのは当然だという感想だ.