Enlightenment Now その6

第2章 エントロピー,進化,情報 その2

ピンカーはここまでに18世紀の啓蒙運動を21世紀版にするために有用なアイデアとしてエントロピー,進化,情報を提示し,それらによる世界の理解を解説した.ここからがそれを用いた啓蒙運動の記述になる,

  • エントロピー,進化,情報.これらのコンセプトは人類の進歩の物語を明確化する.私たちは悲劇の中に生まれ,そしてより良いものを苦労して手に入れてきたのだ.
  • 智恵の最初のピースは「不運は誰のせいでもないかもしれない」というものだ.科学革命の最大のブレークスルーは「宇宙は目的によって満たされている」という直感を論破できたことだ.この(誤った)直感に従えば,「すべての出来事には理由があり,何か悪いことが起こったのなら,何らかのエージェントがそれを望んだからだ」ということになってしまう.それは容易にマイノリティの誰かを名指しして罰することに結びつく.それはさらに魔女狩りへ,怒り深い神への生け贄へとつながっていくのだ.
  • ガリレオニュートンラプラスはこの道徳的宇宙を時計仕掛けの宇宙に置きかえた.そこでは現在の状況は,誰かの目的ではなく過去の条件によって定まるだけだ.人間はゴールを持つ,でも宇宙にそれがあると思うのは間違っているのだ.
  • この洞察はエントロピー概念の理解によりさらに深まった.宇宙には目的はない.そしてそれだけではなく,自然の物事の成り行きは秩序がなくなる方向つまり悪い方向に傾いているのだ.そしてさらに進化概念を理解することにより理解は深まる.捕食者,寄生者,病原体は常に私たち自身を,そして害虫や腐朽菌は常に私たちの所有物を食べようとするのだ.
  • 「貧困」自体説明不要なものになった.エントロピーと進化に統治される世界ではそれはデフォルトの状態に過ぎない.物質が自発的に食糧や待避所になるわけではない.生物は自分が誰かの食物になるのを何としても避けようとするだろう.説明が必要なのは「富」の方なのだ.にもかかわらず,今日,事故や病気については犯人がいるわけではないことをみな理解しているが,貧困の議論が始まるとほとんどの場合犯人捜しに終始することになる.


不運はただ偶然生じることがあるというのは,現代では特に天災についてはある程度常識的な認識だが,それでもヒトはそれが何らかのエージェントの悪意により生じたのではないかと疑いやすい.それは進化環境ではある程度適応的だったのだろう.そして私たちは常にそのことを自覚して対処すべきなのだろう.特に自己欺瞞と組み合わさると自分にとって都合の良いスケープゴートを探す方向に向きやすいので注意が必要だと思う.

  • もちろん,以上のことは自然界に悪意がないことを意味するわけではない.自然淘汰は競争の世界だ.それでも現代の進化生物学は協力や利他性が利己的遺伝子によって進化しうることも説明できる.しかしそれには条件と限界がある.個人個人で遺伝的組成は異なり,そこには遺伝的な利害のコンフリクトがあるからだ.
  • エントロピーの概念は,生物個体のような複雑なシステムは機能不全に陥りやすいことを教えてくれる.だから石による一撃,首の周りの手,よく狙った毒矢で簡単にライバルを無力化できる.言語を持つ生物にとってより魅力的なことに,暴力の使用をほのめかす脅しによってもライバルを出し抜ける.そしてこれは抑圧と搾取につながる.
  • 進化は私たちにもう1つ重荷を負わせている.私たちの認知,感情,道徳的能力は,進化環境において個人が有利になるように適応しているのであって,現代環境でみなが幸せになるために適応しているわけではない.だから人は(自然に放っておくと)文盲であり,数量音痴であり,いい加減な当て推量者なのだ.(フォルク物理学や統計確率音痴の例がいくつもあげられている)
  • ヒトのモラルセンスも私たちの幸福のために働くわけではない.我々は意見の合わない他者を悪魔のように扱う.意見が合わないのは相手が愚かであり不正直だからと非難する.すべての不運にスケープゴートを探し求める.部族団結主義や性的マイノリティであることをモラル問題としてライバルを貶めるために使う.そして時に暴力をモラルに合致すると認めるのだ.


ここでヒトの利他性の進化について(書こうと思えばいくらでも書けるはずだが)あまり深入りしないのが抑制的で大局をみているピンカーの渋いところだ.結局本書の目的は現代における啓蒙運動の重要性の指摘だ.そしてそれは進化によって得たヒトの利他性は条件依存で制限的なものにとどまっていて,それだけに頼るわけには行かないからこそということになる.だから啓蒙運動は進化適応としてのヒトの利他性ではなく,理性と科学とヒューマニズムに頼るのだ.

  • しかし我々はどうしようもないほど悪であるわけでもない.ヒトにはその限界を超えるために使える2つの認知的特徴がある.
  • 1つは抽象化能力だ.これは思考の要素になり,さらにアナロジーやメタファーの使用を可能になる.
  • もう1つは組合せと再帰の力だ.アイデアを組み合わせ,命題を再帰的に構成できる.
  • そして抽象的で組み合わされた思考は,言語をもちいることにより思考家のコミュニティにおいて共有できる.そして文字の発明によりその共有ポテンシャルは巨大化した.
  • 広く連結されたコミュニティが姿を現すと,その中で互いの利益になるような組織化の動きが始まる.
  • ある人にとって正しいと思われることは別の人にとってそうではないかもしれない.それは真に正しいことを知りたいという欲求を生む.徐々にコミュニティには,「議論によって決着をつける.自分が正しいと主張するには理由の提示が必要であり,相手の信念の誤謬を指摘することは許されるが,暴力的に黙らせることは許されない」というルールを作り出していく.そのようなルール群こそが科学なのだ.そのもとでは合理的な思考がはぐくまれていく.
  • コミュニティの智恵はモラル感覚の上昇ももたらした.大きな集団が互いにどのように振る舞うべきかを協議すると議論はある方向に向かって収束する.自分が何かをしたいときに,自分が自分であることがその特権の理由にはならないということが明らかになるのだ.そして互いに相手を害することを認めるのは自分の益よりも皆から被る害の方が大きくなるので選択肢にならない.だから社会契約を結んで利害構造をポジティブサムゲームにするようになる.誰も相手を傷つけない,そして助け合いが推奨される.
  • だからヒトの本性には多くの欠点があるにもかかわらず,それは改善の芽を宿してもいるのだ.それは規範と制度を通じて偏狭な心をユニバーサルな利益への関心へと振り向ける.これらの規範には「言論の自由」「協力」「コスモポリタニズム」「人権」「ヒトが過ちを犯しやすいことを認めること」などが,そして制度には「科学」「教育」「民主政府」「国際機関」「市場」などがある.そしてこれらが「啓蒙運動」の主な知的遺産であることは決して偶然ではないのだ.


啓蒙運動は理性と科学とヒューマニズムに立脚し,それは規範と制度を通じて進歩を形作るというわけだ,ピンカーの物事の本質を見抜いて物語を組み立てる手腕はやはり見事なものだ.