Enlightenment Now その7

第3章 反啓蒙運動

第3章においてはピンカーはこの啓蒙運動を否定する勢力の説明を行う.彼等の批判が馬鹿げたもので,人類の進歩にとって有害であることを示すことが本書の究極的な目的だ(これは第3部でなされる).ここではまずこの敵がどんなものかが説明される.

  • (これまで説明してきたことを受けて)一体誰が理性,科学,ヒューマニズム,そして進歩に反対できるのだろうか.これらは学校,病院,慈善運動,報道機関,民主政府,国際機関などの現代制度の使命を定義している.これを今更擁護する必要などあるのだろうか.
  • あるのだ.1960年代からこれらの制度への信頼は低下し始め,2010年代にはポピュリストが勢力を得ている.彼等は啓蒙運動の理念を馬鹿にし,部族主義,権威主義を指向し,専門家とその知識を見下し,牧歌的過去へのノスタルジアを表明する.しかしこれらの主張は2010年代に突如始まったものではない.理性,科学,ヒューマニズム,そして進歩への嘲りは.エリート知識人と芸術的文化の中に長い伝統を持つ.
  • 啓蒙運動へのよくある批判はこれは西洋的価値観であり,世界の多様性には対応できないというものだ.これは二重の意味で間違っている.そもそも理念のメリットはそれがどこで生まれたかに関係がない.そして啓蒙運動は西洋の主流の理念であり続けたわけではない,もし本当にそうであったならどんなに良かっただろう.啓蒙運動の直後に反啓蒙運動が生まれ,西洋はそれ以降二分されたままだ.


ここからピンカーはこの反啓蒙運動の長い歴史を語る.

  • ロマン主義は特に激しく啓蒙運動を押し返した.ルソー,ヨハン・ヘルダー,フリードリヒ・シェリングたちは「理性と感情が区分できる」「個人はその属する文化を離れて思考できる」「時代や場所を越えて通用する価値がある」などの考えを否定した.彼等は「ヒトは,文化,人種,国家,宗教,精神,歴史的力などからなるなにか有機的な統合体」であり,英雄的な闘争こそが至高の善であると考えた.ボードレールはこう言っている「敬意を払うべきは僧侶,戦士,詩人だ.知り,殺し,創るために」.
  • これは狂気のように感じられる.しかしこの21世紀の知的エリートにもこのような反啓蒙運動理念が色濃くみられるのだ.
  • 最も明白なのは宗教的信仰だ.そもそも信仰とは合理的根拠なく超自然を信じることであり,定義から理性と対立する.そして宗教は人の幸福よりも上にある道徳的善を認めることで,また(特に死後における)魂を生命より重視することでヒューマニズムとも対立する.さらに科学とも対立することはガリレオからスコープス裁判,地球温暖化や幹細胞リサーチを巡る状況からも明らかだ.
  • 2番目の反啓蒙運動アイデアは「個人は(部族,民族,宗教,階級,国家などの)超個体の使い捨て可能な細胞に過ぎず,至高の善はこれら集合体の繁栄にある」というものだ.そのもっともわかりやすい例がナショナリズムだ.ナショナリズムを市民的価値,公共心,社会的責任などと混同すべきではない.個人が多くの人々のために利己心を捨てることは賞賛されるべきことだ.しかし個人がカリスマ的リーダー,国旗,地図上の領域のために究極の犠牲を強いられるのは全く別のことだ.
  • 宗教とナショナリズムは政治的右派の特徴であり,そのような政治的権力の元にある数十億の人々に影響を与え続けている.しかしながら左派がマルキシズムと融合したナショナリズムに親和的だったのはそう遠い昔ではない.そして今日でも左派の多くはアイデンティティポリティシャンや社会的正義のための戦士による「人種やジェンダーの平等のために個人の権利を否定する」ゼロサム的視点からの活動を支持している.
  • 宗教も右派左派を越えた支持を得ている.聖書の真実を支持することには熱心ではないライターも,科学や合理主義が道徳について何か言うことがあるというアイデアには敵対的だ.信仰を擁護する者たちは「何が問題なのかを決められるのは宗教だけだ」と主張する.そうでなくとも,しばしば「我々のような洗練された人間は宗教など不要だが,大衆には必要だ」とか「宗教はヒトの本性の一部だから,それが無い方が人類のためだとしてもそれを語るべきではない」などという主張はよく見られる.これは啓蒙運動の希望をあざけるものだ.
  • 左派は別の「個人の価値を越える超越的な存在」にも好意的になりがちだ.それは生態系だ.グリーンムーブメントは「救済は,テクノロジーと経済成長を否定してより単純で自然な生活に戻ることからのみ得られる」と主張する.
  • 政治的なイデオロギーは,右派のものも左派のものもそれ自身が世俗的宗教になってしまっている.同じ様な考え方の人々を集め,神聖な信念を吹き込み,自分たちの正しさを信じ込ませる.それは人々の判断を混乱させ,原始的な部族主義マインドセットを燃え上がらせ,どのようにすれば世界を改善できるかを理解しようとする試みから注意をそらす.
  • そして多様なライターたちが「現代文明は衰退しつつあり崩壊寸前だ」と主張する.衰退主義の1つはテクノロジーについてプロメテウスの神話を持ち出す.もう1つの衰退主義は現代文明は人々に便利を与えすぎたと主張する.
  • そして最後の反啓蒙運動アイデアはC. P. スノーが「二つの文化と科学革命 」の中で描いた「セカンドカルチャー」だ.スノーの議論に反駁したリーヴィスは「人々の生活水準の向上が究極の価値である」というアイデアを馬鹿にしてこう主張した.「偉大な文学を読めば我々が真に何を信じているかがわかる.究極の目的は何か.人は何のために生きるのか.この問いかけを吟味することにより我々は思考と感情の宗教的深遠を見つけることができる」
  • このセカンドカルチャーは今日も広く行き渡っている.彼等は,科学が世俗の問題を解決することを馬鹿にし,エリート芸術の消費こそが究極の道徳的善のように描く.彼等の真実を得る方法論は,仮説検証ではなく,生涯の読書習慣と自らの博識をひけらかすというものだ.そして人文科学の領域に自然科学が領域侵犯することを「科学主義」だとして糾弾する.彼等にとって科学は「別の神話」のひとつに過ぎないのだ.


そして本章の最後をこう締めている.

  • 啓蒙運動とヒューマニズムは,要するに大衆に愛されていないのだ.人々の幸福を増やすために知識を用いるというアイデアは人々を凍らせる.「宇宙についての深い説明,生命の,脳の説明?そんなもの信じたくないね.数十億の人々を救う,病気や貧困を根絶する?退屈きわまりない」・・・「長寿,健康,理解?生きて行くには別のことが大切なんだ」
  • そして知識を人々の幸福のために使うというアイデアを認める人々も,そんなものはうまくいきっこないと主張する.そして世界は涙にあふれていると毎日のニュースは報道され,その見方を支持しているように見える.啓蒙運動から250年間で世界が良くなっていないなら,理性と科学とニューマニズムに価値はないことになってしまう.
  • だからまず人類が進歩していることを示さなければならない.


これで第1部は終了だ.第2部は暴力の減少以外にも世界が啓蒙運動以降,進歩していることを示していく部分になる