「ハッパノミクス」

ハッパノミクス――麻薬カルテルの経済学

ハッパノミクス――麻薬カルテルの経済学

ハッパノミクス

ハッパノミクス


本書はオクスフォードで哲学,政治経済を学び,エコノミスト誌でエディターを務めるビジネス・ジャーナリストであるトム・ウェインライトによる経済学的及び経営学的な視点で麻薬ビジネスを扱ったノンフィクションだ.原題は「Narconomics: How to Run a Drug Cartel」.


冒頭では,麻薬カルテルの取材にかかる緊張感とともに,本書のアイデア「経済学を応用して全く別の視点から麻薬取引を分析したらいったい何がわかるのか」が提示されている.現在のメキシコの麻薬カルテルはある意味サプライ・チェーンを整備し,フランチャイズ方式で運営されている経済主体であり,オフショアリングやオンライン取引にも取り組んでいると考えることができるのだ.

第1章 コカインのサプライ・チェーン

まずはコカイン市場からレポートされる.コカインの主原料はアンデスで栽培されるコカの木の葉になる.著者の潜入レポートは伝統的な飲み物として一部の土地で制限付きで栽培が合法化されているボリビアになる.さすがに現地レポートは迫力があっておもしろい.
そしてこのボリビアの制限はざる同然で,その他の国の違法栽培畑とともに世界市場へのコカイン原料源となっている.アメリカからの供給を下げろという強い圧力を受けた中米各国政府は多大なコストをかけてこの違法畑を摘発する「根絶作戦」を展開しているが効果はあまり上がっていない.結局いくら摘発されても農家は別の場所で生産を続け供給は減っていない.また代替作物に補助金を与えて農家のインセンティブを変えようとする戦略はある程度効果はあるはずだが,農作物市況の変動幅の大きさや,コカイン栽培における緑の革命(!)によりうまくいっていない.
ここで著者は根絶作戦は経済学的に間違っていると主張している.農家に摘発逃れコストを賦課しても,カルテルはサプライ・チェーンを構築しているバイヤーであり,購買独占力を持つために買い入れ価格を上げないし,仮に上げたとしても末端価格に与えるインパクトはごく小さいからほとんど無意味だというものだ.


この麻薬カルテルのサプライ・チェーンとしての分析はおもしろい.コカイン・ビジネスの利益は原料購入のところではなく国際的な密輸の部分で生じるというわけだ.ただ著者は根絶作戦の目標は消費国における価格上昇であり,それは無理であるかのように書いているが,そこには疑問も残る.そもそもの麻薬流通量を減らそうという試みとしては根絶も意味はあるだろう.そして本当に原料供給を絞れれば,麻薬の流通量自体が減り,そもそもの麻薬が引き起こす悲劇は減少できるはずだし,価格についても末端価格は需要と供給の原則からいって(単なる買い入れコスト分ではなく)大幅に上昇するはずだ.ただそれが失敗しているという評価の方がいいのではないだろうか.

第2章 競争か,協力か

次は麻薬カルテルの本拠地であるメキシコでは何が生じているかが扱われる.結局麻薬ビジネスの付加価値の源泉は国境を越えた密輸であり,そのためには密輸ルートの支配が鍵になる.メキシコではアメリカとの国境検問所がカルテル同士の縄張り争いの主因となる.
そしてカルテルが簡単に警察を買収できることが事態を悪化させ,さらにメキシコでは市警察と連邦警察がそれぞれ対立カルテルに買収されて状況が不条理化している.著者は国境の町ファレルでの抗争の歴史を迫力満点に描写している.
エルサルバドルでは状況が異なる.ここでの対立する2つのカルテルが抗争を繰り広げていたが,2012年に地区分割の協定を内容とする歴史的な手打ちが行われ,殺人率は1/3に激減した(ただしカルテル間抗争と関係のないゆすりなどの犯罪は当然ながら減少していない).
著者は両国の差をこう説明している.

  • 犯罪グループ間の抗争の多くは,相手グループの兵隊の引き抜き合戦という形を取る.こうなると裏切りものへの制裁が重要になり,血で血を洗う形になりやすい.
  • エルサルバドルでは,どちらの陣営に属するかが出身地区によって決まり,さらに加入後には刺青によるコミットメントが求められるので,裏切りが生じにくかった.
  • さらにエルサルバドルでは政府が手打ちを歓迎し,メンバーへの合法的な仕事の斡旋,ギャング幹部の快適な刑務所への移動にコミットした.(これは国民からは不評だった.実際に後任の大統領がこのコミットを反故にすると抗争が再燃した.)


著者はこれらのことから導き出されることとしてこうコメントしている.

  • 市場の状況の変化によって抗争の程度は変わる.
  • 検問所の縄張り争いを低下させるには検問所の数を増やすことが効果的になるだろう.これは密輸を容易にさせるが,これまでの経験からみて密輸総量にはあまり影響を与えないと予測できる.
  • 警察の買収を防ぐには,まず警官の給料を上げること,そして警察組織を統合することを検討すべきだ.

第3章 麻薬カルテルの人材問題

第3章のテーマはヒューマンリソース.麻薬ビジネスは,利益が高い反面,優秀な人材は常に不足する.求人広告を打てず,労働回転率が高いが,契約の法的強制力がない中でビジネスをマネジメントしなければならない.だからこのビジネスの成功において人材問題への対処は非常に重要になる.ここではいくつかのトピックが扱われていていろいろとおもしろい.

  • 犯罪組織にとって人材の獲得や訓練にとって重要な拠点になっているのが刑務所だ.ドミニカではこの問題を解決すべく,これまでの(刑務所内の暴力事件抑制のための)ギャング別の収監慣習をやめ,ギャングリーダーを他の囚人から厳重に隔離し,囚人の役務報酬の一部を家族に支払い,さらに新規刑務所スタッフの給与を3倍に引き上げるなどの改革を行っている.
  • カルテル組織とメンバーの間には,長期的なリクルートの視点から下部メンバーへの搾取をどう防ぐかという問題がある.経済学者による犯罪組織の分析リサーチによると,ある組織は複雑な規則体系を定め,その中には搾取されていることを上部に密告する制度があったそうだ.
  • 富裕国においては麻薬密売組織は一斉摘発のリスクに対応して,小規模に分割され,フリーランサーのネットワークに頼り,緩く運営される傾向がある.それぞれに小規模組織はサプライ・チェーンの一部に特化している.このような組織で重要なの対人スキルになる.なるべく暴力に頼らずに紛争を解決しようとし,故意以外のメンバーのミスについては寛容に対処する.
  • メキシコのような大規模カルテルでは,内部抗争を穏やかにし,裏切りリスクを下げるために,メンバー加入において同じ民族集団を優先し,家族への報復を可能にしておく*1

第4章 PRとシナロアの広告マン

第4章のテーマはマーケティング.驚くべきことに麻薬カルテルもSCR(企業の社会的責任)を気にしている.実際にメキシコの麻薬カルテルのボスたちは民衆から奇妙な人気を集めている.
麻薬カルテルにとっては世間からの一定の支持を得ておくことは(密告されにくさというメリットを通じて)事業活動の自由にとって重要なのだ.カルテルは様々な方法で広告を打つ.昔は原始的な屋外広告が主流だったが,最近ではメディアの記事の買い取り,ジャーナリストへの脅迫,オンラインへの対応なども行っている.
また派手な慈善活動も行っている.メキシコのシナロアカルテルは子供たちにクリスマスプレゼントをばらまき,ローラーコースター場を作り,貧しい人への住宅まで提供している.多くの麻薬王が教会の建設費を出している.さらに復讐の代行を含めた契約の強制履行や紛争解決サービスも提供する.


著者はこれらの活動をくい止めるには,まず政府自らがよりよいサービスを提供するしかないとコメントしている.またかれらのPRを弱めるためには,彼らの炎上商法を理解し,抗争地帯ではなく敵対カルテルの縄張りに部隊を送り込むこと,ジャーナリストを保護することが効果的だともコメントしている.


マーケティングからの犯罪組織の分析もなかなか新鮮で面白い.政府が腐敗していると様々な問題がとんでもなくこじれることがよくわかる.

第5章 オフショアリング

第5章のテーマは事業活動の一部を外国に移転させるオフショアリングだ.メキシコの麻薬カルテルもコスト削減のために中米諸国へのオフショアリングを行っている.
ポイントはまず人件費.社会に見捨てられた貧困層が多い国は悪の道に進むことに抵抗のない若者の供給に事欠かないからだ.もう一つの観点が政府のあり方だ.グアテマラの弱体化した政府や,ホンジュラスの腐敗し犯罪組織に協力的な政府は,様々な犯罪行為のコストを下げることを可能にする.著者によるホンジュラスの「バナナ共和国」ぶりのレポートはなかなか衝撃的だ.


ここで著者は世界銀行のデータを使って国別の麻薬カルテル競争力指標を産出して見せ(グアテマラとホンジュラスがツートップ),いくつかの改善策を提示している.またこのオフショアリングの動きはこれまでの「根絶作戦」の欠点を明確化するものであり,あるいは流れを変えるきっかけになるのかもしれないとコメントしている.

第6章 フランチャイズの未来

第6章のテーマはフランチャイズ方式.1990年代にメキシコの麻薬密売組織はコロンビアのカルテルの下請け輸送業者にすぎなかったが,コロンビアの組織が取り締まりにより弱体化したのを受けてメキシコの組織がバリュー・チェーンの大部分を掌握するようになった.中でも急成長したのが2010年までガルフ・カルテルの実行民兵部隊にすぎなかったセタス・カルテルになる.セタスは各地のギャングをフランチャイジーとして仲間に引き入れる方式を採用した.セタスは残虐行為を繰り返して犯罪組織としてのブランド力を高め,各地ギャングはセタスのブランドを使用することによりゆすりなどの犯罪を効率的に行う.実際に多くのカルテルはブランドのロゴを持っていて,無許可使用に対しては死を持って制裁するそうだ.またこのようなフランチャイズ型のカルテルは全体として業務範囲が拡大しており,収益の一部がフランチャイジーからの上がりという形になるためそれまでのように密輸ルートのみに執着するのではなく地域的な縄張りをより重視するようになる.
フランチャイズ方式は急成長を可能にするが,一方でフランチャイジーとフランチャイザー間の利害の対立*2,トップダウンの機動力に欠けること,一部の間抜けフランチャイジーによってブランド力が毀損されるリスクなどのデメリットも持つ.
著者はフランチャイズ方式による犯罪組織の成長は市民にとって間違いなくよくないことだが,一方で犯罪組織はそれまでより脆弱な部分も持つようになっていると指摘している.

第7章 法律の先を行くイノベーション

第7章で取り上げられるのは合成麻薬いわゆる「脱法ドラッグ」だ.著者は冒頭にロンドンの脱法ドラッグ屋のルポをおいて臨場感を高めてから解説に入っている.
合成麻薬の流行はニュージーランドでの成功に大きく影響されている.ニュージーランドはコカインやヘロインの原産地から遠く,持ち込みコストが高いために,まずメタンフェタミンが人気を博した.この取り締まりが強化されたときに,マット・ボウデンがより安全で合法的な合成麻薬のビジネスを起こし,BZPを開発.これが大ヒットし,当局が禁止,そして新しい合成麻薬の開発と禁止といういたちごっこがスタートする.
このいたちごっこはサイクルが短期化しており,開発者側は安全性より規制のクリアを重視するように動機づけられており,だんだん危険度が増している.またこのビジネスで勝つには,技術開発力と法的規制への対応が鍵になり,大手への寡占化が進みやすい.
著者は後追いの規制は危険を高めるだけで実効性がないことから,食品医薬と同じ規制方式にして,メーカーに商品の安全性を先に立証させ,その上で許可してはどうかと提案している.

この提案はハイにする薬品を正式に認めることにつながるので,世間には受け入れにくい部分があるが,現状のリスクを考えると傾聴に値するように思われる.

第8章 オンライン化する麻薬販売

オニオン・ルーティングによるダークウェブ技術とビットコインなどの仮想通貨により現在は麻薬もネットで購入することができる.著者はまずこれがもたらすユーザー体験の変化を取り上げている.それまでの麻薬購入は(友人からの入手をのぞくと)ストリートでさんざん待たされたあげく怪しげな売人から買うしかなかったが,ネットで買うと説明は丁寧,ユーザーレビューも閲覧でき,迅速な取引が可能でアフターサービスも受けることができる*3.これは麻薬に関してはネット取引の方が売り手も買い手も多くの中から相手を選ぶことができ,一般的な市場に近いからだ.
これはカルテルにとっては消費国での縄張りの重要性がなくなることを意味し,縄張り抗争を減少させる.片方でこれは麻薬価格の低下を進め,新たな顧客が呼び込まれる可能性を増やす.


オンラインによる販売は取り締まりをきわめて困難にしている.著者はネットワーク分析の初歩を紹介し,それを麻薬の消費者のネットワークに適用した例を提示して,オンラインである程度の量を購入して,そこから周りにばらまいている「陰のディーラー」に焦点を絞ることを提案している.

第9章 多角化するカルテル・ビジネス

第9章は麻薬カルテルビジネスの多角化.メキシコのカルテルは麻薬の密輸で稼いでいる.これを可能にするのは公務員を買収しながら何かを秘密裏に越境させる技術だ.そしてこの技術は密入国ビジネスと親和性が高い.
著者はメキシコとアメリカの国境を巡る密入国の実態を解説する.最近の国境警備の強化は,しかし密入国を思い止めさせる効果はほとんどなく*4,プロの密入国斡旋組織の競争力を高めているとコメントしている.


もう一つの多角化は麻薬の種類の多角化だ.カルテルにとってえり好みの流行の変化の激しい麻薬市場においてコカインだけに頼るのはリスクになる.そしてコカインの人気はアメリカで低下傾向になっている.カルテルはまずクリスタル・メス,そしてヘロインに手を広げている.ヘロインはかつてとりわけ危険というイメージがついてアメリカで忌避されやすくなっていたが,オピオイド系鎮痛薬依存症の急増(この中毒はこれまで麻薬マーケットにいなかった裕福な高年齢層を取り込んだ)により復活しているそうだ.

第10章 いたちごっこの果てに

第10章は現在アメリカで進行しているマリファナの合法化の影響がテーマ.アメリカではいくつかの州*5で(医療用だけでなく)娯楽用のマリファナが合法化されている.著者は2014年に最初に合法化されたコロラド州のルポから始めている.コロラドでは解禁されてから合法大麻企業が台頭し,大規模な生産流通システムを構築し,一部の州外からの需要も取り込みながら売り上げを伸ばしている.
このような合法企業はこれまでの麻薬カルテルに比べて,規模の経済のメリットを享受でき,質の面でも有利になる.合法化州の麻薬が周りの州に浸透するのは防ぎようがなく,カルテルが合法化されていない州で対抗するには価格を下げるしかない.著者の試算ではメキシコの違法大麻がコロラドとワシントンの合法大麻に対抗できるマーケットはテキサスしか残らないだろうと予想している.これはそもそもの合法化の目的の一つ(犯罪組織の収益源を断つ)が満たされつつあるということだろう.

では今後どうなるだろう.著者は,カリフォルニア*6やニューヨークなどの主要州で合法化され,連邦法で合法になるとタバコ産業のビッグビジネスが参入してきてマーケット構造はまた大きく変わるだろうと予想している.

Conclusion

著者は最後にまとめの章をおいている.著者の政府の麻薬対策の誤りについての結論は以下の通りだ.

  • 誤り1:供給面へのこだわりは間違いだ.対策は需要側がより重要だ.原料生産コストを上げても最終消費者価格には影響しないし,仮に価格が上昇しても価格弾力性が低く需要は余り下がらないことが予想される.教育や更正プログラムなどにより需要を抑えられれば,価格は下がり犯罪ビジネスの縮小によりつながる.
  • 誤り2:目先の節約を優先させているのは間違いだ.事後の取り締まりよりも予防の方が長期的にはコスト効率的だ.
  • 誤り3:グローバルビジネスに対して国単位で対応するのは間違いだ.麻薬ビジネス摘発を一国で行っても他の国に追いやるだけだ.中南米の国からみると,アメリカが自国民の麻薬消費に甘いために自分たちの国に犯罪がはびこっているということになる.そして現在生産国と消費国の区画が曖昧になり,ロシアや中国など自国民の麻薬使用に非常に厳しい新興国の影響が増しつつある.
  • 誤り4:禁止とコントロールを混同してはいけない.本気で麻薬の流れをコントロールしてカルテルを廃業に追い込みたいのなら禁止は有効な手段ではない.危険であるからこそ政府の手でコントロールすべきなのだ.マリファナの合法化はその一環だ.ヨーロッパの一部では医師の関与を条件にヘロインを合法化しているところもある.


先述したが,誤り1の書きぶりには少し違和感がある.供給面から麻薬の全体量削減が可能なら,麻薬被害は減るのだからそれには意味があるだろう.実際には実行できていないこと,そして犯罪組織の収益にはあまり影響がないかもしれないことが問題というべきだろう.もう一つ,教育や更正プログラムの有効性について著者は何もエビデンスを提示していない.そこについても事実を抑えた上で経済学的に分析があればより説得力が増しただろう.

以上が本書のあらましだ.経済学だけではなく経営学的な視点で麻薬ビジネスが解説されていてなかなか面白い本だ.日本は本書にあるニュージーランドと同じで,コカインやヘロインの持ち込みコストが高すぎるために覚醒剤と合成麻薬が主流ということになっているのだろう.対策を考える上でいろいろな示唆に富んでいると思う.


関連書籍


原書

Narconomics: How To Run a Drug Cartel (English Edition)

Narconomics: How To Run a Drug Cartel (English Edition)

*1:例外としてヘロインをヨーロッパからアメリカに密輸するカルテルが運び屋に白人女性を優先する例を挙げている.空港のチェックが有意に少ないためのようだ.

*2:フランチャイザーにとってなフランチャイジー密度は高い方がいいが,フランチャイジーにとっては自分の縄張りの近隣に別のフランチャイジーが認められるのは困ることになる.

*3:中にはフェア・トレードやコンフリクト・フリーをうたっているものもあるそうだ

*4:アメリカとメキシコの賃金格差,離ればなれの家族と一緒に暮らしたいという思いを考えると,1000ドル程度の追加コストが密入国を思い止めさせられるとは考えにくい

*5:本書執筆時点ではコロラド,アラスカ,ワシントン,オレゴンの4州だけだったが,2018年現在,カリフォルニア,メイン,マサチューセッツ,ネバダの4州とDCが加わっている.

*6:本書の原書刊行後2018年1月より合法化されている