Enlightenment Now その35

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (English Edition)

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (English Edition)

第14章 民主制 その1

世界がより良き方向に進んでいるというテーマ.第14章では政治形態が取り上げられている.
 

  • 最初の政府が5千年前に現れてから,人類は無政府状態の暴力と恐怖政治の暴力の間で舵取りをしてきた.
  • 初期の政府は平和を与えたが,奴隷制,ハレム,見せしめ,人身御供などの恐怖を賦課した.専制政治は歴史を通してしつこく残り続けているが,それはその代替案がしばしばさらに悪いものであるからでもある.混乱は専制よりも遙かに残酷なのだ.
  • 民主制は,ある意味人々が互いに喰らい合うことを避けるために必要十分なだけ力をふるう細い針のようなものだ.良い民主制は人々を暴力から守り,平和に幸福を追求することを可能にする.その理由だけからでも民主制は人類の繁栄に大きく貢献している.
  • そして民主制は,より高い経済成長,より少ない戦争とジェノサイド,より良い健康と教育を実現させてきた.世界がより民主化したならそれは進歩なのだ.

 

  • 政治学者ハンチントンは民主化の歴史を3つの波で現せるとした.
  • 第1の波は19世紀,啓蒙主義の実践,アメリカ憲法による実験を通じて始まり,多くの西洋諸国が後に続いた.これは1940年代のファシズムの台頭によって押し戻される.
  • 第2の波は第二次世界大戦後の植民地諸国の独立により形成されている.西ヨーロッパは東のソビエト共産党独裁と西のポルトガルとスペインの軍事独裁に挟まれていた.この波はギリシアやラテンアメリカの軍事政権,アジアの相次ぐ独裁政権,アフリカでの共産主義政府の続出に押し戻される.
  • 1970年頃には民主制への悲観が世界を覆っていた.しかし1970年代中盤から独裁制政府が次々と倒れていく.南ヨーロッパ(ギリシア,ポルトガル,スペイン),ラテンアメリカ(アルゼンチン,ブラジル,チリ),アジア(台湾,フィリピン,韓国など)で次々の独裁が終焉し,1989年にベルリンの壁が崩され,1991年にソ連が崩壊する.
  • フランシス・フクヤマはこれを「歴史の終焉」と呼び,世界は民主制を選んだのだと論じた.もちろんこれには歴史悲観主義者たちからごうごうたる非難が寄せられた.ムスリムの神聖政治を見よ,中国の権威主義的市場主義を見よ,トルコやロシアのプーチンの反動を見よというわけだ.

  • 最近のこういう出来事は,人々が喜んで政府を破壊しようとしているということを示しているのだろうか.それは疑わしい.そもそも民主制をとっていない国では意見を表明することもできない.そしてもう1つはこのような出来事による印象はヘッドライン効果による歪んだものだと思われるからだ.真実を知るためにはここでも定量化が有効だ.

 
(ここで定量化のための民主化程度の計測の問題をいくつか論じた後,Policy Projectによる民主制vs専制制指標の1800年からの推移グラフが掲載されている.この指標は,市民の政治的選好表現,統治者の権力の牽制,市民の権利の保証の指標からなっている.1800年から1920年代にかけて上昇し,そこから1980年代にかけて上下を繰り返しながら緩やかに下降し,それ以降は大きく上昇し2000年以降は過去最高を更新し続けている)
 

  • グラフからわかるのは第3の波は終わってなどいないということだ.(2000年以降の進展具合が具体例と共に解説されている)
  • 第1の波が押し戻されたときに,それを説明しようとするいくつもの理論が提唱された.カトリック国には民主制が根付かない,非西洋諸国には民主制が根付かない,アジア諸国には民主制が根付かない,イスラム国には民主制が根付かない.貧しい国には民主制が根付かない,民族的に多様な国には民主制が根付かないとかいう「説明」だ.それは一つずつ覆されていった.非民主的とされる現在のロシアと中国の専制制もスターリンや毛沢東の時代と比べれば遙かに非抑圧的だ.
  • 民主制の押し戻しを説明しようとした「理論」は,民主制にはややこしい前提条件(例えば全体の善のために注意深くリーダーを選ぶようなよく教育された市民)が必要だと主張し,その失敗を断言した.
  • そんな基準で見れば,過去民主制だった国など1つもないし,将来も現れないだろう.選挙民は現在の政策オプションはおろか,基本的な事実についても無知なのが普通だ.質問がどう提示されたかで選好は移り変わる.政府のパフォーマンスのフィードバックにもほとんどなっていない.
  • 「選挙こそが民主制の本質だ」という広く共有されている信念とは異なり,選挙は政府が責任を持つメカニズムの1つに過ぎないのだ.専制的な人物が政権を争うときには選挙は単なる脅し合いのコンテストになる(プーチンのロシアが典型的だ).
  • では何故民主制はそこそこうまくやれているのだろうか.カール・ポパーは民主制について「それは誰が統治すべきかを決めるものではなく,統治者を流血なくやめさせる方法」だと論じた.ジョン・ミューラーは,それは「人々が統治についての不平を言う自由」に基礎をおいているのだと表現している.
  • 選挙についてのグズグズの現実と理想的な市民像のギャップは,いつ果てるともしれない幻滅を生み続ける.ミューラーは,民主制のいいのはそういうグズグズの現実の中でも,あるいはそれによっているからこそうまくいくところだと結論づけている.
  • そういう視点に立てば,民主制は何かとても難しいことが要求される仕組みではなく,最低限「人々を無秩序の混乱から守る」ことができそうな人に統治をまかせるものだということになる.これが極貧国で民主制が行き詰まりやすい理由なのだ.
  • もちろんアイデアは重要だ.民主制が根付くには,影響力がある人々が「民主制はその代替(神権統治,王権神授説に基づく王の統治,温情的植民地統治,プロレタリアート独裁など)よりましだ」と考えていることは重要だ.これが教育程度が低い国,西洋諸国との接触が少ない国,そしてイデオロギー革命で生まれた国に民主制が少ないというパターンの理由になる.

 
理想的な民主制を信奉する人々にとっては現実はいかにも幻滅的で,それはブレクジットや2016年アメリカ大統領選でも強く感じられただろう.そして民主制への懐疑論がいかにも悲観的で知的な議論としてファンシーにもてはやされる状況を生む.ピンカーのそういう風潮への反論は,そもそも民主制はそういうものではないというところの基礎をおくことになる.なかなか啓発的な議論になっていると思う.