Virtue Signaling その30


 

第7エッセイ 言論の自由に関する文化的多様性の擁護 その3

 
ミラーは自分が文化間で表現のタブーについての政治的な文脈が大きく異なることに気づいたきっかけを語り始める.

 

文化切替の困難性

 

  • 私が文化の切替の難しさに最初に気づいたのは1992年にスタンフォードからポスドクとして英国のサセックス大に移ったときだった.私はオハイオで生まれ育ち,ニューヨークとカリフォルニアの大学で学んだ.外国で過ごしたことはなかったが,ジェーン・オースティンの映画やPBSのマスターピース劇場を見ていたので英国文化は理解していると思い込んでいた.
  • 私は間違っていた.現代の英国はアメリカよりはるかにセックス,ドラッグ,飲酒に寛容で,アメリカのように人種問題に取り憑かれているようなことはなかった.しかし彼等は階級や金や福祉やイスラム移民について議論することのタブーを持っていて,私がそれに気づくには少し時間がかかった.私は結局英国に9年間住むことになったが,常にどこにも書かれても話されても質問されてもいない奇妙な慣習を発見し続けることになった.
  • ミュンヘンのマックスプランク研究所に1995年に移ったが,そこでは全く別のドイツのイデオロジカルなタブーを学ばねばならなかった.そのタブーはファシズムと優生学を中心としていて非常に広いものだった.2008年にブリスベーンでサバティカルをとったときにも,同じように全く別のオーストラリアのアボリジニ,英国植民地支配,アジア移民に関する感受性を学ぶことになった.
  • 私にとって,それぞれの新しい文化は,それぞれ居心地の悪さ,会話の困難さ,気まずい沈黙,社会的コストをもたらすものだった.ネイティブたちは,どのような視点が許容され,どのような視点がオフェンシブであるかについて,明確に話すことができない.実際ほとんどの文化において何がタブーであるかを問うこと自体タブーになっているし,その問いに真実を答えることはより重大なタブーになる.メンバーはただ知っていることを期待されるだけだ,それは彼が外国生まれの異邦人であってもだ.

 
ヨーロッパのリベラルにとっては移民問題は大きなタブーになるのだろう.英国ではパキスタンからの,ドイツではトルコからの,フランスではアルジェリアからのイスラム移民の問題が極めて扱いの難しいイデオロジカルなタブーになっていることが容易に想像できる.
 

  • 何年か前,自分の部局がヨーロッパからの教職員を2人雇ったときにも,文化を切り替えることの難しさに気づいた.彼等は私の家のゲストクオーターにしばらく滞在し,私たちはアメリカの政治的文化の奇妙さについてしばしば議論することになった.それは例えばよく似た言葉の政治的な意味の違い(「undocumented」vs「illegal」*1,「トランスジェンダー」vs「トランスセクシャル」,「ブラック」vs「アフリカンアメリカン」「社会正義戦士」vs「プログレシブアクティビスト」)をめぐるものだった.彼等にとってとりわけ難しいのが,どんな見解なら表現することが許されるのかの境界が大規模な講義の場合,小さなラボミーティングの場合,部局パーティでの会話の場合,SNSの場合でどう異なるかを知ることだった.
  • 私はこの問題について大学内でいろいろと関わり,今では大学の言論の自由のための運動も行っているので,現代アメリカの政治的正しさの境界線に対してある程度のガイダンスを行うことができた.しかし彼等は私が意識していないところ(つまり事前にアドバイスできなかったところ)でいつもしくじるのだった.
  • 同僚を救うため,私は外国から来た教職員が内部化することが望ましい暗黙のイデオロジカル規範(そしてアメリカ人がそこに規範があることにも意識していないような規範)をリスト化しようとした.リストはどんどん膨らみ,こういう試みは無駄だとわかった.多くの私たちのイデオロジカルなタブーは本当に深いもので,私たちはガイダンスできないだけでなく,それを明示的にリスト化することさえできないのだ.そして私たちはガイダンスなしで外国から学生や教職員を迎え続けている.

 
日本の場合はどういうことになるだろうか.天皇制,部落差別,(南京事件や慰安婦問題を含む)戦前の帝国主義あたりの話題が地雷まみれということになるのだろうか.移民とは少し異なるが在日朝鮮人の方々の問題もその色が濃いのかもしれない.おそらく私が明示的に気づけないタブーもきっとあるのだろう.

*1:移民のステータスに関連する用語のようだ.法的な書類上は不法移民になるが,自らの意思で不法にアメリカに入国したわけではなく,滞在中就労し犯罪行為を行っていない場合に前者の用語が用いられるらしい.典型的には不法移民の子どもでアメリカ社会に溶け込んでいるような人々があたるようだ