書評 「進化政治学と国際政治理論」

 

本書は若手政治学者伊藤隆太による進化政治学の概説とそれを応用したいくつかのケースステディを収めた本になる.進化政治学というのは私の理解では政治学の基礎理論として進化心理学を用いたものということになる.概説部分では進化政治学の正当性を主張するために科学哲学的な議論が縦横無尽に繰り広げられており,政治学の本としてはかなり異質な作りになっている.
 
序章では全体の見取り図が示されている.

  • ヒトの心についてブランクスレートイデオロギーに立つと,政治学は(後天的要素である)教育,社会的地位,経済力のみを扱うべきであり,アクターは信念を合理的に更新し(ネオリアリズム),社会的相互作用を通じてのみ文化・規範を学習する(社会的構築主義)と考えるべきことになる.
  • しかし1990年代以降進化心理学はヒトの心がブランクスレートでないことを示してきた.このパラダイムシフトを政治学で起こそうとするのが進化政治学である.*1
  • 進化政治学の学術的意義の一つは合理的アプローチでは説明困難な事象(利益的に引き合わない戦争など)を説明するところになる.(これまでの研究事例が紹介されている)
  • これまでの進化政治学では基礎的な国際政治理論の構築の試みはなかった.本書では科学哲学の中の科学実在論,リアリズムの立場にたって「進化のリアリズム」理論を提示する.

 

第1章 進化政治学とは何か

 
ここでは進化政治学という学問的なフレームについての説明がある.著者の整理は以下のようになっている.

  • 進化政治学の理論的基盤はダーウィンに始まる進化生物学,進化ゲーム理論,進化心理学にある.進化政治学はこのような進化学を適用して現代の政治現象の起源,究極因を探りつつ仮説を構築する.特に重要な前提は進化心理学からもたらされる「ヒトの心は進化適応産物であり,それが政策決定に影響を与えている」というものになる.(ここで進化心理学のフレーム,自然淘汰,EEA,領域固有性などの簡単な紹介がなされている)
  • 進化政治学はしばしば誤解から来る批判に晒される.誤解には「進化心理学は一貫性を欠いている」「遺伝決定主義だ」「自然主義的誤謬だ」「悪しき還元主義だ」などがある.(それぞれそうでないことについて解説がある)

 

第2章 進化政治学を再考する

 
第2章で著者は進化政治学を科学的実在論の立場から擁護しようとする.著者の議論は以下のように進む.

  • これまでも政治心理学ではミクロな心理学的変数(感情,ニューロン,損失回避傾向など)を用いて政治学の諸命題の解明を図ってきた.しかし政治心理学は至近因のみに注目し,究極因には無関心であった.これは説明の一貫性のなさ,悪しき還元主義に陥りがちになる要因になっている.究極因に注目する進化政治学はこれらのミクロ諸要因を統合的に説明できる.科学哲学者キッチャーによる統合化モデルに拠ればこのような統合化はより優れた理論であると評価可能だ.
  • また進化政治学は国際政治のリアリズム理論を科学的に裏付けることができる.これは科学的実在論の立場から重要なことだと主張可能だ.(ここで科学哲学における科学的実在論と道具主義の議論が解説されている.簡単に言うと道具主義は「モデルは役立てば(正しく予測できれば)いい」と考え,科学的実在論は「モデルの仮定は真実であるべきだ」と考えることになる)

 

  • 社会科学者はこれまでポパー流の理論評価基準に従い,合理的選択理論を(その一貫性,演繹的整合性,反証可能性という視点から)科学的なものと評価してきた.科学的実在論に立つ進化政治学は合理的選択理論の前提であるアクターの合理性(合理的選択理論においては道具主義的に擁護することになるはずのもの)について真偽を問うべきだと主張することになる.進化政治学はネオリアリズムが前提とするミクロ経済的合理性に対して,生態的合理性(進化適応基準)というオルタナティブを主張する.
  • 科学的実在論に立った進化政治学はどのように仮定の正しさを主張するのか.攻撃的リアリズムを例にとって説明しよう.ミアマイシャーは攻撃的リアリズムの核としてアナーキー,権力政治,ナショナリズムが正しいと主張しているがその科学的根拠は明らかにしていない.科学的実在論からそれを主張する方策の一つがIBE(最善の説明への推論)になる.しかしIBEにはボトムアップ帰納論の限界がある.これに対して進化政治学は(より根源的な原理から導き出す)演繹的なアプローチを採ることができる.
  • これに対する反論の一つは道具主義になる.もう1つは理論の妥当性をその歴史的継続性に訴える思想的アプローチになる.しかし後者はやはり帰納的アプローチの限界を持ち,さらに「科学の歴史を回顧すれば今成功している理論も将来には誤りであることが明らかになるだろう」という悲観的帰納法の議論からも反論可能だ.そして道具主義や思想的アプローチなどの理論の基礎を軽視する態度は教条的に理論を信奉する態度を生みだしやすいという重大な問題がある.
  • 進化政治学であればナショナリズム,権力政治について科学的根拠を示すことができる.(それぞれ部族主義,怒りの修正議論などから説明されている)

 

第3章 国際政治理論はいかにして評価できるのか

 
第3章では進化政治学が新たな国際政治理論を生みだす方法論について書かれている.ここでも科学哲学的な議論が多くなされている.

  • 国際政治学においては「事例から理論を一意に選べない」という「決定不全性」と呼ばれる科学哲学的な問題がある.これは社会科学・自然科学すべてに当てはまる問題だが,政治学においては特に問題になり,しばしば歴史家と理論家の対話を困難なものにしている.本書はこれに対して科学的実在論に立って「多元的実在論」を採用し,経験主義バイアスから逃れるべきだと主張する.
  • ポストモダニストはしばしば決定不全性を持ち出し,理論家は任意の補助仮説を持ち出して検証を恣意的に行えると批判する.実際に勢力均衡理論の学説史をみると逸脱事例が見つかるたびに補助仮説を修正して反証を防ごうとしているように見える*2.ここで道具主義的な実証主義者は理論の仮定について不可知論に立つことになるが,これはポストモダニズムへ意図せざる援護射撃を行う結果につながりかねない.
  • これに対して科学的実在論からは真実をめざすことになり,観察不可能なところも分析過程に含めつつ近似的真理へ漸進的に接近していくことになる.そしてさらに観点主義を採用すれば「多角的視点から世界と一定の類似性を持つモデルを獲得できる」という現実的な実在論を堅持できる.つまり「理論を一意に決めなければならない」という決定不全性の前提自体が間違っていると主張できるのだ.これは理論的多元主義をとることになる.この多元主義を実現するためには理論における理想化の役割を自覚すること,制約を自覚することが重要になる.またこの立場に立つと,理論の評価基準は単純な反証可能性ではなく,数学的エレガントさ,簡潔性,適用範囲,新奇予想生産力,統合力など多様なものになる.

 
この第2章,第3章は科学哲学的な記述が多く,進化心理学の政治学への応用を読もうと思っていた読者にとっては大変読みにくい部分になっている.私の感想を記しておこう.

  • 著者は進化政治学は科学的実在論に立つべきだと主張している.ここで念頭に挙げられている対立的な立場には2つある.1つはブランクスレートイデオロギーに固執するタイプの社会学,あるいは合理的経済人を前提とする社会学であり,もう1つは「役立つならモデルの仮定の真実性は問わない」とするプラグマティックな態度ということになる.
  • しかしそもそも政治学や法学や一部の工学は役立ってなんぼの学問ではないのだろうか.それに最もフィットするのは道具主義のような気がする.航空機を設計するために(相対論まで入れ込まなくとも)ニュートン力学モデルで十分であればそれでよいのではないか.
  • ブランクスレートイデオロギー的な社会学や合理的経済人の前提に立つ社会学に対しては,単に仮定が間違っており,さらにそれによって誤った予測がなされているという主張で十分ではないのだろうか.
  • 仮定の真実性に無関心な政治学に対しては実在論から批判しなくとも,あくまでより広く正しく予測できるモデルを導き出せるのはどちらの立場なのか(そしてそれは一貫性のある理論的基盤を持ち,より真実に近い仮定を構築しやすい進化政治学になるだろう)を議論すればいいのではないか.そして仮に全く同じような予測ができるのであれば,そこからはどちらが美しい理論なのかを楽しく論争すればいいのであって,そのような理論評価の議論についてことさら実在論に立たなくてもエレガントさや統一性を持ち出すことは可能であるように思われる.
  • つまりどちらに対しても道具主義に立った上で,究極因を重視することでより真実に近い仮定を立てられる進化政治学の方が有用だ(あるいはより美しい)と主張できるのではないだろうか.道具主義者に対して科学的実在論からいくら批判しても,立場の違いとしてすれ違うだけであまり良い議論になるとは思えない.
  • また道具主義は教条的になりやすいとかポストモダニズムに援護射撃してしまうとかいうのはあまり筋の良い実在論擁護論には思えない.道具主義に立ってもうまく現実が説明できなければモデルは見直されるはずだ.ポストモダニズムによる言い掛かりにはいくらでも反論のしようがあるだろう*3
  • 要するに進化政治学は道具主義の立場であっても十分擁護可能ではないだろうか

 

第4章 新たなリアリスト理論

 
ここでは著者自身による国際政治のリアリスト理論が提示される.

  • 先駆的に進化政治学的な議論を提示してきたセイヤーやジョンソンたちには(1)進化心理学を十分に活用できていない,(2)科学的実在論による基礎付けを行っていない,(3)自らの理論を体系化できていないという問題点がある.(1)(2)については既に議論したのでここでは(3)を取り扱う.
  • セイヤーとジョンソンは攻撃的リアリズムを科学的に強化することをめざした.その「自助」「相対的パワー極大化」「外集団恐怖」という3つの前提を.それまでのアナーキーからの説明に代えて,進化産物であるヒトの心の性質に帰そうとしたのだ.しかし残念ながら十分に体系化されていない.
  • ここで私は新たな進化のリアリスト理論を提示する.それは科学的実在論からもたらされる多元的実在論,進化政治学,国際政治リアリズム,具体的モデルという4層からなる.(第3層の国際政治リアリズムは「アナーキーの下では個人は集団に帰属しており,権力をめぐる集団間の永続的闘争が国際政治の本質である」と表すことができる)
  • この進化のリアリスト理論の主なインプリケーションは国際政治学における重要な概念を科学的に強化することである.ここではアナーキー,誤認識,安全保障のジレンマ,過信,リスク追及行動,感情の6つを例にあげて説明する.

 

  • リアリズムは国際システムのアナーキーをホッブスのいう悲惨な自然状態であると考える.リベラリストはこれに対して国際政治においても民主主義やグローバル化により平和は実現できると考える.また社会構築主義者はリアリストのアナーキーは自己実現的な構築物だと見做すことになる.これまでリアリストはこれらの批判に対して科学的に反論できなかった.しかし進化政治学はそれは進化心理学,社会心理学などの知見により裏付けられると主張することができる.
  • 同じように誤認識と過信は楽観バイアスが有利であったという究極因の議論から,安全保障のジレンマにおける猜疑心は裏切り者検知モジュールの議論から,リスク追及行動はプロスペクト理論を説明する究極因の議論から基礎付け可能だ.また感情に関する様々な進化的知見は感情をめぐる国際政治研究を科学的に強化できる.

 
要するに国際政治リアリズムの要素である誤認識,過信,猜疑心,リスク追及行動などは進化心理学的に究極因的な説明が可能だということだ.ただし,このアナーキーの説明には違和感がある.著者は国際関係がアナーキーであることについてDSウィルソン,EOウィルソン,ハイトによるグループ淘汰的主張がその基礎になるとしている.しかしこれはかなりスロッピーな主張であり,ここで取り上げるべきではないだろう.かつそもそもこのグループ淘汰議論はヒトの利他性を説明しようとしているもので,進化環境がアナーキーであったこと自体の説明ではない.それ自体についてはピンカーの暴力の自然史の議論が紹介されているが,これは進化心理学による究極因の説明というよりその前提にかかる歴史的事実認識の問題だろう.さらにいえば進化環境がそうであったとして,国際関係が進化環境と同じであることについてはまた別の説明が必要になるだろう. 
 

第5章 ナショナリズムと戦争

 
第5章からは個別のモデルの提示になる.最初は国際関係の和戦の決定に関するナショナリズムを部族主義から説明するモデルになる.

  • ナショナリズムは国際関係における和戦の決定における重大な要因とされている.しかし現代リアリズムはナショナリズムを十分な科学的根拠が備わった形で理論化できていない.ここではそれを部族主義から基礎づける.
  • リアリストはここまで「指導者がしばしば国民のナショナリズムを喚起して拡張的政策の支持を得ようとする」という現象に言及してきた.しかしなぜ大衆はしばしばこの排外的なレトリックを受け入れ,コスモポリタニズムよりナショナリズムを好むのか.近年の研究は部族主義がこの謎を解く鍵であることを示している.
  • 何故ヒトの心にこうした特性があるのかについては,DSウィルソン,EOウィルソン,ハイトらによるグループ淘汰的説明,(至近因としての)オキシトシンシステム,グリーンの二重過程論,内集団バイアスという社会心理学的知見,血縁淘汰,により裏付けられている.
  • このヒトの本性である心理メカニズム自体は国政政治学の理論ではないが,この知見を政治学の文脈に取り込み,創造的な仮説を提示することができる.
  • 私は以下の仮説を提唱する.(1)指導者はしばしばナショナリズム的神話を語り,国民の排外的ナショナリズムを駆り立てて拡張的政策への支持を調達しようとする.(2)国民はこれに駆り立てられて指導者の拡張的政策に指示を与える.(3)指導者はしばしば自ら引き起こした排外的ナショナリズムに対外政策の自律性を拘束される.

 
部族主義,内集団バイアスについての著者の説明は雑だという印象を抱かざるを得ない.オキシトシン,二重過程,内集団バイアスは至近的な説明に止まっている.グループ淘汰と血縁淘汰が究極因の説明になるが,これらは利他的行動傾向を説明するもので,部族主義が祖先環境で利他的だったのかどうかの吟味はない(相利的な行動としても十分説明可能かもしれない).そして部族主義の利他的側面の説明だとしても,先ほどにも述べたがDSウィルソン,EOウィルソン,ハイトらのグループ淘汰的説明はスロッピーで受け入れがたいし,血縁淘汰がどのようにこれを説明するのかについて具体的な説明はない.「ヒトに部族主義があるのは社会心理学的知見として明らかで,その究極因的な説明については研究が進んでいるが,進化環境での相利的な協力関係であることを含め様々な議論がなされている」以上のことはまだ現段階では断定できないとすべきだっただろう.
 
ここからは具体的なケーススタディで仮説の当てはまりをみていく.題材としては第一次世界大戦,日中戦争,ロシアのクリミア併合が採られている.

  • 第一次大戦前のドイツの体制エリートはラディカルな社会的改革を要求する革新派に対抗するために愛国主義的な国民に排外的ナショナリズムを煽って支持を集めた.愛国主義者は極端なタカ派の外交政策を求め,この圧力によりドイツ政府はレアルポリティークの遂行が困難になり,最終的には第一次世界大戦に突入した.これは3つの仮説すべてに整合的だ.
  • 盧溝橋事件が生じた当初近衛内閣は不拡大方針だった.しかし軍や政党との関係が脆弱だった近衛は国内の支持を得るためには強硬な態度を国民に印象づける必要があると判断して中国側の悪意を誇張する「華国派兵声明」を発表するに至った.国民は「暴支膺懲」に熱中し,拡張的政策への支持を与えた.これを受けて日中戦争が始まり,当初は軍事的にも優勢で,南京陥落を迎えた.ここで相手の面子も立てた講和条件を持ち出せば蒋介石が受け入れた可能性もあったが,近衛内閣は国民のナショナリズム的熱中をコントロールすることができない状況に陥っており,交渉条件をつり上げて拒否されたあげくに交渉を打ち切った.これにより戦争は泥沼状態に移行した.これも3つの仮説すべてに整合的だ.
  • 2014年,プーチンはウクライナの混乱に乗じてクリミア半島をロシアの息のかかった武装グループに占拠させた後,住民投票でウクライナからの独立,その後のロシアへの編入を決めさせ,迅速にクリミア併合を成し遂げた.その後西洋諸国との軋轢は高まり,ロシアは厳しい経済制裁を受けるに至るが,ロシア国民のプーチンへの支持は圧倒的に高まった.国民の支持の背景にはプーチンが講じていたナショナリスト的神話作りが効いていると考えられる.この例では仮説1と2は支持される.仮説3についてはそれを示す事実は見いだせない.
  • これらのケーススタディからわかることの1つは,政策決定者は国内の問題と国家間のそれを考えるときには意思決定モードを変える必要があるということだ.集団内での協調を試みるには(集団内部での行動に適応しているメカニズムに従い)直感に従って感情的に行動すればいいが,国家間という集団間の協調を試みるには(集団間の対立に適応している)直感に従って感情的に行動するべきではなく,功利主義にたち冷徹に行動すべきなのだ.

 
ケーススタディはいろいろな歴史的事件が採られていて,興味深く読める.ただ,最後のリマークはいただけない.現代社会は進化環境とは異なっており,さらに進化環境であっても指導者の行動は集団の利益のためではなく指導者個人の包括適応度的利益に向けて調整されているに過ぎない(自分は集団のために動いているという自己欺瞞に陥って指導者の個人的利益を追求するように直感が働く可能性は常にある).だから集団内の意思決定であっても指導者は常に功利的に冷徹に判断すべきだと考えるべきだろう.
 

第6章 過信と対外政策の失敗

 
次のケーススタディは過信による失敗だ.

  • 現代リアリズムは構造主義や経済合理性を過度に重視するために過信という心理学的現象を理論に取り入れられないでいる.ここでは楽観性バイアスを取り入れた新たなリアリズム理論モデル(楽観性バイアスモデル)を提示する.
  • 楽観性バイアスは進化環境で有利であったためヒトの心理メカニズムに組み込まれたと考えられる.楽観性バイアスをめぐる進化政治的研究はヒトが合理的意思決定理論に従う合理的アクターではないことを示している.私は楽観性バイアスを組み込み,次の仮説を提示する.(1)指導者は自国(あるいは同盟国)の相対的パワー,および事態のコントロール可能性を過大評価する.(2)指導者は敵の相対的パワー,同盟国からの評判を落とす可能性,不都合な情報を過小評価する.(3)指導者はネガティブな情報を自己に都合の良い語りで肯定的に捉えなおして過信を保ち続ける.

 
楽観バイアスの存在についてはエプレイのリサーチが引かれている.しかしその究極因的な説明については具体的な説明を行っていないのは少し残念だ.おそらく配偶者選択,社会的選択の文脈での重要性が大きいのだろう.ここでは仮説(1)と(2)を区別する必要はあるのかというのがやや疑問だ.また仮説(3)では単なる過信ではなく自己欺瞞に近い現象が扱われている.これについてトリヴァースの議論を全く紹介していないのもやはり残念なところだ.
 
ケーススタディでは日ソ中立条約の締結が扱われている.

  • 1920年代のワシントン体制ののち,現状が自らに有利な現状維持派(英米)と不利な軍拡派(独)(ソ)の三極構造が次第に明らかになってきた.
  • 外相松岡はアメリカのアジアへの干渉政策に対抗するため.まず日独伊の三国同盟,さらにこれに軍拡のソ連を加えた4カ国協商の成立を構想した.これは攻撃的リアリズムの予測する権力政治的論理に沿っている.しかし攻撃的リアリズムは,その後の独ソ関係険悪化にもかかわらずなぜ松岡が日ソ中立条約締結に踏み切ったのかを説明できない.*4
  • 楽観性バイアスモデルに立てば,松岡は独ソ戦はないと過信したとして説明可能になる.松岡は自らの交渉能力,独ソ戦の回避可能性を過大評価し,対ソ接近がもたらす日独・日米の関係悪化リスク,独ソ戦の可能性が高いという不都合な情報の価値を過小評価していた.これは仮説1,2と整合的である.
  • 松岡は予想外のソ連の強硬姿勢に直面し,本来望んでいなかった中立条約という形式を甘受するに至った.しかしこの決断についてむしろ「北辺の守りを完全にし,南進を容易にした」として自信を持ち始める.このような決断後の先行変化はネオリアリズムや同盟分断理論では説明できない.楽観性バイアス理論からはバイアスから来る不協和低減が現れていると解釈可能であり,仮説3と整合的だ.

  

第7章 怒りの衝動と国家の攻撃行動

 
次は怒りが政治的意思決定に大きな影響を与えているという主張になる.ケーススタディは日独伊三国同盟締結と日米開戦の意思決定が扱われている.

  • 怒りに駆られた攻撃の衝動が国際紛争の大きな原因であることはしばしば主張される(ルーズベルトが第二次世界大戦に参戦するために真珠湾攻撃による国民の怒りを利用した例,ヒトラーがベルサイユ条約に対する国民の怒りを利用した例などが挙げられている)
  • しかし現代リアリズムは構造主義や経済合理性を過度に重視するためにこのような現象をうまく理論化できない.ここでは怒りの修正理論を用いてこのような現象の説明を試みる.
  • 怒りの修正理論とは,怒りには怒りを示すことにより相手との間での幸福交換の比率を自らに有利なように修正を図る機能(強く出て相手の譲歩を促すというほどの意味だろう)があるとするものだ.相手国から何か不当な仕打ちをされたと感じた国民および指導者は怒りを示すことによってこれを修正しなければならないと感じる.指導者は国民のこの感情を利用して対外政策をめぐるコンセンサスを得て,戦争行為という集団内協調を可能にすることができる.私は次の仮説(怒りの報復モデル)を提示する.(1)敵国からの不当な行為は指導者の憤りを生み,敵国への攻撃的政策を選好させる.(2)指導者は敵国の悪意を利用して国内アクターの憤りを駆り立て攻撃的政策への支持を調達しようとする.(3)憤りは国内アクター間で攻撃的政策に向けた選好収斂をもたらし,国家という集団が敵国へ攻撃行動をとることを可能にする.

 
 

  • なぜ日本は三極構造の中で日独伊三国同盟を締結して第二次世界大戦勃発にかかる国際システムの構造的転換をもたらしたのか.これまでのリアリズムは「利益獲得のためのバンドワゴン」「脅威均衡」という説明を行ってきた.これらは「欧州戦線でのドイツの快進撃に便乗して利益獲得を図った」「アメリカの脅威に対抗するため」という説明になる.
  • しかしこれらの説明は指導者の心理的要因の重要性を見逃している.怒りの報復モデルからは日本は三国同盟締結によりアメリカに対して強硬姿勢を示し,第二次世界大戦(欧州戦線)後に再び予想されるアメリカからの不当な干渉を抑止しようとしていたと説明できる.
  • 当時日本では三国同盟に対して海軍が強く反対していた.松岡は大本営の会議で「英米と結ぶのであれば,東亜新秩序はあきらめ支那事変は米の言う通りに処理し,少なくともあと半世紀は英米に頭を下げ続けなければならない.それで国民は納得するか.前大戦のあとにあんな目に遭ったのに今度はどんな目に遭うかわからない」(あんな目というのは石井ランシング協定破棄とワシントン体制成立*5,アメリカの日本の大陸進出についての抑え込み政策,山東半島利権の返還と日英同盟破棄を強要されたことなどを指している)と主張して海軍を抑えた.これは日本のアジア政策に対する米国の干渉を不当な扱いと憤り,アメリカの悪意を誇張する言説に訴えていると見ることができる.これは仮説(1)(2)と整合的だ.

 

  • なぜ日本は約8倍の潜在生産力を持つ米国との開戦を決断したのか.攻撃的リアリズムは「危険ではあったが1種の賭けに出たのだ」と,貿易期待理論は「高度な依存状況の下,次第に増していく悲観的な貿易の見込みという原因に駆り立てられた」と,利益均衡理論は「限定的な現状打破の動機から」と,脅威均衡理論は「脅威とパワーに対する相手国の戦略傾向を誤認した」と説明することになる.またパワーシフト論からは「このまま国家が立ちいかなくなるのを座して待つよりも太平洋方面で軍事的優勢を保持している間に開戦した方がましだと判断した」という説明が,窓理論からは「予防戦争との動機と交渉の不信」という説明が,予防戦争戦略理論からは「衰退国の機動戦略(戦略的麻痺を通じて敵国を打ち負かそうとするもの)」という説明が,防御的リアリズムからは陸海軍抗争や軍国主義からの説明が,国際政治の合理的理論からは「日本海軍の次善の軍拡であった」という説明が提出されている.
  • またこれまで心理的な説明を行ってきたリアリストも存在しなかったわけではない.悲観主義から来る脆弱性に起因するという説(プロスペクト理論の応用),楽観主義から来る機会主義に起因するという説などが提唱されている.しかしこれらも含めて既存の説明はハル・ノートにより引き起こされた憤りという側面を無視している.
  • 怒りの報復モデルからは以下のように説明可能だ.米国の石油全面禁輸後日米開戦の蓋然性は高まったが,近衛から交代した(当初強硬派だった)東条内閣は昭和天皇の意向も受けて開戦回避を画策していた.ぎりぎりの日米交渉が続き,日本側はその結果に一喜一憂していたが,11月26日に渡されたハル・ノートは(日本側から見ると)逆に条件をつり上げ,無理難題を突きつけるものだった.日本側はこれを挑発的で侮辱的な文書と受け止め,日本が一方的な被害者であるという政権内の共通認識を強固なものにし,これによる憤りが開戦への決意に向かわせた.これは仮説(1)と整合的だ.またハル・ノートは政権内で強硬派が穏健派を説得するための政治的道具にもなり,開戦への選好は収斂した.これは仮説(2)と整合的だ.

 
第6章と第7章のケーススタディは日本の日米開戦まで至る政治過程をモデルに当てはめようとするものであり,なかなか迫力があって読んでいて興味深い.しかしいろいろと荒削りな印象もある.著者はワシントン体制でアメリカからの干渉を受けた日本が日独伊三国同盟締結,日ソ中立条約締結,日米開戦と進んだ背景に,アメリカからの干渉への怒り,独ソ戦はないとする過信,ハル・ノートへの怒りがあるとする.指導者が怒りを感じるとそれが政策選好に影響を与えるというのはそうかもしれない.しかし本来はそれを押し殺して合理的に行動すべきであり,実際には指導者は多くの場合そうしているだろう.特定状況でなぜそれができなかったのかがより深く問われるべきではないだろうか.また進化心理学的な知見を生かすとするなら,(松岡の陥った)自己欺瞞,進化環境にはない大規模なエージェンシープロブレムの方がより重要な問題であるような気もするところだ*6
 

終章 進化政治学に基づいた国際政治研究の展望

 
終章において著者はまず本書の議論の要約を提示したのち予想される批判に答えている.

  • 本書の諸仮説は既存の国際政治理論研究のそれと実質的に異なっていないため学術的意義はないのではないかという批判:これに対しては科学的実在論から現象のミクロファンデーションを取り扱えるとともに統一的説明を提示できると反論できる.また既知の現象に新奇な理論的説明を与えることはメタ理論的基準としての使用新奇性という科学哲学の立場からも擁護できる.
  • 本書のケーススタディは理論の単なる提示にとどまっており検証に至っていないという批判:これに対しては科学的実在論の観点主義から,そもそも正しい理論を一意に選ぶ必要はなく,厳格な検証することはそもそも不可能で,特定の観点から近似的に真理に接近するためのモデルとして扱えばいいと反論できる.また可能性調査という事例研究の方法論(まず理論の提示をしてその妥当性確認し,その後より基準を厳しくした事例研究に移っていく)からも擁護可能だ.
  • 理論はそもそも現実を説明するための道具であり,フィクションであることは許されるのではないかという(道具主義からの亜)批判:道具主義に立つ限り,本書の「これまでの国政政治理論にミクロファウンデーションを与える」という試みに意義を見いだすことは難しい.これは学者の研究への基本的な態度に関する根源的な問題ということになる.
  • 進化や脳内バイアスのような観察不可能なものを所与として理論を構築して良いのかという批判:科学的実在論からは検出という概念から,また最善の説明への推論という考え方から反論できる.

  
著者は全面的に科学的実在論に立って反論している.私としては道具主義に立っても十分批判には対抗できるのではないかという思いを禁じ得ないところだ.より現象の説明や予測にかなうモデルを作るには諸仮定が統一された基礎理論に従っている方が破綻しにくいだろう.それだけで十分道具主義からも進化政治学は擁護可能に思われる.
 
そして本研究のインプリケーションとして次の5点を挙げる

  • 政治学の研究においては正しい理論を一意に選ぶ必要はなく,観点主義の立場から,特定の観点ごとに理論の妥当性を確認していくという立場が是認される.本書の3つの因果モデルはあくまで任意の事例における特定の観点を理論化したものだ.そして単一の事例にも多様な観点が存在している.
  • 方法論的自然主義に懐疑的な政治学者は政治学の科学的研究方法を否定しがちだ.これは過度な経験主義であり,特定事例の任意の局面をどう写し取れるかを確認するという緩い経験主義に基づいて科学的に研究することは推進されるべきだ.
  • 社会科学はこれまでのミクロ経済的合理性仮定ではなく進化を考慮した生態的合理性仮定を採用すべきだ.
  • 進化政治学は古典的リアリズムの豊かな国際政治思想(ナショナリズム,権力政治など)に科学的裏付けを与えて再興を図ることができる.
  • 政治学は科学的実在論に立つことによりポストモダニズムからの批判を克服することができる.

 
著者は観点主義は科学的実在論にある立場であるとしている.しかしこの説明を見る限り道具主義から観点主義をとっても破綻しないのではないかと思われる.おそらくここは私の理解が浅いということなのだろう.
 
最後に著者は今後の課題としてピンカーによる啓蒙主義による暴力の歴史的低減の主張が進化政治学に重大な挑戦を与えていると指摘している.心の仕組みが進化産物で(数百年単位で)不変であるならなぜ国際政治が平和的に変化しうるのかというパズルがあると考えているようだ.ここではピンカーを批判する国際政治学者の議論も紹介している.
しかしこれはパズルでも何でもないように思う.むしろ著者のモデルが荒削りで雑すぎることがまさにここに現れているのであって,ヒトの心の仕組みが不変であっても,それが個人個人でどういう行動に表れるかは環境に大きく依存し,さらに個人から組織へ,組織から国家へと複雑な相互作用を行うのだから,国際政治が(ヒトの心の仕組みが不変なまま)そういう要素の変化によって変貌していっても何ら不思議はないと考えるべきだろう.
 
本書は国際政治学理論に進化心理学的知見を組み入れようとする意欲的な取り組みを扱ったもので,コンシリエンスを待望する私としては大いに評価したい.まだまだ取り組みは粗いが,これからどんどん研究を進めて精緻化していくことを期待したい.なお科学的実在論については1つの立場ということだろう.本書評では「進化政治学自体は道具主義の立場に立っても十分擁護できるのではないか」という感想を書いたが,それは私の好みということであり,著者の立場も十分成り立つものだと思う.
 

*1:なお著者はクルツバン,トゥービーは進化政治学者でもあるとしている

*2:当初の議論は国家はパワーの均衡をめざすというものだったが,反例が見つかるとパワーではなく脅威の均衡だという議論が提示され,それも反例が見つかると,全均衡化理論が提示され,さらに反例が見つかり,複合的脅威識別モデルが提示されているそうだ

*3:私の感覚では実在論の方が,「何が実在か」について議論が怪しくなりやすく,より教条的になりやすいのではないかという気がする.それは「因果」について実在論の立場から包括適応度理論よりマルチレベル淘汰論が優れていると主張するDSウィルソンの筋悪の議論による印象かもしれないが

*4:同盟分断理論から中ソ離間戦略をとっていると合理的に説明できるという説もあるが,それは三国同盟成立により米英の重慶援助方針が明確化された以上時機を逸しているとして斥けられるとしている.

*5:松岡は第一次世界大戦では英米に協力したのにワシントン会議ではつらい目に遭わされたと感じており,米国との間でどのような協定を成立させても欧州戦争で英米が勝てば反故にされると考えていたようだ

*6:例えば,自らの政治基盤が脆弱な政治家はより大衆に迎合して自らの地位を守る必要が高く,合理的に行動しにくくなるのかもしれない.その際には自らの醜い動機を悟られないように無意識のうちに自己欺瞞に陥りがちになるだろう.それはまさにエージェンシープロブレムの現れということになるだろう.