Language, Cognition, and Human Nature その88

第8論文 「なぜ氏か育ちかという問題は消え去ったりしないのか」 その3

 
Why Nature and Nurture Won’t Go Away  Daedalus 133(4): 5-17. (2004)
 
論文の冒頭でピンカーはこれまでのブランクスレートイデオロギーの概要とそれが科学的知見と矛盾することを示した.そして遺伝と環境についてはどう考えるべきなのかについて論を進める.
 

  • 遺伝と環境はもちろんオルタナティブではない.学習それ自体生得的な回路によりなされるほかない.そして生得性というのは固定された行動インストラクションではなく,外界の情報を取り入れて新しい思考や行動を生じさせるプログラムに近いものだ.言語は典型的な例だ.日本語やヨルバ語のような特定言語は生得的ではないが,言語獲得能力はヒト特有の才能だ.
  • さらに心は相互作用する数多くのパーツからなる複雑なシステムなので,ヒトが一律に利己的かそうでないかのような議論をするのは無意味だ.ヒトの心は異なる環境で異なって起動される競合する複数の動機によって駆動されている.そして遺伝子の影響は個別の行動のために直接筋肉を操るのではなく,成長する脳の精妙な回路形成において現れるのだ.
  • 最後に「ヒトが共通して生得的に持っているものは何か」という問題は「人種や性別や個人が生得的にどう異なっているか」という問題とは区別されるべきだ.進化生物学は,種特異的でシステマティックな共通性,ある程度の性差,個人間のランダムで量的な分散,人種差や民族差は無いかごく小さいことを予測する.

 

  • このようなヒトの本性についてのリフレームはヒトの本性というものについての政治的倫理的恐怖にどう対応するかについての合理的な方法を与えてくれる.例えば,政治的な平等は「ヒトは生得的には同じだ」というドグマに基づく必要はなく,教育や司法において平等に取り扱うというコミットメントに基づけばいいのだ.社会的進歩は,ヒトの心の無条件な善性を要求するわけではなく,よこしまな動機に対抗できる動機があることを基盤に可能だと認識すればいい.

 
ここまでがピンカーの考えだ.前半部分は進化心理学の考え方の簡潔なまとめになっていて見事だ.後半部分は「暴力の人類史」や「21世紀の啓蒙」でも強調されている政治的倫理的にどう考えるべきかという部分になるだろう.しかしこれとは異なる態度をとる科学者達がいるとピンカーは指摘する.
 

  • これまでのところほとんどの科学者は,19世紀の「生物学は運命だ」という教義も,20世紀の「心は空白の石版だ」という教義も否定している.しかし同時に多くの科学者は心が持つ生得的な機構を記述しようとする試みに対して不快感を示す.この(遺伝か環境か)という問題全体がどっかに消え去ってくれればいいのにという願いが広く見られるのだ.

 
ここでピンカーは消え去って欲しい科学者達の典型的な言い振りを紹介している

    • 今日誰も心が空白の石版だなどと信じているわけではない.それを批判するのは藁人形論法だ.すべての行動は遺伝と環境の精妙な絡み合いの産物だ.だから「氏か育ちか」問題の解答は「それぞれ部分的に」だ.これが理解できれば政治的な非難の応酬を避けることができる.
    • さらに現代生物学は氏か育ちかという区別自体を時代遅れにしている.それぞれの遺伝子は異なる環境で異なった発現をするわけだから,環境によっては逆方向に発現することもあるかもしれない.つまり遺伝子が行動に決定的な制限を課すことはないし,遺伝子と環境を区別すること自体無意味だ

 
この言いぶりを見ると,基本的には遺伝も環境も影響を与えるといえば論争は避けられるとし,そしてそう言いながらも遺伝の影響については環境で打ち消せる(かもしれない)ので実質的に大した問題ではないとして矮小化しようという魂胆が透けて見えるものになっている.しかし実際にはブランクスレートドグマはまだまだ消え去っていないので,ドグマ的な論者は遺伝も影響を与えるという言い方につかみかかってくるだろうし,この矮小化のロジックには無理があるだろう.ここからピンカーはこのあたりについて徹底的に批判していくことになる.