Language, Cognition, and Human Nature その90

第8論文 「なぜ氏か育ちかという問題は消え去ったりしないのか」 その5

 
Why Nature and Nurture Won’t Go Away  Daedalus 133(4): 5-17. (2004)
 
ピンカーによる全体論的相互主義者への批判が続く.
  

「だから『氏か育ちか』問題の解答は『それぞれ部分的に』だ」
  • これも正しくない.なぜ英国に住む人々は英語をしゃべり,日本に住む人々は日本語をしゃべるのか.「それぞれ」が関与しているなら,英国の人々は英語を学びやすくする遺伝子も持っていることになる.これは間違いだ.どのような祖先を持っていようが,ヒトは(幼児期に)ある言語に晒されればそれを素速く獲得することができる.ヒトは言語を獲得する能力を遺伝的に持っているが,特定言語を獲得する傾向を遺伝として持つわけではないのだ.だからこの問題への解答は100%環境だというもののはずだ.
  • 時に全く逆が正解になる.精神科医はかつて精神障害を母親のせいだとしていた.自閉症は冷蔵庫ママのせいで,統合失調はダブルバインド*1に追い込む母親のせいだというわけだ.しかし今日我々は両方とも非常に遺伝性が高いことを知っている.100%遺伝というわけではないが,ありそうな環境要因も毒性物質,病原体,発達の際の偶然などで,母親の態度とは関係がない.「それぞれ部分的に」説だと母親の子育ても部分的に非難されるべきことになる.しかしそれは非難されるべきものではないのだ.

 
確かにヒトのパーソナリティなどの個人差のある特徴の多くは遺伝と環境双方が相互作用しながら働いているが,もちろんほぼ遺伝だけ,ほぼ環境だけで決まることも多いわけだ.全体論的相互主義者は通常双方が働いていそうな特徴について「それぞれ部分的」論を持ち出すだろうから,このような批判には戸惑うかもしれないが,一般論として持ち出すのは確かに問題ということだろう.
 

「人々が行動のすべての側面に遺伝と環境の組み合わせが含まれていることを理解すれば,政治的な論争は消えてなくなるだろう.」
  • 確かに多くの心理学者はこの当たり障りのない中間地帯に逃げ込もうとしている.
  • しかし,これから挙げる引用をよく吟味して欲しい.「読者が遺伝的あるいは環境的な説明のどちらかが排他的に勝ち残るだろうと考えているとするなら,私たちは上手に説明できていないということだろう.この問題について遺伝子と環境が共に働いているというのはとてもありそうなことだ」これは全体論的相互主義者による合理的な妥協であり,論争を引き起こしそうには見えないだろう.しかし実際にはこの文章は1990年のハーンスタインとマレーによる「ベル・カーブ」からの引用だ.彼等はアメリカの黒人と白人のIQ差について遺伝的要因と環境的要因の両方が働いていると論じている.「どちらも部分的に」という立場は彼等を「ナチのような人種差別主義者」という糾弾から逃れさせはしなかった.そして彼等のこの立場は正しくない.このIQの人種差が100%環境要因であることは十分あり得ることだ.ポイントは,多くの心理学のドメインで遺伝的要因が少しでも働いているという主張は今でも激しい論争を引き起こすということだ.

 
ここは全体論的相互主義者の戦術の稚拙さという部分になる.イデオロギー的なブランクスレート論者から見れば「遺伝も」というだけでたたきつぶすべき差別主義的発言ということになるはずだ.実際に政治的に問題になるのは「遺伝だけ」で頑張った場合ではなく(政治的にセンシティブな問題にそういうがんばり方はまず誰もしないだろう),「遺伝も」という状況で生じることがほとんどだろう.つまり全体論的相互主義は政治的保身の動機から(真実から離れ,リサーチプログラムをあきらめる形で)唱えられているが,そのコストに見合う政治的保身の役にすら立たないような立場だということになる.
 

*1:2つの選択肢のどちらを選んでも悪い結果になるが,どちらかを選ぶことを強要すること