From Darwin to Derrida その6

 
生物の多様性を神の創造なしで唯物的に説明したダーウィン学説についてハクスレーはアリストテレス以来の目的論を排除したものだと評した.しかしダーウィン自身は自然淘汰を形態と目的を合わせて説明するものだと考えていたようだ.ここから,ではダーウィン以降はどうなったのかが扱われる.
まず発生学の伝統を受けたドイツ観念論的な議論が登場する.

 

未完の連合?

 

  • ダーウィンは「種の起源」で比較発生学は共通の祖先による類似性と,多様な適応による相違を明らかにしたと論じた.原型の統一と生存条件の相克を調和させたのだ.しかしダーウィンによるこの形態と機能の説明は,ゴールに向けた過程を探求する発生学と事前に定められたゴールを持たない自然淘汰の研究の間に不和を生みだしてしまった.
  • アリストテレスのtelos(目的)は「動きの最終目標」と「功利的目的」の両方を意味しており,それ以来この2つの意味はもつれ合って扱われてきた.19世紀の前半まで「evolution」は一般的には卵や胎児から成体に至る「発生過程」を表す言葉だった.この文脈ではtelosは成体の形態の獲得を意味する.その後現在の「evolution」の意味つまり世代を重ねた変化(進化)にも用いられるようになった.そこにはこの2つの変化プロセスの間にアナロジーが成立するという含意があった.あるいは19世紀のドイツの形態学者はゴールに向かう発生過程に注目し,英国のナチュラリストは功利的な機能に注目していたと言ってもいい.
  • 19世紀末の科学史家ピーター・ボウラーは「『種の起源』は生物学者の間に進化的変化の存在を広く受容させたが,自然淘汰のメカニズムはほとんど無視された」とまとめている.進化的変化の理論はゴールに向かう発生過程としてモデル化されるようになった.その1つの例がドイツの博物学者テオドール・アイマーによる定向進化理論だ.

On Orthogenesis: And the Impotence of Natural Selection in Species Formation

On Orthogenesis: And the Impotence of Natural Selection in Species Formation

  • 作者:Eimer, Theodor
  • 発売日: 2012/08/31
  • メディア: ペーパーバック

  • このような理論は(ダーウィンが否定した)「そこへ向かうゴール」としての目的因を受け入れ,(ダーウィンが受け入れた)「功利的な目的」としての目的因を拒否した.
  • 進化の現代的総合は自然淘汰による進化とメンデル遺伝学を統合した.これについて良く言われるのはこの総合に発生学が排除されたというものだが,もう1つの見方はほとんどの当時の一流の発生学者は不参加を選択したというものだ.彼等は発生を理解するのに自然淘汰やメンデル遺伝学を取り入れる意義を見いだせなかったのだろう.

 
ドイツ観念論は生物の発生にゴールをみて,進化も同じようにとらえた.観念論的なドイツの発生学者が現代的総合に背を向けたというヘイグの解釈はいかにも英米の経験主義派らしく面白い.
 

メカニズムへの縮退

 

  • ダーウィンが目的論を取り入れようとしたにもかかわらず,進化的目的論の魅力はほとんどの実験生物学者から拒絶された.そして彼等は生物についての説明を物理学と化学で行おうとした.この動きはまず生理学に生じ,そして生化学,細胞生物学,実験発生学に広がっていった.生物界も非生物界も同じ法則に従うと考えられた.そして目的因は物理学者も科学者もはるか昔に捨て去っていたので,彼等もそれを拒否することになった.この機械論的生物学は19世紀に興隆し,20世紀生物学の主流になった.ヘルムホルツは1961年にこう書いている.「生物体の中では非生物にあるエージェント以外のエージェントが働いているかもしれない.しかしそれらであってもそれが物理化学的力を与える限り,非生物のものと基本的に同じはずだ.・・・」
  • ほとんどの機械論者にとって,(力の保存の法則から)先立つ物理的な原因なしに,生物が不動の動者になったり,自由選択を行ったする可能性はなかった.
  • そしてほとんどの現代生物学者にとって実験実務や科学哲学を形作るうえで「機械論革命」は「ダーウィニアン革命」よりはるかに重要だったのだ.彼等にとってダーウィニズムは中心ではなかった.一部の学者は進化仮説によって多様な生物の内部作用における基本的な類似性を説明できることを歓迎した.それはイースト菌での研究を医療応用することを正当化したからだ.また別の学者はダーウィニズムを物質主義の擁護と目的因の排除の正当化だと受け取った.多くの学者は自然淘汰のメタファーは,特にそれが意図的な含意が感じられるときには,科学的には疑わしいと感じていた.
  • 20世紀の半ばまでには機械論は生物学の城壁を乗り越え,その領域を質料因と作用因で覆い尽くした.非物理的要因を考えようとする学者はいたが,自分たちは正統派機械論に対する異端的な立場だと自認するものばかりだった.
  • 私が教育を受けたときには繰り返し目的論的な思考とその近い親戚である擬人主義(心臓は血液循環のためのポンプである,RNAはタンパク質転写のためのメッセンジャーである)を注意された.17世紀の科学的探求における目的因の排除はなお大きな影響を与えていた.
  • 目的や機能という概念は生物学の実践を形作ってきた.生き物のことを考える場合それはごく自然なやり方だ.しかしあからさまな目的論的な用語は検閲された.目的因は不妊の処女として避けられた.それはハードサイエンスの活力あふれたウルカヌス神に対して甚だしく嫌悪される対象なのだ.

 
そしてダーウィンの目的の説明への肯定的態度もドイツ観念論的な目的論も,20世紀に入ると生物学の主流からは排除されてしまった.この状況説明が本書第1章ということになる.しかしメタファーとしての目的は実は単純に排除させていいものではないはずだというのがヘイグの主張であり,ここからじっくり語られていくことになる.