書評 「チョウの生態「学」始末」

 

本書は共立スマートセレクションシリーズの一冊,チョウやトンボの生態学の大御所である渡辺守によるチョウの行動生態研究についての本になる.渡辺の研究生活は日本の生態学が行動生態学を受け入れていった時期に重なっており,その同時代的な証言と共にチョウの行動生態の知見の広がりが語られている.
 

第1章 はじめに

 
第1章はこの行動生態学の受け入れを扱っている.日本でドーキンスの「利己的な遺伝子」が(「生物=生存機械論」という邦題で)出版されたのが1980年であり,この考え方を受け入れるかどうかが議論となったが,若い世代の研究者には抵抗なく受け入れられていったこと,特にチョウの生態学についてはメスの多回交尾がうまく説明できることから浸透していき,1990年の中頃には利己的な遺伝子理論が席捲するようになったことが記されている.また本書では前半に行動生態学受け入れ前の生活史戦略の研究が,後半に行動生態学受け入れ後の繁殖行動研究が描かれることも予告されている.
 

第2章〜第3章 チョウの生活史

 
行動生態学受け入れ前のチョウの生活史の研究は個体群動態の研究として行われたということになる.まずここでは個体識別した上での標識再捕獲法(非常に手間がかかる)と三角格子法が解説され,それによる生命表の解析,生存率や移動・分散の解析がなされていたことが説明される.ここからアゲハ類についての研究の実例が実際の生命表と共に紹介されている.面白いところをいくつか紹介しよう.

  • (キアゲハ以外の)アゲハ類の寄主植物はミカン科植物で,メスは匂いの強い若葉や新芽に選択的に産卵する.産み付けられる卵はすべて受精されたものだが,タマゴヤドリバチに寄生されることが多く,寄生率は90%に達することもある.これに対して若齢幼虫期の特異的天敵は知られていない.4齢までのアゲハ類の幼虫は鳥糞状といわれるが,これが鳥糞への擬態として有効に機能しているかどうかを定量的に裏付けたデータはない.あるいは分断色かもしれない.3~4齢以降はアシナガバチ類による捕食,ヒメバチ類による寄生が生じる.全体としては生存曲線は初期死亡が少ない生存曲線になっている. 
  • ナミアゲハの主要な寄主植物はカラスザンショウになる.カラスザンショウは先駆樹種であり攪乱によって土壌が明るくなると一斉に発芽する.ナミアゲハの幼虫は(カラスザンショウが成長するにつれて蓄積していく)タンニンを分解できないので,生息地はせいぜい2〜3年までの二次遷移の初期段階に限定されている.
  • 成虫になったあとはメスは寄主植物を探して産卵し,オスは活発に飛翔してメスを探す.キアゲハは明るい草地を好み,ナミアゲハは森と草地の間,黒色系アゲハは林内やギャップを好む.かつては翅の色の黒さが日光に当たったときの体温上昇に不利であることと飛翔経路の好みを関連付けた説明がなされていたが,実際に調べたところ胴体の温度に翅の色はほとんど関係ないことがわかってこの説明は棄却された.
  • 成虫の平均寿命は2〜3週間で,羽化後しばらくは死亡率が低く,日齢が進むにつれて高くなる.翅のしなやかさと鱗粉の豊富さが捕食回避に効いているからだと考えられる.成虫時の重要な蜜源はクサギ類になり,この蜜源と産卵場所のネットワークが成虫の生息地ということになる. 

 
続いて成虫の訪花行動についての研究が語られている.

  • チョウは長い口吻で多くの花の蜜を吸うことができるので,かつては(植物からみた)花粉媒介の効率は悪いと考えられてきた.しかしチョウの成虫は広範囲に飛翔するために遠く離れて咲いている花の間の花粉媒介においては重要な役割があると考えられるようになっている.(クサギとイヌガラシの蜜量や糖濃度の変化がチョウの花粉媒介効率のための適応的な性質となっていることが示されている)

ここで,チョウのメスの卵の総数の計測方法,メスの摂取蜜量と卵生産能力の関係,オスの生殖器官(先端からみて付属腺物質,精包物質,精子の順に装填されている)の詳細,オスの摂取蜜量と精包生産能力などが説明されている.これらをみるとオスにとって精包が極めて重要で,その精包生産のコストの方が非常に大きいことがわかる.

  • オスは生涯に何度も交尾を行えると考えられてきたが,1回の交尾で10mgもの付属線物質と精包物質を注入しており,この量をフルに回復するには3日間の糖蜜摂取と休息が必要になる.この間オスはメスに目もくれずに摂食に専念する.これまでの実効性比の考え方には修正が必要だと考えられる.

 

第4章〜第6章 チョウの行動生態学

 
第4章からはチョウの行動生態学が語られている.研究者達が何に興味をもち,どのように調べていったのかが同時代的な証言のように構成されていて充実している.本書の中心部分になる.

  • 動物の配偶行動に対する研究は解発因の特定から行動の意味・役割の解析へ変化した.
  • 行動生態学の受け入れ初期にはチョウについても「メスの子育て投資量の方がオスのそれより圧倒的に大きい,メスには多回交尾する動機はない,オスは何頭ものメスと交尾を試みる」という前提から始まった.
  • 過去に得られていた生命表を解析すると,産卵された卵のほとんどは天敵に襲われない限り孵化することがわかり,メスの繁殖成功は参加卵数を指標として評価されるようになった.オスの繁殖成功は生涯に交尾したメスの数が指標とされた.(本来受精卵数をみるべきだが,当時どの程度そのオスの精子で受精したかを知る方法はなかった.)
  • 最初にオスの配偶行動がどのように最適化されているかが調べられた.それは処女メスと交尾できる確率を最大化させるというモデルで,処女メスとの出合い確率,ライバルオスとの遭遇確率,捕食リスクにより最適飛翔時刻が決まるというものであり,メスよりやや早く羽化をはじめること(プロタンドリー)が説明できた.この背景には交尾済みのメスは種特有の交尾拒否行動を示すので,オスと処女メスの比率が実効性比であるという前提があった.
  • しかしこの解釈では(ほとんど処女メスが残っていないであろう)飛翔季節後半までオスが生き残ってメス探索飛翔し,出合ったメスに求愛行動を示すことが説明できなかった.
  • ここで,交尾中の連結時には捕食リスクが高まるにもかかわらず交尾時間は最短化されておらず,付属線物質や精包を送り込むことがオスやメスにとってなんらかのメリットになっていることが示唆された.さらにメス体内には複数の精包が存在することがあり,交尾済みのメスがある程度時間が経過すると再びオスを受け入れることも明らかになってきた.
  • なぜメスは積極的に多回交尾を受け入れるのか.様々なリサーチがなされ,精包に含まれるエネルギーや栄養がメスに多回交尾のメリット(総産卵数の増加)を与えていることがわかってきた.メスはオスからの精包物質を吸収したあとに交尾を受け入れるのが(産卵数を多くするために)最適であり,オスは(他のオスによる交尾を遅らせるために)大きな精包をメスに注入することにメリットがあるのだ.
  • このような解釈体系のなか,モンキチョウによるメスの二型について黄翅型メスは(求愛されるコストを避けるための)オス擬態だとして説明され,キタキチョウの成虫越冬世代の意味なども解明された.
  • オスは大きな精包を作ることでメリットを得る.このためオスの子育て投資は当初考えられていたよりはるかに大きいことになる.実際にオスは常に交尾に積極的ではなく,精包を作るためにエネルギーや栄養を集めることを優先させる時期がある.また様々なオス間競争やオスメス間コンフリクトの実態(交尾栓,ハラスメントなど)も解明された.オスの無核精子の究極因が何かについても議論された(精子競争におけるカミカゼ精子仮説など8つの仮説が解説されている.なおまだ結論は出ていないそうだ).

 

第7章 研究室の学生たち

 
最後にあとがきに変えて著者の研究者としての雑感が語られている.研究室にパソコンが導入されはじめた黎明期の想い出,チョウの大量飼育ノウハウの確立,野外調査時の爆笑エピソードなどが楽しく,なかなか味のあるあとがきになっている.
また最後にこのスマートセレクションのコーディネーターである巌佐庸の解説も収められていて,ここも読みどころの1つになっている.
 
渡辺の大学入学は1969年で,日本の生態学はまだ旧態依然としてイデオロギーに染まっていた時代になる.そこからの学者としてのキャリアはハミルトン革命と利己的な遺伝子視点に基づく行動生態学の受け入れと大きくかかわってくる.本書ではチョウの行動生態学の知見の積み重ねが,そのあたりの背景説明と著者自身の研究物語とともに語られており,学者人生の回顧録とも呼べる雰囲気が本書に不思議な魅力を与えている.読んでいて楽しい一冊だった.