From Darwin to Derrida その53

 
 

第6章 個体内コンフリクト その8

 
ヘイグは個体内コンフリクトの例として父由来遺伝子と母由来遺伝子のゲノム内コンフリクトを取り上げようとするが,その前に血縁淘汰を簡単におさらいした.教科書的には母と子の血縁度は1/2であり,母親がコストをかけて子に授乳することを説明できる.しかしここでは普通の教科書では語られない疑問が生じる.考えてみると両親が同じ子ども間ではやはり血縁度は1/2だ.なぜ哺乳類で姉から弟妹への授乳がほとんど見られないのだろうか.
 

  • ミーアキャットのメス個体が母親の子育てを手伝い兄弟に授乳する時には,(同じ遺伝子がある確率がやはり1/2の)兄弟の生殖細胞コピー効率を高めているだけでなく,母親の次の妊娠時期を早めて母親の生殖系列細胞コピー効率も高めていることになる.では何故哺乳動物で兄弟授乳がほとんど見られないのだろうか.

 
ヘイグはミーアキャットを取り上げているが,ハダカデバネズミのようなカースト制のある真社会性の哺乳類でも姉から弟妹への授乳は見られないようだ.子育てにコストを払っているようなヘルパー個体でも授乳は行われていないことになる.これは考えてみると不思議だ.
 

  • 1つは兄弟が常に両親を共有しているとは限らないからだ.父親が異なれば遺伝子共有確率は1/4になる.この時に母親由来遺伝子にとってはこの兄弟との遺伝子共有確率は1/2で,父親由来遺伝子にとっては0ということになる.だからこのような場合には娘の乳房にある母親由来遺伝子と父親由来遺伝子は兄弟に授乳するかどうかについて意見を異にすることになる.

 
父性の不確実性は行動生態学でよく取り上げられるテーマだが,血縁淘汰の文脈では普通血縁度が1/2〜1/4と小さくなるので利他行動が見られにくくなるという説明になる.ヘイグはその中身は母由来遺伝子にとっての1/2と父由来遺伝子にとっての1/2〜0というコンフリクトなのだと説明する.
なお兄弟授乳が見られないことには別の理由もあるだろう.1つは兄弟間の方が世代が近いということがあるだろう.姉の方が若く(その授乳を控えて別の繁殖を優先したときに)より多くの子を得られる可能性があるからだ.また子どもには必ず姉が存在するわけではないから姉授乳子育てシステムには(大規模な真社会性でない限り)いろいろな不確実性が生じてしまうということもあるだろう.
 

  • 実際には私たちのほとんどの血縁者は父方のみか母方のみの血縁者だ(直接子孫と両親を同じくする兄弟はその例外になる).父方遺伝子は父方の血縁者を優遇しようとし,母方遺伝子はその逆になる.遺伝子は由来により異なる「社会環境」を持っており,それに合わせて異なる行動を進化させる可能性がある.(母方の血縁と父方の血縁の非対称性の例として旧約聖書のアブラハムとイシュマイルとハガルの話が引かれている)
  • 血縁の非対称性は子どもからみた両親との関係で最大になる.そしてそこがゲノム内コンフリクトの主要舞台になると予測される.娘にある母方遺伝子にとってはその娘とその母親の価値は同じになる.しかし父方遺伝子にとってみれば母親にはあまり価値はない(ここでは配偶システムのばらつきに関連する複雑な問題については無視している).重要なことは母と娘の関係において,娘において生じている内部コンフリクトは母親においては生じない(なぜなら母親にある祖父と祖母の遺伝子は同じ確率で娘に受け継がれているから)ということだ.というわけで子どもが親について感じる感情は親が子どもについて感じる感情より大きく内部コンフリクトに晒されていると予測できる.
  • このような内部のコンフリクトを考察することは,もし本当に一部の遺伝子が父方か母方かで異なる現れ方をするという事実が見つかっていなければ,絵空事のように思われたかもしれない.しかしこのような現象はゲノミックインプリンティングとして知られている.インプリンティングと呼ぶのは当該遺伝子は親の生殖器官にいるときになんらかのマークを刻印(インプリント)されたと推測されているからだ.この刻印はその遺伝子の次世代のコピーに受け継がれ,自分が父から来たのか母から来たのかを区別できるようになっている一方,その世代の生殖器官に入れば(次の世代のために刻印し直すために)消去されているに違いない.

 
私たちの血縁者は(子孫や両親を同じくする兄弟を例外として)父方のみの血縁者か母方のみの血縁者だというのは考えてみると確かにそうだ.そして親戚とのおつきあいは単に夫婦間の揉め事のタネになるだけではなく,夫や妻の個体内のゲノミックコンフリクトのタネにもなり得るということになる.とはいえ,非対称性が最大になるのは子どもから見た両親との関係になるから,ここがゲノミックコンフリクトの主戦場ということになるわけだ.(私が知る限り父方のいとこに対するインプリント遺伝子間のコンフリクトがなんらかの生物学的現象を引き起こしているという報告はない)そしてさらにこのコンフリクトは子から見た親と親から見た子では全く異なる様相を示すことも説明されている.
そしてゲノミックインプリントとそれが引き起こすコンフリクト現象を最初に知ったときには,理屈の通り方と本当にそれが実在することに驚愕した記憶がある.ヘイグがいうようにインプリントが見つかっていなければこれは理論的に可能ではあってもまさか本当にコンフクトが発現することはないという風に思えただろう.