From Darwin to Derrida その66

 
 

第8章 自身とは何か その6

 
ヘイグによるスミスの道徳感情論の読み込み.ここまでは「本能」と題して,(本能としてある)感情の目的と適応度がずれうること,そしてそれは他者による操作の対象になり得ること,学習と理性により本能を出し抜けることなどが議論された.続いてヘイグは「理性」を扱う,
 

理性

 

  • 理性は,意識的,無意識的に働く生得的な問題解決メカニズムを含み,そして複数の目的を追求できる.理性は過去の自然淘汰が働いていない現在の環境の新奇な特徴にも反応でき,自然淘汰のハードワイヤード適応では対応できないような微少な利得の差異も利用できる.
  • 理性は感情の奴隷であり同時に統治者でもある.奴隷としての理性は感情の目的を達成するための効率的な方法を探すために使われる.この過程で理性は欲望を満たすための補助目的を見つけることもある.私が喉の渇きを感じているとして,私の(補助)目的は渓谷の道を見つけることだったり,バケツの穴を塞ぐことだったりする.理性は感情の目的を(文脈に応じて)特定し,修正するのだ.
  • 適応度は様々な文脈において異なった方法で得られるので,私たちには複数の感情がある.ある文脈で適応度を上げる行動が別の文脈では適応度を下げることがある.だから統治者としての理性はある特定の文脈,人生,文化において感情と感情の仲を取り持ち調整する.

 
感情の奴隷としての理性と感情の統治者としての理性を分けるというのはなかなか面白い発想だ.ヘイグが「奴隷としての理性」で説明しようとしていることは,感情にしたがって行動するにしても,どうすれば感情の欲求を満たせるかについて理性の働きどころがあるということであり,「統治者としての理性」は複数の感情がコンフリクトを起こしているときにそれを調停する役割があることだろう.この複数の感情というのは進化心理学でいうところのモジュールだが,ヘイグはあえてその用語は使っていない.
しかしこの調停はいつもスムーズに行くわけではない.ヘイグはうまくいかない場合について考察する.
 

  • 理性の目的(telos)は効用機能であり,それは異なる感情の選好を比較し統合する.そしてそこには私にとって何か漠然としてうまく定義できないものがある.
  • 理性が自分の中の異なるエージェントの選好の比較や統合をうまく行えないときに何が起こっているのかについて,社会的選択理論の方が合理的選択理論よりも良いモデルを提供している.そしてこの理論は重要な効用が比較できないときには基本的な合理性の基準が満たされなくなることを示唆している.

 
うまく調整できない場合に何が起こっているのかについて合理的選択理論はうまく当てはまらない.それは合理的選択理論はすべての結果を1次元の(経済学的)「効用」で比較できることが前提となっているからだ.そもそも複数の感情(モジュール)がコンフリクトしているときには,それぞれの感情の「効用」は同じ次元で単純に比較できない.すると状況は(同じ次元の効用を持たない)複数の主体がなんらかの意思決定を集団的に行うときにどうするかという社会的選択理論の方が当てはまりがよいことになる.(ここでヘイグは触れていないが)そしてそこにはアローの不可能性定理が厳然とそびえ立っており,一義的なうまい調整方法はないことになるのだ.
 

  • 内省ではどうすれば内的なジレンマを克服できるのかを明らかにはできない.私の決断は不安定であり,何かリーズナブルでパッピーな人生を目指しているようではあるが,片方で他者への義務と責任を果たそうとしており,それらは「良い人生」(それがどんな意味にせよ)を得ようとする複数の感情をどううまくバランスさせるかについての互いにコンフリクトする複数の文化的な示唆という文脈の上にある.

 
ここは味わい深い,モジュール間でコンフリクトがあるときに私たちの意識的な内省は何が生じているかについてクリアーな説明を与えてくれない.それはそのような状況における意思決定がそもそも不可能性定理の上にあることが影響しているからかもしれないし,あるいは(おそらくこちらの方が可能性が高いように思うが)意識は後付けの理屈をでっち上げる報道官に過ぎない(そして良い報道官であるために何が起こっているかについてアクセスできないようになっている)からかもしれない.