From Darwin to Derrida その86

 

第9章 どのようにして? 何のために? なぜ? その5


ヘイグによる至近因と究極因の読み解き.いよいよマイア論文にとりかかる.
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エルンスト・マイアと目的論(teleology) その2

 

  • 「生物学における原因と結果」は因果の3つの様相をめぐって構成されている.それは「過去の説明」「将来の予測」そして「目的論(teleology)」だ.
  • マイアはまず機能的生物学(finctional biology)と進化生物学(evolutionary biology)を異なる説明目的と異なる因果概念を持つものとして大きく区別している.彼は機能的生物学者の疑問をhow問題,進化生物学者の疑問をwhy問題とする.機能的生物学者は直接の原因(immediate causes)に関心を持ち,進化生物学者は「歴史を持つ原因」(causes that have a history)に関心を持つ.そして「このようにして,至近因は環境の直接の要因に対する個体や臓器の反応についての原因であり,究極因はすべての種のすべての個体が持つ特定のDNAコードの進化についての原因である」

 
これだけを読むと至近因はメカニズム的な原因と解釈でき,究極因はティンバーゲンのいう系統的原因なのか適応的原因なのかどちらとも解釈できそうに思える.どちらなのかについてヘイグはこう続ける.
 

  • マイアの「究極因」はしばしば適応価や適応の目的と解釈されている.だからここで彼が全く異なることを書いているのを引用するのには意味があるだろう.

私たちが「why」と問うとき,私たちはこの単語の曖昧性を自覚しているべきだ.それは「どのようにしてきたのか?」を指すこともあるし,「何のために?」を指すこともある.進化生物学者が「why」と問うときには,その心に歴史的な「どうやってきたのか?」があることは明白だ.

 

  • ではマイアはどういう意味で「至近因」「究極因」という用語を用いており,どうしてその用語を選んだのだろうか? マイアは何度も「至近因は直接的で究極因は歴史的だ」と書いている.だから究極因は至近因に時間的に先立つものとして用いられている.マイアは明らかに進化的な原因が直接的な原因を含まないとは考えていない.ではなぜたとえばremote causeといわずに「究極因」といったのだろうか.ここに「政治」がある.「至近因」は「remote cause」よりも力強く目立つ単語だ.しかし「究極因」は進化を単なる「至近因」より高く見せるのに使えるのだ.

 
「政治」があるというのには笑った.確かに歴史的な原因を遠因と呼ぶと「遠因を追及する科学」である進化生物学はたいしたことのないものに感じられるかもしれない.そこでインパクトのある「究極」を持ってきたというわけだ.そしてヘイグはさらにマイアは(アリストテレス的な)目的論を何としても排除しようとしたと指摘する.
 

  • マイアの目的論への扱いは彼の意図をよく物語っている.彼は「何のために?」質問の価値をその目的論的含み(teleological overtones)から明確に否定している.この「進化にはゴールや目的がある」という考え方は生気論の特徴であり,マイアがはっきりと否定しているものだ.
  • 目的に導かれた行動は生物学にはよく見られるが,それは進化した遺伝プログラムによるものだ.どのようにこのようなプログラムが表現されるのかは機能生物学の領分になるが,そのプログラムの起源は進化生物学の領分になる.「生物個体の発達や行動には目的がある.しかし自然淘汰には断じてない」.マイアはひそかに目的論的考察という汚名を進化生物学から切り離し,機能生物学に押し付けようとしている.進化は目的に導かれてはいないが,自然淘汰は明らかに目的を持つような生物個体を作り上げることをマイアはよくわかっていた.彼は目的を持つ行動を「目的論的(teleological)」と呼ばず,「teleonomic」と呼び,この単語の意味を「情報コードとしてのプログラムの実行によるシステムに硬直的な」という内容に限定している.

 

  • マイアは1969年のPhilosophy of Science誌に載せた「Footnotes on the philosophy of biology」においてこのテーマに戻っている.彼はこう宣言している.「生気論は死んだ.少なくとも生物学者にとっては.・・・生物学的システムの途方もない複雑性,生物個体の歴史的性質,それが持つ進化した遺伝的プログラムが,生物を非生物と全く異なるものにしている.・・・遺伝的プログラムの持つ適応的な性質からもたらさせる目的を持つかのようなプロセスと行動は「teleonomic」と呼ぶべきものだろう.宇宙全体が調和的なコスモスというゴールに向かって進化するようにプログラムされているというアリストテレス的な目的論(teleology)は受け入れられない.この狭義の「目的論」はどのような科学分野においても証拠がないのだ」
  • マイアのこの問題についての理解はさらに進化した.1974年の「Teleological and teleonomicという論文では目的論(teleology)とteleonomyの関係を議論している.「teleonomicなプロセスあるいは行動とは,そのゴールに導かれる性質をプログラムの実行として持つことだ」.ここでマイアはteleonomicの定義から「システム」を除いている.システムは動的ではなく静的だと感じたのだ.彼は今や「眼」や爆発する前の「魚雷」をteleonomicと考えることをやめている.「ゴールに導かれる」と「目的を持つ」というのは異なる.teleonomyと適応は異なるのだ.

 
異なる用語を用いて誤解を避けようとしたマイアの努力は涙ぐましい.残念ながらそれほどのこだわりがなかった生物学者にはこのマイアの執念は伝わらず,このteleonomyという用語が主流の生物学者が皆採用するという状況にはなっていないようだ.
なお気になってちょっと調べてみた.英語版wikipediaによるとこのteleonomyという用語を最初に用いたのは英国の生物学者であるコリン・ピッテンドリで1958年のことだそうだ.そしてマイアはピッテンドリの用語の(アリストテレスの目的論と明確に区別していないという)曖昧性を批判して独自の定義と用法を主張したと解説されている.
  

  • そして彼は進化的なwhyについての扱いも変えた.whatとhowに答えることは物理的な科学にとって適切で十分だが,生物学的な説明においてはwhyに対する答えが必要だと考えるようになったのだ.「ある生物学的な特徴の因果的な分析を完成させるには『なぜそれが存在するのか』つまりその生物個体にとってその特徴の機能と役割は何かを問うことは不可欠だ」「whyを問うためには,その表現型のすべての様相の淘汰的重要性を問うことが必要だ」 これはもはや「どのようにしてきたのか?」ではなく「何のために?」になっている.

 
進化生物学が分子生物学に圧倒されて消え去ったりせずにきちんとその基盤を固めたあとは政治的なかたくなさは必要なくなったということだろうか.きちんと適応的な疑問を追求することを真正面から認めるようになったということだろう.とは言え目的論と間違われることの懸念は最後まで持っていたようだ.
 

  • マイアは1992年の論文「The idea of teleology」において「適応性は事前の目的志向性ではなく事後の結果だ.この意味において適応的特徴に目的的(teleological)を使うのは間違っている」と書いている.また1993年の「Proximate and ultimate causations」においては究極因と自然目的論の歴史的関連を理解し,「究極(ultimate)という単語にまつわる歴史的な難点を避けるために,私は最近の論文では,「究極因」を使わずに「進化的」という言葉を選ぶようになった」と書いている.

 
ヘイグは最後にマイアのこの政治的な動機と難しい性格を合わせ持った人格についての思い出話を書いている.なかなか厄介な側面を持つ人物だったようだ.
 

  • マイアが老年になってドグマティック(あるいは権威的(ex cathedra)といっていいかもしれない)になったのはよく知られている.ここに私の個人的経験を残しておくのは進化生物学の歴史家には意味があるだろう.1999年に私はマイアのオフィスに呼び出された.「私たちは論文を共著することにする」と彼は宣言した.「私の英国の友人は・・・」彼はここで口ごもった.「ジョン・メイナード=スミスですか?」「そうだ.・・は間違っている.動物はゲームをしない」 これはマイアがメイナード=スミスとジョージ・ウィリアムズとともにクラフォード賞を受賞したと発表された直後だった.そこで私はマイアにメイナード=スミスとの共同受賞をどう思っているのかを聞いた.彼はこう答えた.メイナード=スミスは「受賞に値する」しかしウィリアムズは「そうではない.彼のやった仕事はすべて間違いだ」と.

 
ヘイグはこの背景を描いてくれていない.いったいメイナード=スミスやウィリアムズとの間に何があったのだろう.そしてこの共著論文は日の目を見たのだろうか?(ヘイグのサイトの業績部分を見る限り該当する論文はないようだ)