From Darwin to Derrida その88

第9章 どのようにして? 何のために? なぜ? その7

 
究極因と至近因についてのヘイグの探求.究極因とは何かについて曖昧だったマイアの議論後の状況として,究極因/至近因の区別の有用性をめぐる哲学者たちの論争があったこと,それよりはるかに前にティンバーゲンが究極因の生存価(何のために)と進化史(どのようにして来たのか)の問題を区別していたということが描かれた.そしてここからさらに議論がねじれていく様子が解説される.
 

マイア以降の至近因と究極因 その2

 

  • (進化生物学者にとって)「何のために」は自然淘汰に関連する.しかし「どのようにして来たのか」は追加的な歴史的要因を含む.
  • 論争当事者がどちらの意味で「究極因」を用いているかをよく見れば.彼等の立場や誤解がなぜ生じたかを理解できる.(究極因/至近因の区別は無用だとする)一部の論争当事者はこの区別を時系列的なものだと理解している.(リックリターとベリー,ホックマン,ラランドの文章が引用されている)この立場から見ると至近因と進化的原因の区別は「どのようにして」と「どのようにして来たのか」を区別しようとするもので,誤謬になる.

 
ここで系統的要因を究極因とする議論が引用されている.まず1990年のリックリッターとベリーの論文は「系統発生誤謬:発達心理学の進化理論の誤用」という題で,ヘイグが引用しているのは発生が何によって決定されているかについて,発生中に生じた原因(至近因)と発生以前に生じた原因(進化因)を区別できるというのは誤りだという議論だ.
https://psycnet.apa.org/record/1991-12214-001psycnet.apa.org

 
次のホックマンの論文は「系統発生誤謬と個体発生誤謬」という題で,それは系統発生誤謬というより個体発生誤謬と見る方がいいという議論を行っている.ヘイグの引用箇所は「至近的説明は現在の因果にフォーカスしている.進化的説明は現在がどのように過去の出来事によって形作られたかにフォーカスしている」という部分だ.
link.springer.com


ラランドの論文は前回引用されたものと同じものだ.ヘイグの引用は「至近因はある特徴についての直近でメカニカルな影響を与えるものだ.・・・究極因は歴史的な説明だ」という部分だ.
https://edisciplinas.usp.br/pluginfile.php/4270853/mod_resource/content/1/More%20on%20how%20and%20why%20cause%20and%20effect%20in%20biology_%20Laland%20et%20al%202013.pdf


  • これに対して究極因/至近因の区別の擁護者は「どのようにして」と「何のために」を区別しようとしており,「どのようにして来たのか」をより至近因的に扱おうとする.(バーンハムとジョンソン,ディッキンズとバートンの文章が引用されている)

 
バーンハムとジョンソンの論文は2005年のもので,アブストを読む限りヒトの利他性の進化について(ボウルズとギンタスなどの)グループ淘汰論者を批判するような内容になっている.ヘイグの引用箇所は「行動を理解するには・・・至近因(生理的メカニズム)と究極因(進化の“目的”)を区別することが重要だ」という部分だ.
https://www.imbs.uci.edu/files/docs/2007/evolution_punishment/jOHNSON2.pdf

 
ディッキンズとバートンの論文は前回も引用されたものだ.ヘイグの引用箇所は「究極因的な説明の有用性は,詳細なメカニズムや祖先からの変遷にあるのではない.それは機能の説明,なぜそれがそこにあるのかのところにあるのだ.・・・歴史的な記述はそれだけでは究極的説明を構成しない.・・・それは純粋に至近的に理解できる問題だ」という部分になる.
www.springer.com