書評 「人間の本質にせまる科学」

 
本書は若手研究者たちにより執筆された自然人類学の総説・入門書になる.内容的には東京大学の駒場の1,2年生向けのオムニバス講義がもとになっているようだ.自然人類学は「人間とは何か」という問いを自然科学的に探究する営みであり,時系列的にはチンパンジーとの分岐から未来まで,対象のスケールとしてはゲノムレベルから地球生態系までを視野に入れた広大な学問領域になる.本書ではそれぞれの専門家から人類進化の軌跡,ゲノム科学,ヒトの生物としての特徴,文化とのかかわりが解説されている.
 

第1部 人類進化の歩み

 
第1部は,霊長類の行動と社会,チンパンジーとの分岐から猿人*1まで,ホモ属,ネアンデルタールという4章構成になっていて,人類進化の最新の知見が要領良くまとめられている.各部において内容的に興味深かったところを紹介しておこう.

  • 霊長類の祖先は樹上の昆虫食者として進化したと考えられている(現在でも夜行性の曲鼻類の多くはこのような食性を持つ).これに対して真猿類はほとんどが昼行性の果実を主体とする雑食性となっている.
  • 霊長類社会は多様だ.夜行性曲鼻類には単独性が多く,昼行性のキツネザル類は母系の複雄複雌群をつくる.広鼻類(新世界ザル)の中でクモザル類は父系の複雄複雌群を,マーモセット類の多くは繁殖ペアと子供たちで集団を作る.狭鼻類のなかでは,マカク属は母系の複雄複雌群をつくり,ヒヒ類のなかには一頭のオスと複数のメスからなるユニットが多数集まる重層社会を作るものがある.類人猿は(種数はそれほど多くない割に)さまざまに多様な社会を持つ.
  • 頑丈型の猿人(エチオピクス,ロブストス,ボイセイ)をアウストラロピテクス属に含めるか,パラントロプス属とするかについては意見が一致していない.3種の系統関係については,3種がエチオピクスを祖先種とする単系統群と考えるのが自然だが,ロブストスをアフリカヌスから派生した独自系統とする見方も有力だ.頑丈型という名前から想像されるのとは違って身体の大きさ自体は華奢型の猿人と同じ程度だった.
  • ホモ属の祖先猿人ははっきりとはわかっていない.最近ホモ属とのつながりが深いと主張された猿人にはガルヒ,セディバがある.
  • 直立二足歩行の進化要因については,かつてはサバンナ仮説(特にイーストサイドストーリー)が有力だったが,初期の猿人(特にラミダス)の古環境が必ずしも乾燥した草原ではなかったことが明らかになってこれらの仮説の論拠は弱まった.現在ラブジョイの食料運搬仮説が有力になっているが,批判も多くなお論争が続いている.
  • かつてホモ属の最初の出アフリカはエレクトスの時代で100万年前ごろとされていたが,ドマニシの178万年前の化石や中国陕西省藍田の210万年前のオルドヴァイ型石器が出土し,その年代は大きくさかのぼった.
  • 2019年にフィリピンのルソン島で6万年前ごろとされる(フローレス原人に続いて)矮小化した原人化石が発見され,ホモ・ルゾネンシス(ルソン原人)と名付けられた.台湾の西側の海底からは45~19万年前の原人のものと見られる頑丈な下顎骨が引き上げられており,また(旧人である)デニソワ人の発見もあり.アジアでの人類進化の様相はかなり複雑であることがわかってきた.

 
第4章はネアンデルタールだけに絞って,解剖学的に(特に脳の形態から)わかることも含めて交替劇についての仮説や議論の状況をまとめている.個人的には謎めいている中国の旧人とデニソワ人との関連なども解説して欲しかったところだ.
 

第2部 ヒトのゲノム科学

 
第2部では最近進展著しいゲノム情報を利用した人類学が取り扱われている.ゲノム,シークエンス技術,集団遺伝学,古代ゲノムについての初歩の解説を交えながら最近の知見が紹介されている.

  • 東アジア集団については,(1)アジア大陸南部から到達した東南アジア集団が北上したという説と(2)より北回りの集団との交雑集団だという説があったが,ゲノム分析からは(1)が支持されている.これは縄文人の古代ゲノムの分析とも整合的だ.
  • 現代日本人のゲノム情報をクラスター分析すると,「沖縄」,「東北・北海道」,「近畿・四国」,「九州・中国」に大別される(山陰,瀬戸内,高知とならないことは個人的には驚き).この結果は主成分分析とも整合的(第1主成分が縄文人と渡来人の割合と解釈でき,第2主成分が緯度・経度と相関する)
  • 親子の全ゲノムシークエンスを行うことにより世代ごとの突然変異率の実測が可能になった.ヒトの突然変異率は平均で1.2×10-8/世代程度.これは全ゲノムで1世代当たり約60個に当たる.また突然変異の75%は男性で生じている.
  • また組織をばらばらにして細胞を培養したサンプルの全ゲノムシークエンスから体細胞における突然変異率が実測された.これによると体細胞のおける変異は全ゲノムで1年当たり40個程度だった.
  • がん腫横断的なゲノム解析により,血液腫瘍や小児腫瘍では変異が少ないこと,喫煙や紫外線などの環境要因との関係が明確ながんでは変異が多いことなどがわかっている.
  • 全ゲノムシークエンスは遺伝的多様性についてもさまざまな知見をもたらした.ヒトゲノムには1人あたりSNV(一塩基多様体)が350万個,挿入・欠失は45万個,構造異常は1万個,マイクロサテライトの挿入・欠失は10万個あると推定されている.またたんぱく質のアミノ酸配列を変化させると考えられる変異が1万個,個体にダメージを与えると考えられる変異が48~82個あると報告されている.
  • 倹約遺伝子仮説は長らく直接の証拠がないままで議論されてきたが,最近CREBRF遺伝子座にポリネシアの人々にのみ高頻度で認められる肥満の表現型と相関し過去に正の自然淘汰を受けているアレルが見つかり,倹約遺伝子の有望な候補の1つとなっている.
  • (倹約遺伝子とは)逆に日本人の内臓脂肪蓄積に関連したTRIB遺伝子座のエネルギー亢進型(内臓脂肪の蓄積に抵抗的に働く)アレルは2万年前ごろに正の自然淘汰を受けていることがわかった.代謝性の熱生産量が上がるために最終氷期での生存に有利だった可能性がある.
  • この他の東アジア集団で正の自然淘汰を受けたアレルには,アルコール非耐性アレル,髪の毛を太くしシャベル型切歯をもたらすアレル,乾いた耳垢アレルなどがあるが,どのような適応的なメリットがあったのかはよくわかっていない.
  • 自然淘汰の影響を調べる手法は,連鎖不平衡を検出するために高密度SNPマーカーのデータを用いるものが主流だったが,最近全ゲノムデータシークエンシングが一般的になり,集団中に1コピーしかないようなマイナーアレル多型(シングルトン)を標的にした解析が可能になった.これにより東アジア集団でのアルコール非耐性アレルに正の自然淘汰がかかっていたことがわかった.

 

第3部 生きているヒト

 
第3部ではヒトについての生物学的な特徴のいくつかが解説されている.取り上げられているのは直立二足歩行,色覚,生理的(代謝的)特徴,腸内細菌フローラになる.直立二足歩行の部分は力学的な分析がかなり深く解説されていて*2面白い.また新世界ザルの3色型色覚の謎についても深く取り上げられていて(そして結論は必ずしもまだはっきりしていないところも合わせて)興味深い

  • 3色型視覚は霊長類で何度か独立に進化しており,その実現のさせ方も多様である.この適応的意義については長らく木の葉の背景から果実を見分けること(果実説)と考えられてきた.しかし赤や黄色にならない果実も多いし,季節限定の果実も多い.対立仮説には成熟葉と(食料になる)若葉を見分けるため(若葉説),社会シグナル説,捕食者検知説などがあったが,それぞれ問題が多い.現在(著者にとって)最も有望だと考えられるのが森林説だ.これは森林の中で背景となる成熟葉から,若葉,体毛,皮膚,果実などを「何でも」検出するのに役立つという考え方だ.
  • 2色型色覚は3色型色覚に比べてより多くの色を区別できるかという部分で不利だが,片方で(哺乳類の赤緑色覚は輪郭視の神経回路に相乗りしているために)輪郭視においては有利になる.つまり2色型は果実を見分けるのに不利だが,隠蔽色の昆虫を見分けるには有利だということになる.
  • 新世界ザルのうちオマキザルやクモザルはL/Mオプシン遺伝子座のヘテロ接合によって3色型色覚を得ているため集団内に2色型色覚個体と3色型色覚個体が混在している.しかし30年に渡る野外調査は両タイプに繁殖成功度の差がないことを示している.片方でTajima’s Dを用いたゲノム分析によるとL/Mオプシンの多型は自然淘汰によって維持されていることが示されている.
  • また新世界ザルのうちホエザルは(LオプシンとMオプシンの遺伝子座が異なる)恒常的3色型色覚を持つが,約10%という高頻度の個体においてLMオプシンが融合している.これはわざわざ2色型色覚に戻すような変異になる.このような変異は狭鼻猿類にはほとんど見られない.これは新世界ザルにおいては2色型色覚が有利である生態的条件がある程度存在するが,狭鼻猿類にはないことを示唆している.
  • さらに狭鼻猿類の中ではヒトは例外になる.ヒトでは男性のいわゆる「色覚異常」(片方の遺伝子が欠損する場合と融合遺伝子になっている場合がある)の割合が高い(3~8%).融合遺伝子の場合,正常色覚とほとんど区別できない「軽微な色覚異常」しか引き起こさないこともある.そして融合オプシン遺伝子の頻度は40%になる.これはもはや「異常」とはいえないかもしれない.これに対してヒトを除く狭鼻猿類では融合オプシン遺伝子も遺伝子欠損もきわめて稀だ.これはヒトにおいて3色型色覚への淘汰圧が緩んでいることを意味する.これが進化史のいつ頃からなのかはわかっていない.3色型色覚が森林環境への適応だったとすれば,それはサバンナへの進出時からなのかもしれない.(これに対して融合遺伝子を女性においてより色覚が向上する適応として説明する仮説もある.しかし他の狭鼻猿類には見られないことから著者は否定的)
  • ヒトの寒冷適応はイヌイットとアボリジニとカラハリのサンで独立に進化し,それぞれ代謝型適応(積極的に産熱亢進),断熱型適応(体表面の温度を下げ深部の体温を維持*3),低体温型適応(体表面の温度は一定だが深部体温を下げる)を獲得している.
  • 高地適応についても2ヶ所で独立に異なるメカニズムが進化した.アンデス集団ではヘモグロビンを増やす適応が見られるが,これは血液の粘性を高めるため高山病のリスクを伴う.チベット集団ではヘモグロビンは増やさずに血流量を極端に高めるという適応が見られる.これは高山病のリスクがなく,よりすぐれた高地適応メカニズムだと考えられる.チベット型の適応にかかるEPAS1遺伝子変異はデニソワ人由来である可能性がある.
  • 発汗は暑さへの適応だが,熱帯地域集団の発汗機能を調べると日本人よりも発汗量が少ない.日本人(の非アスリート)に見られる「暑いときに生じるぽたぽたと滴り落ちるような発汗」は体温調節にはあまり役立たない無効発汗である*4
  • ニューギニア高地集団ではタロイモ・バナナ(300年前からはサツマイモ)中心の農耕を営んでおり,タンパク質摂取が非常に少ないが健康を保てる.これは(より効率的にタンパク質を利用する生理的適応だけでなく)腸内細菌フローラで窒素固定,アミノ酸生成を行うことにより可能になっていると思われる.

 

第4部 文化と人間

 
第4部ではまず言語,考古学と人類学が解説され,最後に「人種」についての章がおかれている.人種についてはヒトの多様性が(遺伝子の頻度を含めて)スペクトラム的である中ではっきり区切りできる「人種」は存在せず,それは社会的に構築された概念であるという立場で解説されている.

  • 動物にもシグナルはあるが(ミツバチのダンス.ベルベットモンキーの警戒音,鳴鳥の囀りなどが紹介されている),ヒトの言語とは大きく隔たっている.ヒト言語の独自性について,ハウザー・フィッチ・チョムスキーは再帰構造(併合)の重要性を強調し,トマセロは共有注意,共同志向性に注目している.(ここで著者は狩猟における協力,道具作りにおける再帰的構造を関連するものとして詳しく解説している)
  • これまで見つかった最古の縄文式土器の年代は16,000年前,弥生式土器は2,800年前とされている.縄文時代にはイヌを除く家畜利用の証拠はなく,植物を栽培した遺構も見つかっていない.資源利用はジェネラリスト的でその季節的な利用パターンは縄文カレンダーとしてモデル化されている.弥生時代には形態の変化したブタがいたとされ家畜利用の証拠とされている.水稲の寄与について意見が分かれており,弥生時代人が水稲のスペシャリストかどうかについて現時点では明言できない.
  • 縄文時代の植物栽培については「縄文農耕論」として長年論争されている.栽培化されたと思われるマメ(長野県で発見された大粒のマメについての議論が詳しく紹介されている),クリ純林(管理されていた可能性が高い)などが取り上げられて議論されている.ただし全体的に資源利用の態様を見るとジェネラリストの傾向が色濃い.

 
以上が本書の概要になる.「ヒトとは何か」を生物学的に捉えようとする自然人類学の営みのアウトラインを知るには格好の本であり,よい入門書に仕上がっていると思う.
 

*1:本書では猿人,原人,旧人という用語法を,正式な分類群ではないし欧米では使われなくなっているが,日本では慣例的に使い続けられており便利であることを踏まえて使用するとされている

*2:二足歩行を訓練されたニホンザル個体との比較部分は特に面白い

*3:本当に断熱性を高めているのかどうか(もしそうならどのようなメカニズムで)は興味深いところだが,それについては解説がない

*4:なぜそのような発汗が見られるのか,何らかの機能があるのかに興味が持たれるが,これについては解説がない