From Darwin to Derrida その89

 

第9章 どのようにして? 何のために? なぜ? その8

 
マイアが究極因について曖昧な言い回しを用いたために哲学者と生物学者の論争がこんがらがった経緯を見てきた.ここからはヘイグによる読み解きになる.

  • 論争は2つの要因によりねじれたものになった.1つは進化的変化に作用因が重要かという問題だ.発達メカニズムは何らかの役割を持つか,生命体の進化は環境とそれに続く進化に影響を与えるか? どちらもnoとは言いがたい.問題は論者によりこれらを至近因としたり,究極因としたりすることだ.
  • もう1つは目的論的推論と進化生物学の用語法の問題だ.この観点からみると,howとwhyはメカニズムの問いと機能の問いとして区別される.これは古代の作用因と目的因(そして目的因を厳密なダーウィン的意味として解釈した場合)の区別の子孫というべきものだ.一部の論者はダーウィン的目的因を歓迎するが,一部の論者は科学に目的因は不要だと考える.(フランシス,ゲレロ-ボサーニャ,ワットの文章が引用されている)

 
ヘイグの解説によると発生についての込み入った論争は,どちらのサイドも発生を司る発達メカニズムの重要性を理解しているが,それが究極因なの仮想でないのかについてすれ違いがあったということになる.そして進化生物学の目的論的用語についての見解の相違から来ているということになる.
 
フランシスの引用は「Causes, proximate and ultimate」という論文からだ.因果的説明と機能的な説明は語彙が異なるだけではなく全く異なる説明であり,至近因と究極因に共通通貨はなく,そもそも究極因なるものは存在しないと主張されている.
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ゲレロ-ボサーニャの引用は「Finalism in Darwinian and Lamarckian Evolution」という論文から.新奇性へつながる進化的過程の背後にあるメカニズムは究極因抜きで説明できるが,至近因抜きでは説明できないと主張されている.
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最後のワットの引用は「Causal mechanisms of evolution and the capacity for niche construction」という論文から.「なぜ」という問いには二つの意味があるとされている.意思を持つエージェントには彼の意図を問うことができるが,エージェントなしでは「なぜ」質問は「どのようにして」質問に溶けていく.だから進化的な「なぜ」質問は実際には「どのようにして」質問なのだと主張している.
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フランシスとワットの論文はBiology & Phillosophy誌に掲載のばりばりの哲学論文のようだ.ゲレロ-ボサーニャのものはEvolutionary Biology誌に掲載されたものだ.進化生物学的な議論になれている(そして哲学的議論にはなれていない)私の目から見ると明らかにフランシスとワットの主張は筋悪に見える.