From Darwin to Derrida その90

 

第9章 どのようにして? 何のために? なぜ? その9

 
マイアの曖昧な定義により混乱する哲学者と生物学者の究極因をめぐる論争.ヘイグの読み解きはティンバーゲンに言及する.
  

  • 論争は,曖昧で多義的な至近とか究極とかいう用語を使わずに,メカニズムと機能,あるいは作用因と目的因という用語を使えば解きほぐされるかもしれない.しかし問題の一部には「原因:cause」とは何かについての意見の不一致がある.多くの論者は「原因」を作用因に限定し,機能的な説明を「原因」と認めない.
  • ティンバーゲンはこの後者の考え方を採っている.有名な4つのなぜ(生存価,メカニズム,発達,進化)に関連して彼はこう書いている.

第1の問い,つまり生存価についての問いは行動の効果についてのものだ.あとの3つの問いはそれぞれ異なる時間的なフレームをもちつつ原因についての問いになる.

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このあたりはややよくわからない.そもそも「なぜ」の答えは「理由」なのであり,なぜ「原因」についてが問題になるのだろうか.いずれにせよ「原因」とは何かという問題が(いかにも哲学者が絡むものらしく)論争を複雑にしたということだろう.
ここからがヘイグによる解きほぐしになる.
 

  • しかしながらhow(どのように来たか?を含む)とwhat for(何のために?)の区別は有用だ.メカニズムの問いと適応的機能の問いは異なる種類の答えを導く.適応を説明するには意図を示すような用語を使うのが最も自然なやり方になる.「そのような用語法は超自然的存在や意図を持つエージェントを思い起こさせる」という批判は,ほとんどの場合ねじ曲がった誤解かけちくさいポイント稼ぎに過ぎない.

 
目的論的用語を避けようとする態度は基本的に(キリスト教世界における)創造論者に揚げ足を取られないようにというところから生じているので,創造論者たちのためにわかりやすい用語法が制限されるということになる.21世紀になってもそのようなばかげたことを気にしなければならないとする主張にヘイグとしては我慢ならないのだろう.
 

  • 振り返って考えてみると,マイアが究極因という用語を「どのように来たか?」への答えとして選択したことは不幸だったように思える.なぜなら究極因は目的因論的「何のために?」と親和性があるからだ.1つの理由は語源的なものだ.「ultimate:究極」は「endにあるもの」を指していて,目的因はendにより物事を説明するものだ.だから究極因は容易に目的因と同じだと捉えられてしまう.別の理由は歴史的なものだ.かつて自然における計画や目的(purpose)は神によるものと考えられ,目的因や究極因と結びつけられていた.この目的が盲目の時計師(自然淘汰)によるものだと理解されるようになると「究極因」は直ちに適応的機能と解釈されるようになった.
  • マイアはさらに(歴史的には作用因にhow, 目的因にwhyが結びつけられていたのに対して)究極因をwhyに,至近因をhowに結びつけることでこの曖昧性を悪化させた.

 
なぜこのようにねじれた形になったのかのこのヘイグの読み解きは深い.それにはまずマイアの政治的動きがあり,さらにそもそも究極が(終点としての)endと関連し,endには目的という意味もあるからであり,natural historyにおいて神の計画が自然淘汰に置き換わったという歴史も有るということになる.