From Darwin to Derrida その96

 

第10章 同じと違い その5

相同についてのヘイグの考察.ダーウィン以降の議論を紹介している.進化を認めた後,コウモリの翼とイヌの前肢の類似は変化を伴う由来でうまく説明できる.しかしイヌの前肢と後肢の類似はどう考えるべきか.それは遺伝する発達指令(遺伝子)が両方において発現すると考えるとうまく説明できる.これは遺伝的相同の概念につながる.
 

相同の遺伝的な概念に向けて その2

 

  • 遺伝的相同という概念は「遺伝子は染色体の特定位置にある物理的な構造だ」という理論とともに現れた.同じ形態の染色体は減数分裂時に対をなし,homologous(相同)と認識された.相同染色体の同じ位置にある遺伝子はアレル(対立遺伝子)と呼ばれた.もしアレルたちがその系統を単一の物理的遺伝子にまでさかのぼれるのであれば,遺伝的相同は共通祖先に根付くものと考えられるだろう.二重らせんの発見により,この遺伝的相同の概念は圧倒的に精確なものになった.2つのDNA配列は,それが共通祖先のテンプレートからの連続する複製の結果であるなら,相同なのだ.

 

  • いったん遺伝的相同が共通祖先テンプレートからの複製の連鎖として定義されるなら,相同的配列は同じ遺伝子座にある必要はなくなる.遺伝子重複やゲノムのリアレンジメントにより特定の祖先配列が子孫の複数の染色体位置に存在することがあり,配列の切断やスプライシングにより子孫配列が異なる祖先配列の寄せ集めになることもあるのだ.

 
遺伝的に相同を見直すと,相同の本質はコピーであるということになる.それは同じ祖先というコピー元を持つ子孫たちの遺伝子だけでなく同じコピー元を持つアレルにも当てはまることになる.さらにコピー元が同じならアレルである必要もないという議論につながるのは必然だっただろう.
では伝統的な形態的相同との関係はどうなるのかが次に扱われる.遺伝子と表現形質は1対1対応しているわけではなく,発達には遺伝子がネットワークとして機能する必要があるから,話は単純ではない.
 

  • 一見すると,遺伝的相同は形態的相同を見分ける方法を与えてくれるように思えるかもしれない.2つの形態はもしその発達が相同遺伝子により決められているなら相同ということになりそうだ.しかしながら,発達にはエピジェネティックな要素があり,ある表現型形態にある単独の遺伝子が対応しているということにはならないのだ.身体パーツは,それぞれの世代で数多くの遺伝子の相互作用の中で一から作られる.2つの配列が共通祖先由来かどうかは比較的うまく決定できるが,2つの身体パーツが同じ祖先のパーツから進化したのかどうかはそう簡単に決められない.「特徴は他の特徴からそのまま派生するわけではない.器官も同じだ.そしてそれらは祖先から直接派生するものでもない」(カートミル 1994)

pubmed.ncbi.nlm.nih.gov

 
ここで参照されているカートミルの論文のアブストを読むと,伝統的な形態的相同概念について,それは理論的に曖昧であり,「2つの器官は,それが共通祖先から対応する器官を継承していれば相同である」という定義は「対応する」とは何かを考えると巡回定義になっており,そもそも本質主義的だと批判するものになっている. 
 

  • この問題の一つの解決方法は,形態的相同を概念的に一貫しないものとしてそれについて議論することを禁止し,相同についての議論をDNA配列に限ることだ.このようなアプローチに立てば,ある特徴の発達の基礎となる遺伝的アーキテクチャーを調べ,これらのネットワークと関連する特徴がどのように進化的時間の中で変化していくかを確かめることになるだろう.
  • このような排除主義的視点から見ると,形態学者の「アカシアの仮葉は『真の』葉なのか葉柄なのか」という問い自体が誤ったものということになる.そのかわりにまずアカシアの仮葉をつくる発達メカニズムを調べ,それと近縁種の葉の発達メカニズムや葉柄の発達メカニズムとの類似点と相違点が記述されるべきなのだ.
  • 2つのパーツが同じ種類のものか異なる種類のものかという存在論的疑問は,その類似点と相違点のメカニカルな理由を知れば知るほど,意味を失う.そして葉や葉柄の自然種(natural kind)としての存在論的コミットメントなし,適宜「葉」「葉柄」「仮葉」という用語を使っていけばいいのだ.

 
ヘイグのコメントは基本的にはカートミル論文に賛同する趣旨で書かれている.伝統的な形態的相同の問題意識は結局本質主義的だと考えざるを得ないというわけだ.
 

  • 形態的相同に関する問題とは異なり,「核酸のテンプレートからの複製」は2つの配列が共通祖先由来かどうかについて単純な解釈を提供してくれる.数多くの目的について,遺伝子配列の合祖は完璧に適切な「相同」概念を与えてくれる.
  • とはいえ,遺伝的メカニズムについての情報が限られているが,形態的特徴の共通「祖先」を議論したいという実務的な場面は残るだろう.その場合には,形而上学的な自然種としての相同にコミットすることなく,ヒューリスティックツールとして形態的相同概念を用いることが可能だろう.

 
このあたりの割り切りはいかにも遺伝子中心主義者たるヘイグにふさわしい.