書評 「カニの歌を聴け」

 
本書は京都大学学術出版会の新・動物記シリーズの一冊.著者は行動生態学者の竹下文雄で,ハクセンシオマネキの性淘汰の研究物語が語られている.シオマネキといえば,オスが干潟で大きく白いハサミを振る典型的な性的二型の大きなカニであり,いかにもそのハサミの大きさと振る動き(ウェービング)がメスの選り好みに効くハンディキャップシグナルに見え,おそらくそうなのだろうと単純に思っていたが,やはり詳細は複雑で,とても面白い.
 

第1章 干潟への招待

 
第1章は導入章ということで,ハクセンシオマネキ*1とはどういう生物かがまず扱われ,分類学的詳細*2,生活史(ゾエア,メガロパという幼生段階を経て着底し,成長して性的二型が現れる),生息場所(干潟の潮間帯に棲む),求愛交尾の2つの形(巣穴内交尾と地表交尾)などが解説されている.
この求愛交尾の二型は興味深い.巣穴内交尾は,巣穴を持つオスのもとを(ウェービングなどを評価して)巣穴を持たないメスが訪れ,巣穴内で交尾,その後この巣穴はメスのものになり,そこで産卵し,ゾエア幼生を放出する.地表交尾はオスメスともに巣穴を持ち,オスがアプローチ,メスが応じて巣穴の外で交尾する.本書では基本的に巣穴内交尾についてリサーチされているが,なぜこの二型があるのか,どのような適応的な状況なのかが気になるところだ.
また研究物語としてはシオマネキリサーチのきっかけが語られる.宮崎で生まれ,熊本大学理学部に進んだ著者は永浦干潟での実習でハクセンシオマネキに出会う.4年生次の研究室ではワレカラを扱ったが,コミカルなシオマネキの姿を是非行動生態学的に配偶者選択のリサーチとして取り扱いと思うようになる.しかし当時からウィービングについての研究はすでにかなりあるので躊躇していたが,オスが巣穴で「鳴く」という話を聞きつけ,(シオマネキの音による配偶者選択についてはあまり研究例がないことを確かめ)これを題材に研究することを志すようになる.
 

第2章 カニの歌を聴け

 
第2章で著者の永浦干潟でのハクセンシオマネキ研究がスタートする.まず巣穴となわばり,生活様式,オス間闘争,求愛行動(ウェービング)などの彼等の生態が解説され,ここからカニのオスのたてる音の採集になる.オスはメスが巣穴に近づいた後でないと音を出さない.広大な干潟でこれを採集することは難しそうだが,著者はメスのダミーを操作することによりオスに音を出させ,コンクリートマイクでこの音を採集することに成功する.この音は480ヘルツ近辺のパルス音だった.著者はこの音は(性淘汰形質である)大きなハサミを使って摩擦音を立てているのだろうと思って調べるが,ハサミ除去オスもこの音を立てられることがわかり,仮説は否定される(結局発音メカニズムはまだ確かめられていない).
 

第3章 メスの本音

 
第3章ではこのオスの求愛音がメスの配偶者選択にどのような影響を与えるのかが探られる.これを実験により調べるには「配偶者を探索しているメス」の確保,さらにメスは高頻度でオスを拒否するので,それを見込んだ上でのサンプル数の確保が必要になる.このあたりの苦労話もなかなか楽しい.2年がかりでサンプル数をそろえ,周波数,発音時間,発音間隔,単位時間あたりの発音回数を記録した実験の結果は,「巣穴に入るかどうかを決める」入り口ステージでは発音回数とメスの巣穴ヘの移動に相関がみられたが,「巣穴に入った後もとどまり続けてペアを形成するか」という内部ステージではどのような形質もペア形成と相関がみられないというものだった.著者は,後者の結果について上記の測定では音に含まれる巣穴の内部構造情報を捉えきれていない可能性,ペア形成を決める基準(オスの退出を基準としていた)がうまくペア形成を捉えられなかった可能性を考察している.いずれにせよ求愛ダンスに誘引されて巣穴に接近したメスは巣穴からの音を聴き,短い間隔で求愛音が聞こえてくると内部に移動することがわかった.著者はこの結果を論文にまとめる(第2章の結果をまとめた論文は受理されなかったが,今回それもあわせてまとめた論文は査読者から好意的なコメントがもらえ,かなりさっくりと受理されたという経緯が書かれている). 
 

第4章 オスの本音

 
次のテーマはなぜメスは単位時間あたりの発音回数の多いオスを選ぶのかになる.著者は優良遺伝子仮説を念頭にこの発音回数がオスの質を表すシグナルになっているかどうかを調べる.これまでのシオマネキのウェービングのシグナル性を調べた先行事例では,区画ごとに栄養状態を変えて栄養状態がシグナルに影響を与えるかを調べられていたが,これでは区画内の複数個体のデータに独立性がなくなる.そこで著者は,個体ごとにケージで囲い,ランダムに影響状態を変えてサンプル数を稼ぐことにする.ここも苦労話*3が楽しいところだ.そしてセミドーム(シオマネキが巣穴の近くに構築する砂のドーム),ウェービング(メスが遠くにいるときの誘引ウェービングと近づいた後の求愛ウェービングを区別して測定),求愛音を測定し,栄養条件との関係を見ると,違いが見られたのはウェービングの中の誘引ウェービングの頻度のみという結果になった.
まずセミドームの結果については先行研究と結果が異なっているので,いろいろと考察されている.著者は先行研究のデータの独立性の問題,気温の要素を考慮していない可能性を指摘しつつ,ドーム形成にはコストがほとんどかからないので感覚便乗説のみで説明できると主張している.次にウェービングと求愛音については,これらのコストとベネフィットから見てエネルギーの最適配分戦略があるはずであり,おそらく栄養条件が良くなったときに誘引ウェービングにエネルギー配分するのが最も効率的になっているのだろうと考察している.これらの結果をまとめた論文はメジャーリビジョンを繰り返しながら受理されることになる.またここでは学振PDの任期が切れ,かなり追い込まれた後でようやく(やはり任期つきの)特任助教に採用されたという経緯もかかれている.
 
本章の内容はハクセンシオマネキの性淘汰がどのようなかかり方をしているのかを調べたものということになる.ただ結局栄養条件を操作しただけで厳密には優良遺伝子仮説を確かめたものにはなっていないのではないかという気もする.またドーム形成については形成頻度のみが調べられていて,その大きさや形態についてメスが選り好むかどうかという興味深いところは調べられていないようだ.そしてドーム形成にコストがかからないと単純に決めつけられない気もする.なお確かめるべき問題が多く残されているということなのだろう.
 

第5章 カニの三角関係

 
第5章のテーマはライバルオスの干渉になる.著者はここまでの観察で,メスがオスの巣穴を訪問し中に入っていくときに近隣オスがしばしば近寄ってくること,その場合にペア形成に失敗しやすいことに気づき,これを調べてみることにする.ここで近隣オスの接近が本当に妨害になっているのかをどうやって調べるのか(接近がなくとも失敗した可能性をどう排除するか)のところが面白い.著者はメスの行動を記録し,最終的にあるオスとペアになったメスが,それ以前にそのオスとのペア形成を近隣オスとの接近によってあきらめていたかどうかを調べることにする.こう書くとたいしたことがなさそうだが,これは灼熱の夏の干潟で特定のメスを何時間も連続して追跡し動画に収め,最終的にペアになったケースを(動画再生し)遡って調べるという艱難辛苦のリサーチになる(この部分の苦労話*4も面白い).7月初旬から8月半ばまで干潟に張り付いて92個体の動画データを集め,解析した結果,近隣オスはメスが巣穴に入った段階で接近を開始し*5,多くの場合接近だけでメスは巣穴から出てくるが,出てこない場合には巣穴の入り口をタッピングし,さらに巣穴に入っていくこと,全体として接近回数が増えるとペア形成までに時間がかかること,メスが大きいほど妨害を受けやすいことがわかった.なぜ接近だけでメスがあきらめるのかについて著者は近隣オスが立てるノイズにより求愛音の評価が難しくなるノイズ説と最終的に巣穴に入ってこられて相手を取り違えるリスクを避ける横恋慕回仮説を立てている.
また妨害オスに適応価があるかどうかも検討されている.動画データを解析すると直前に訪問したオスのもとで生じた妨害の約半数が最終的にメスに選ばれたオスによるものだった.これはオスの妨害に十分な利益があることを示している.著者はハクセンシオマネキの配偶行動はメスによる選択とオス間競争の2つの要素が同時に影響しているとまとめている.
またここではウェービングに使われるハサミの形の解説*6,葦などが生えて見通しが悪い場合にどのような配偶行動になるかについての考察などもなされている.
 

第6章 オスの事情

 
第6章はオスの体色の変化がテーマになる.ハクセンシオマネキのオスは繁殖期に背甲が白くなる.またこの背甲は何らかの刺激によって短期的にも色を変えることができる.また著者は第4章の実験の際には栄養条件が良い方が背甲が白かった印象を得ていた.そこでオスのハサミと背甲の色をきちんと計測して*7調べることにした.調査の結果,オスの背甲は繁殖期に確かに白くなること,そして変化幅は大型個体の方が大きいこと,ストレスをかけると10分ほどで黒くなること,ハサミは常に白く季節的にも短期的にもあまり変化しないことがわかった.メカニズム的には背甲は薄く半透明で,下の組織にある色素細胞により変色できることがわかった(ハサミの殻は厚く変色しにくい).著者は背甲の色の季節変化は繁殖的機能,温度調節機能から説明できそうだと考察している.
 

第7章 研究者の事情

 
第7章は中休みの章で,著者のシオマネキ以外の研究が語られている.具体的にはナメクジウオに環境変化が与える影響,ゴマフダマ(二枚貝を捕食する肉食性のタマガイの一種)の捕食戦略を調べた話が扱われている.研究者の自伝的物語として加えておきたいところだったということだろう.
 

第8章 メスの事情

 
第8章はハクセンシオマネキに戻ってメス側の配偶戦略がテーマとなる.メスが干潟の中でオスを探索することにはかなりのコストがかかっている.配偶者選択にメリットがあるとして,具体的探索戦略には様々なトレードオフがありそうであり,それに応じて探索行動が変化する可能性がある.そしてやはり真夏の干潟で探索メスを追跡して,産卵までの余裕時間*8で行動が変化するかどうかを調べることになる.データ解析の結果,訪問オス数は気温と相関するが,40度近辺の閾値温度を超えると減少すること,この閾値温度はメスが大きいほど高温になること,産卵までの日数が短くなるほど単位時間あたりの訪問オス数が増加することがわかった.これはメスは高温環境下ではコストに応じて探索行動を減らすが,大型メスはよりコスト耐性が高いこと,産卵までの期間が短いとよりコストをかけても探索をすると解釈できる.
そして本書は著者がこの研究と前後して北九州市自然史・歴史博物館でパーマネントの研究職に就けたことを記して終わっている.
 
以上が本書の内容になる.ハクセンシオマネキの性淘汰についての知見と,著者の研究物語が適度にブレンドされていていろいろと味のある本に仕上がっている.特に真夏の干潟での特定メスの追跡調査(想像するだけで過酷だ)の苦労話は読みどころだ.性的二型が大きく,オスが大きくて白いハサミを持ち,それを必死でウェービングするハクセンシオマネキには典型的なメス選り好み型のハンディキャップシグナルによる性淘汰がかかっていると考えていいのだろうが,本書を読むとその性淘汰にはハサミ以外にもセミドームや求愛音さらに背甲の色もシグナルとして機能している可能性があり,またオス同士の闘争や近隣オスの妨害が絡むということがわかる.いろいろな謎が残っているようでもあり今後の研究の進展を祈念したい.

*1:ハクセンとは白線ではなく白扇なのだそうだ.オスの白く大きなハサミを振るしぐさを扇で舞う様子にたとえているということらしい.なかなか優雅な和名だ.

*2:本書によるといわゆるシオマネキと呼ばれるカニはかつては大きくシオマネキ属(Uca属)とされていたが,近年の分子系統樹解析によりいくつかの属(Uca属,Austruca属,Leptuca属)に分割されたのだそうだ.日本のシオマネキについていえば,(九州以北の)日本にはシオマネキとハクセンシオマネキの2種が生息していて,シオマネキはUca属に残り,ハクセンシオマネキはAustruca属とされているそうだ.

*3:栄養付加の餌として熱帯魚用のテトラミンを使用していたが,途中で足りなくなり,近所のホームセンターを回って買い占めた話などが語られている

*4:どのように探索メスを見つけるか,暑さとの戦い,カニを驚かせないための太極拳の動き,話しかけてくる人たちなどいろいろ大変だったようだ

*5:鍵になる刺激はメスの視覚的消失だろうと推測し,メスのダミーを上空に素早く動かすと近隣オスの接近を誘発できることも確かめている.

*6:ウェービングで目立つ大きさと,闘争時に有利な強く挟む力を出すための筋肉量と突起形状,何らかの理由でハサミを消失して再生する場合はウェービング機能が優先されることなどが解説されている

*7:本当はハクセンシオマネキの色覚に合わせた計測をしたかったが,機器類が高価で断念し,ヒトの色覚に合わせた計測になったことを残念がっている.もっとも実際には白いかどうかの明度のところが問題になっているのであまり影響はなかっただろう

*8:これを調べるためには最終的に産卵するまで追跡して,そこから遡ってデータを解析することになる.未産卵のままのメス巣穴かペア形成後のメス巣穴かを区別するためのマーカーには味噌漉しを使ったそうだ