書評 「昆虫学者、奇跡の図鑑を作る」

 

今年の6月に「学研の図鑑 LIVE」シリーズの「昆虫」が刊行され,(特に虫が好きだとか詳しいわけでもない)私のところにもとんでもなく素晴らしいという噂が流れてきた.それは入手せねばということで早速Kindle版で入手したところ*1,私にもその迫力が伝わる充実の図鑑であった.そして(私にはわからないが)虫に詳しい人なら分かるこの図鑑のさらなるすごさがきっとあるだろうということが容易に想像できた.そこに出版されたのが,図鑑製作の中心人物丸山宗利によるこの「奇跡の図鑑」の製作内輪話が書き連ねられている本書だ.これはこの図鑑を味わい尽くすためにも是非読まねばならないという思いに駆られて手に取った一冊ということになる.
 

 

第1章 一切妥協なしの図鑑を作ろう

 
第1章では図鑑作成のそもそものいきさつが書かれている.著者は子どものころから昆虫好きであり,さらに昆虫図鑑が大好きという「図鑑少年」だった*2.長じて昆虫学者になり,ちょっと「図鑑にうるさい」図鑑好きになった.ある時ある図鑑についてのクレームを入れたことがきっかけで学研の編集者と知り合いになり,それがきっかけで学研の図鑑LIVEシリーズの「昆虫」の大改訂(新版の製作)の監修陣の一員になってほしいとの依頼が舞い込む.そして紆余曲折の末に監修の中心となって図鑑製作に関わることになる.
そしてここで製作方針に著者のこだわりが炸裂する.まず「昆虫の多様性と進化が分かる」図鑑にする,そして(これがとにかく破天荒なのだが)全ての昆虫を生きたまま(昆虫によっては死ぬと色が変わってしまうものがある)白バック(虫の輪郭が明瞭に分かる)で撮影するというものだ.刊行スケジュールから逆算すると撮影時間は1年しかない.学研の「昆虫」は日本の昆虫が対象になり,旧版では2100種の昆虫が収録されていた.図鑑製作にあたっては(どれを収録するかの候補群をそろえるという意味で)それよりかなり多い種を撮影しなければならない(最終的には7,000種,35,000枚の写真が集まったそうだ).そして生きたままだから,日本全国のフィールドに出て採集して*3(そして虫の動きをなんとかして止めて)撮る*4ということになる.そしてとんでもないプロジェクトがスタートする.
ここから様々な分類群の採集・撮影の担当(いわばドリームチーム)を集める話が書かれている.著者曰く「七人の侍」の島田勘兵衛のような心境だったそうだ.
 

第2章〜第5章 春の虫の採集・撮影,夏の虫の採集・撮影,北へ南へ虫探しの旅,秋冬の虫の採集・撮影

 
第2章から第5章まではこのプロジェクトでの昆虫と採集と撮影の様子が語られている.どのような光を当て,どのような角度で撮影するか,展翅,深度合成撮影などの苦労やそれぞれの分類群毎の白バック撮影の難しさが語られている.採集の場面はいずれも名うての虫屋さんの熱量の高いエピソードに満ちている.特に印象的だったところをいくつか紹介しよう.

  • ハエは非常に素早く動くので生きたままの白バック撮影は至難の業だ.そこでハエの写真をTwitterにあげ続けて「ハエの伝道師」となっている久力さんにお願いした.彼女は苦労の末にコツをつかみ,人糞に集まるハエを捕るために野外で用を足してハエを採集,撮影してくれた.
  • 自分で用を足してそこに集まる虫を採集するのは糞虫を採集する世界では常道で仲間内では「セルフィー」と称している.テントウムシ担当の坂本さんが与那国島に採集に行った際には,糞虫担当チームはそこで取れるトビイロエンマコガネをどうしても採集してほしくて,LINEで坂本さんにセルフィーを懇願した.坂本さんは当初ためらっていたが,最終的に応諾し見事に採集に成功,その後何かに目覚めたようだった.
  • 水生昆虫の白バック撮影は屈折率の問題で困難だが,千代田さんはそのための特殊な撮影装置を作り見事な写真を次々に撮影してくれた.
  • トンボの撮影は限られた季節での採集が必要で,暴れるしすぐ死ぬので困難だったが,担当の富樫さんは苦労の末目を見張るような技術向上を見せてくれた.
  • 「ミクロ」なガは,食草を丹念に探して幼虫を採取して羽化させて撮影することになるが,幼虫は小さく葉や茎の中に潜り込んでいるので見つけるのは難しい.担当の屋宜さんは粘り強く集めてくれ,この図鑑の「原始的なガの仲間」はこれまでの図鑑にないような充実した内容になった.
  • ネジレバネのオスは羽化すると飛び回ってメスを探し数時間で死ぬ.このため世界的にも生きたオスの写真はわずかしか存在しない.しかし大変な苦労と幸運により寄生されていたハチを見つけ.オスを羽化させることに成功し,2種のネジレバネ(スズバチネジレバネ,スズメバチネジレバエ)のオスの写真を撮影することができた.
  • 図鑑表紙の写真は法師人さんの撮影で,カブトムシがノコギリクワガタを投げ飛ばしているものだが,クワガタの美しい背面が手前に来て(普通は腹面が手前に来る)全てにピントが合っているという奇跡の一枚だ.
  • 私(丸山)も甲虫の写真を数多く撮った.撮影300種を超えるあたりでほとんどの甲虫の動きが読めるようになり,(動きを止めるための)二酸化炭素麻酔が不要になった.
  • シミは原始的とされる昆虫で図鑑の冒頭を飾る重要な分類群で,かつては古い木造住宅でよく見つかったが,現代ではシミが住めるような住宅があまりなく,いざ狙うとなると見つけにくい.私(丸山)が担当したが,今回はTwitter上で飼育している方や生息場所の情報が得られて,撮影することができた.同じく原始的とされる分類群であるイシノミと合わせて文献を取り寄せて解説を執筆することになり,よい勉強の機会となった.
  • トラツリアブは全身モコモコで眼がクリクリしていてとても可愛いので是非載せたいと皆で話をしていたが,見つかっている場所が少なく,採集に難儀していた.近縁種の情報からおそらくバッタに寄生しているだろうということになり,バッタ担当の奥山さんが周到な計画の元についに採集・撮影に成功した.今なおトラツリアブの生態は謎のままで,この図鑑の発刊が実態解明につながればと願っている.

 

第6章 もう二つの図鑑

 
第6章ではよりひろく図鑑というものについての思い,そしてこの学研のLIVE「昆虫」とは別の図鑑の作成話が語られている.

  • 学習図鑑には現在「御三家」と称されるものがあり,小学館の「NEO」,講談社の「MOVE」,そして学研の「LIVE」になる(それぞれの特徴が解説されている).
  • 日本は世界的に見て教育的な図鑑の宝庫であり,日本ほど子ども向けの図鑑が出ている国はない.現在の形に近いものは1960年前後から各出版社から次々と出版され,マニアックなものも数多く出版された(いくつか紹介されている).1980年代の終わりから子ども向け図鑑があまり売れなくなり学研と小学館のみが継続するという状況になった(講談社のシリーズは2011年に参入).
  • 学研の図鑑に関わる2年前に角川から声がかかり,「世界を旅しながらそこに生息する昆虫を見つけていく」というストーリーに沿った図鑑「角川の集める図鑑 GET! 昆虫」の監修に関わった(このときの図鑑作成の様々な苦労話が語られている).同時並行的に昆虫の深度合成撮影を駆使した豪華本「驚異の標本箱 ―昆虫―」の作成にも関わった.

 

 

 

第7章 修羅場の編集・校正作業

 
第7章は集まった写真を元に図鑑を作っていく編集・校正作業がテーマ.解説者を選び,解説をお願いし,7000種集まった写真から掲載する昆虫を絞り込む(最終的に2800種になったが,まさに胸が痛む作業だったそうだ).レイアウトを決め,そこでやっぱり種数が足りない分類群,やっぱりどうしても載せたい種を見つけてしまう(そこから泥縄式に採集・撮影作業が生じる).間に合わないかもしれないセクションの発覚,尽きない校正作業.このあたりが臨場感たっぷりに描写されている.またこれに絡んでいくつか楽しい逸話も書かれている.

  • 図鑑の製作中に発見されたカワゲラの新種が,図鑑の情報解禁直後に発表された.種名は学研の名を取って「ガッケンホソカワゲラ」.いろいろと話題になり図鑑製作に弾みがついた.
  • 最終許可や出現期の関係で(どうしても載せたい)ベッコウトンボの採集は校了終了の4月末の直前の4月中旬になった.日本全国で数ヶ所しか安定した生息地のない希少種(かつ絶滅危惧種)だったが,何とかぎりぎり間に合った.

そして最後に「奇跡の図鑑」が完成したと誇らしげに宣言されている.
 
以上が本書本文の内容で,これに加えて図鑑作成参加者たちからこれまた熱いコラムがいくつも収録されている.とにかく図鑑作りにかける熱量がひしひしと感じられる良い内幕話に仕上がっていると思う.私は当該図鑑を横において(実際にはPC画面とタブレット画面を並べて)じっくり眺めつつたいへん楽しい読書時間を過ごせた.この図鑑を持っている人にはとてもお買い得なブースト装置になると思う.
 

*1:大きなモニターで拡大表示できるのがとてもありがたい

*2:夢中になった図鑑には小学館の「昆虫の図鑑」「昆虫の生態図鑑」,学研の「昆虫」「世界の昆虫」「世界の甲虫」,旺文社の「昆虫」があり,その中でも学研の図鑑は「自分が中に入りたいほど」好きだったそうだ

*3:基本は野外での採集だが,好事家が飼育している昆虫を譲っていただいたりお借りして撮影する場合もあったそうだ

*4:いろいろなテクニックが紹介されている.撮影陣はオンライン講座で技術を共有化したそうだ