From Darwin to Derrida その182

 
ヘイグは第14章において自由について語る.進化の過程で行動という解釈を行うシステムはより精密になり,サブシステムを包含するようなものに代わり,そして個体的経験をフィードバックできる仕組み(記憶と学習)が可能になりシステムはさらに精密になる.さらにヒトにおいては個体学習を他個体に伝える(言語と文化)ことができるようになり,特別になったことまでが描かれた.ここから話は宗教改革のルターに飛ぶ.

第14章 自由の過去と将来について その4

 

  • ヴォルムス帝国議会に召喚されたとき,マルティン・ルターは「Hier stehe ich, ich kann nicht anders. (ここにわたしは立つ,別のやり方はとれない)」と発言したと伝えられる.彼のこの毅然としたスタンスは自由意思に基づくものだったのだろうか.ルターはそれは必然だと考えていた.彼の意思は神の意思によって拘束されていた.

 
ヴォルムスはWormsと綴られるので,ヴォルムス帝国議会を英語にすると「the Diet of Worms」となってまるで「(ミミズのような)虫の食事」のようになる.ここまで読んで突然「the Diet of Worms」が現れて,このことを扱ったグールドのエッセイがあったのを思い出す.ルターがヴォルムス帝国議会に召喚され10日間に渡って喚問を受けたという歴史的事件が,まるでルターが10日間ミミズのみの食事を耐えさせられたかのような印象になるという話が含まれるものだった.このエッセイはグールドのお気に入りだったようで,エッセイ集の原題にも「the Diet of Worms」が登場する.(なお邦題においてはそこは省かれて「ダ・ヴィンチの二枚貝」になっている)
 

 
ともあれ,ここからこのルターのエピソードを用いてヘイグによる自由意思についての考察が始まる.
 

  • 多くの唯物論者は,物理法則を神の意思に置き換え,ルターが自由に行動できなかったのは彼の行動には先行する原因があったからだということに同意するだろう.

 
この部分は少しわかりにくい.ルターの話を聞いて私が感じるのは,ルターは神聖ローマ帝国とカトリック教会に屈服することもできたし,屈服しないこともできたはずで,屈服しないという選択はまさに彼の自由意思による決定だろうということだ.だから多くの唯物論者がここで(彼の言葉をそのまま受け取って)彼が自由ではなかったとするのはかなり違和感がある.ともあれ,彼の言葉通りその時彼がほかの道を選択することができなかったとするなら,それには先行する原因(神の意思を感じた)ということになるのだろう.
 

  • 別の解釈は,私たちは自分の行動が外部の至近的な原因にコントロールされていないときに自由だというものだ.それは私たちは自分の目的のために自分自身で行動するときに自由なのだということだ.この解釈によるとルターが(自説の)撤回を拒否したことは,彼の外部コントロールからの自由を表していることになる.神聖ローマ帝国とカトリック教会の連合は彼の自由意思を曲げることができなかったのだ.

 
ヘイグは「別の解釈(another interpretation)」としてあたかも多数説に対する代替説のような言い振りだが,こちらの方がはるかにしっくり来る解釈に思える.