From Darwin to Derrida その190

 
ヘイグは第14章において自由について語る.私たちは遺伝にも経験にも完全に拘束されているわけではない.ヒトは意思決定に(遺伝や文化だけに決定されずに)内部的な目的を持つ「魂」を関与させる方が生存繁殖に有利であったので,そのような自由な「魂」を持つのだ.ヘイグはここからその「魂」について論じる.
   

第14章 自由の過去と将来について その12

 

  • あなたの魂(つまりあなたがあなたであるもの)は(今ここにある)不動の動者だ.あなたは情報を意味のある選択として解釈する共時的自由を持つ.なぜならあなたの魂は,あなたの個人的性質と私たちの共有するヒトの本性の表現として,予測不可能な世界に意味を与えるような力を通時的に持っているからだ.あなたは,ヒト以外になれない,あるいはあなた以外になれないという理由で拘束されているのだろうか?

 
なかなか哲学的な文章で難解だ.ヒトは遺伝子や文化が完全に把握できない現在の状況を判断する(共時的自由)が,その判断の仕方は進化的文化的(通時的)に与えられたフレームに従う.そこには何らかの制限はあるが,言葉の普通の意味では「拘束されていない」状況だということだ.
 

  • 道徳規範は魂のリモデリングに重要な文化的入力だ.これらは魂の進化する技術の一部としてのヒトの発明だ.複数の発明が似たような目的のために使える.道徳規範を発明をして理解するのは,それを軽んじることとは異なる.発明は私たちの人生がどのようなものであるかについて深遠な影響を与える.
  • それを発明だというのは,道徳規範には,その他のテクノロジーと同じくトレードオフ,デザインの欠陥,流行りすたりがあるという意味だ.テクノロジーは時間とともに洗練されていく傾向を持つ.道徳規範も似たような「進歩」をする.「絶対的」道徳規範は,「今ここ」にしかない.それは通時的には文化的相対主義と進化的変化の中に埋め込まれている.

 
ここに来てヘイグは「道徳」に言及している.ここで言う「道徳規範」は根源的な道徳感情や普遍的道徳律ではなく,個別の文化やそれぞれの個人が持っている具体的道徳規範ということだろう.そしてそれはヘイグがいう通り,文化間で異なるし,時代によって移り変わる.この個別の道徳を「進化的発明」だとするヘイグの主張はなかなか興味深い.
ここでフィッシャーの「自然法の創造的側面」という文章が引用されている.フィッシャーがこのような考察をしているとは知らなかった.わずか6ページぐらいのエッセイで,冒頭をちょっとだけ読んでみたが,果たしてフィッシャーが書いているだけあってとても難解で,かつ辛辣で英国風のスノビッシュな雰囲気に満ちているようだ.
 

  • 悪についての実践的問題などというものはない.私たちは悪についてどうすべきかを完全に知っている.私たちは,私たちの中で,そして世界の中でそれを理解し,それを拒絶しなければならない.最上の努力でそれにあらがい,それを学び,それを絶滅させなければならない.それこそが「悪」という単語が意味することだ.悪は明確に攻撃され排除されなければならない.
  • この見方によれば,悪は相対的だ.悪は社会の変化を伴う進化的進歩によりその性質を変えていく.十戒や7つの大罪のような法典化はしばらくはうまくいくが,それが永遠に続くとは期待できないのだ.

R. A. Fisher Creative aspects of natural law 1950

 
https://digital.library.adelaide.edu.au/dspace/bitstream/2440/15148/1/241.pdf