War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その12

 
ムハンマドは「ウンマ」による高いアサビーヤでアラブを統一できたというのがターチンの説明になる.ここからムハンマド死後のイスラム帝国の膨張が描かれる.
   

第4章 砂漠のアサビーヤ:イブン・ハルドゥーンによる歴史の鍵の発見 その5

 

  • ムハンマドは最後の2年(630〜632)でその政治的影響力をアラビア全体に広げた.
  • ムハンマドの死後,後継者(カリフの語源)とされたアブー・バクルに対して多くの部族的反乱が生じた.632年時点ではバクルが動員できたのは6000人に過ぎなかった.しかし反乱軍はばらばらで組織化されておらず,バクルはそれらを次々に打ち破ることができ,アラブ世界を再統一した.
  • 当初バクルはアラブ統一を越えて近隣帝国の打倒の野望を持っていたわけではないようだ.だから彼はアラブが住む(ビザンチンとペルシアとの辺境である)シリアとイラクに遠征軍を派遣しただけだった.
  • しかし全てのアラブを統一してしまった後,このような軍事的エネルギーはどこかに向かわざるを得ない.イスラムは部族間抗争に戻るか,大帝国の建設に進むかの選択を迫られ,後者を選んで世界征服を目指すことになった.アラブのみの統一という状況は不安定な平衡状態だったのだ.そしてカリフ時代のイスラムは強いアサビーヤを保ち,数的に勝るビザンチンとペルシアを打ち破り,シリア,パレスチナ,イラクを版図に加え拡大することになった.

 

  • イラク征服のためのイスラムを率いたのはハーリド・イブン・アル=ワリードだった.彼はイスラムでもっとも優秀な軍事リーダーの1人でありアラーの剣とも呼ばれた.彼は633年に2000の軍勢でメッカを出立した.そしてイラクに近づくにつれて多くのイスラムに改宗したベドウィン部族が加わり*1,イラクに着く頃には10000の軍勢になっていた.しかしペルシア側はそれを上回る大軍勢を集め,巧妙にハーリド軍の砂漠の行軍ルートを塞ぎ,彼等を渇きに追い込んでから(そのルートの次の唯一の補給拠点である)オアシスの手前で対陣した.ハーリドは(渇きで使い物にならない)騎乗を解き徒歩での突撃を命じた,ちょうどその時雨が降りだし,失うものが何もなく,神の恩寵を感じた軍隊の突撃はすさまじく,ペルシア軍は壊滅的な敗走に追い込まれた.
  • このウボッラの戦いの状況は第1章で見たコサックのシベリア侵入のそれによく似ている.敵領土深くで絶望的な状況に陥った小さな軍隊が圧倒的な数の劣位を覆して勝利する.しかしハーリドのアラブとイェルマクのコサックの類似はさらに深い部分にもある.それらはともに断層線フロンティアの産物であり豊かなアサビーヤの恩恵を受けたのだ.そしてその団結心の糊になったのは強い一神教への信仰だった.

 

  • 7世紀のアラブによる大征服は今もなお私たちに謎を問いかける.さまざまな説明がなされてきたがどれもうまく説明できないのだ.
  • 彼等には数的な優位も技術的な優位もなかった.というか,そのどちらにおいてもアラブは劣っていた.ビザンチン領シリアの征服は24000の軍隊でなされたが,ビザンチンはその10倍の軍隊を擁していた.アラブの唯一の技術的優位はラクダにあったが,実際には輸送に使われることが大半で戦闘は徒歩でなされることが多かった.初期のイスラム軍には馬も不足していた.乾燥したアラビアで馬を飼育することはとても高くついたのだ.鎧も不足していた.初期の対ビザンチン,対ペルシアの戦いの勝利は騎兵の突撃や弓騎兵によるものではない.
  • 唯一のアドバンテージはアサビーヤと死を恐れぬ戦いぶりだった.何世紀も強国に挟まれてアラブ社会はムハンマドがその上に強固な統一体を築ける基礎になった.これに対してビザンチンもペルシアもその当時は解体フェーズにあった.例えばペルシアは630年から633年前の間に7人もの皇帝が次々に即位し,(誰一人その治世を半年以上維持できずに)退位している.
  • アサビーヤの高い国は何回もの戦闘に負けても最終的には勝利できる.それはローマの対ハンニバルの戦争を見れば明らかだ.しかし当時のビザンチンは1回の戦闘の敗退でパレスチナとシリアをあきらめてしまった.ペルシアもカーディシーアの戦いの1回の敗戦で首都クテシフォンとイラクをアラブに明け渡したのだ.

 
確かに初期イスラム帝国の拡大ペース,特に対ビザンチン戦,対ペルシア戦の大勝利は神がかっている.とはいえ細かくみるとシリアの対ビザンチン戦はそこまで単純ではなく,初戦ではビザンチンが勝っているようだ.その後ハーリドが登場してパレスチナのアジュナーダインで勝利して形勢が動きはじめ,ダマスカスを包囲攻城で陥落させた後,635年のヤルムークの戦いが天下分け目の大決戦となる.ビザンチン12万,イスラム4万が平原で激突し,3倍の兵力差を覆したイスラムの勝利となり,シリアがビザンチンから失われることになる.
対ペルシア戦もウボッラの後の「橋の戦い」ではペルシアが勝利したようだ.その後一進一退の攻防となり,636年にカーディシーヤでペルシア軍と対戦.この時も兵力差は3万対5〜10万と劣勢だったが,激戦の末ペルシア軍を撃破,そのまま首都クテシフォンを陥落させる.皇帝ヤズデギルド3世はイランに逃れ反撃を試みるが,642年にニハーワンドの地で敗北,651年逃亡先で没し,ペルシア帝国はそのまま滅亡することになる.
通常の歴史記述だとこれらの決戦の勝利は,軍の組織化の高さ,用兵の妙(地形に合わせた奇襲戦法が効いたようだ),そして目的意識の高さ(ここがアサビーヤと関連するということになろう)から解説されることが多いように思う.

*1:彼はベドウィンにもまず攻勢を見せたが,彼等が「私たちはイスラム教徒だ」といえば簡単に攻勢を解いた.そしてベドウィンが加わりたいというと受け入れたという具合だったそうだ