War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その21

 
ターチンの協力の科学の学説史.いよいよターチンの主張が始まる.ここは詳しく吟味していこう.
 

第5章 自己利益の神話:協力の科学 その7

 

  • それぞれの社会には,自己利益を追求するのに加えて,少なくとも部分的には社会規範により動機付けられる人々がいる.ではそのような規範への追従傾向がなぜヒトにあるだろうか.自然淘汰理論はそのような利他的な行動は進化しないと予測するのではないのか.説明のためには最近の進化生物学と人類学の進展を見る必要がある.

 
冒頭の文章では規範に従うことがすなわち利他行動だとされており,ここでもターチンはスロッピーだ.規範に従うことが利他行動かどうかはそれが他者に利益を与え行為者にコストを課しているかどうかで決まる.多くの場合規範に従うことは行為者の利益になっているだろう.それは制度的な構造(違反者への罰など)がある場合もあれば,規範に従わないような人は配偶相手や同盟者として選ばれにくいような場合もあるだろう.
とりあえず,ターチンは規範に従うことが行為者にとってコストになる状況を問題にしているとしよう.確かにそういう状況はあるだろうし,一部の人はそれでも規範に従おうとするかもしれない.だからそれは確かに説明が必要になる.
そして自然淘汰理論は(特定条件において)利他的行動が生じることを説明できる.それはターチンも血縁淘汰と互恵性で認めているはずではなかったか.そしてこの場合,規範に従うことが評判となって,配偶相手や同盟相手に選ばれやすくなるならそれはまさに間接互恵的に説明がつくことになる.そして振り返ってみれば,ターチンは互恵性の説明において直接互恵性のみを紹介し,間接互恵性については無視している.これは明らかな勉強不足か,あるいは自説の説明に都合が悪いための意図的な無視かのどちらかであり,(ここまでの著述ぶりから考えると)おそらく後者だろう*1.極めて姑息な態度といわざるを得ない.

 

  • 実際にダーウィンそのヒトの利他的行動の問題に関心を持っていた.彼はこう書いている.「利己的で争いの絶えない人々がまとまることはないだろう.そしてまとまりがなければ何もなしえない.勇気を持ち,共感的で,信義のあつい・・・部族は,・・・危険に対して互いに警戒しあい,助け合い,守りあうだろう.・・・そしてそのような部族は他の部族よりも繁栄し勝利するだろう」 このダーウィンにより提唱されたメカニズムは「グループ淘汰:グループ内の協力はグループ間の競争により進化する」として知られる.

 
このダーウィンの引用は(ターチンは2つの文章を切り貼って1つにしているが,文意を変えているわけではない)「人間の由来」の第5章にある有名な文章で,DSウィルソンを始めとするマルチレベル淘汰主義者が,大喜びで引用するものだ.確かにダーウィンはここでは明確にグループ淘汰的だ.しかしダーウィンが明確にグループ淘汰的なのは,彼の書き残した膨大な書物や書簡の中でここだけだ*2.その他の「誰のための有利さが進化するのか」が問題になる箇所では常に個体淘汰を支持している.それは交雑個体の不妊性の進化に関しては特に明瞭だ.そしてダーウィンにとってヒトの(道徳性を含む)高潔さの説明は非常な難題で,(彼にしては珍しく)部族内での個体淘汰を無視するというやや安易な道に流れたというのが私の評価だ.ともあれこの部分のターチンの記述は正しい.
ちなみにダーウィンの原文は以下の通り

    • When two tribes of primeval man, living in the same country, came into competition, if the one tribe included (other circumstances being equal) a greater number of courageous, sympathetic, and faithful members, who were always ready to warn each other of danger, to aid and defend each other, this tribe would without doubt succeed best and conquer the other. Let it be borne in mind how all-important, in the never-ceasing wars of savages, fidelity and courage must be. The advantage which disciplined soldiers have over undisciplined hordes follows chiefly from the confidence which each man feels in his comrades. Obedience, as Mr. Bagehot has well shown, is of the highest value, for any form of government is better than none. Selfish and contentious people will not cohere, and without coherence nothing can be effected. A tribe possessing the above qualities in a high degree would spread and be victorious over other tribes; but in the course of time it would, judging from all past history, be in its turn overcome by some other and still more highly endowed tribe. Thus the social and moral qualities would tend slowly to advance and be diffused throughout the world.

 

  • 20世紀を通して「グループ淘汰」はローラーコースターのような軌跡をたどった.まず広く受け入れられ,その後完全に否定され,そして今,より成熟した形に姿を変え,卓越へと戻る途上にある.

 
卓越へと戻る途上にある(now on its way back to prominence)とは大げさな言い振りだ.ターチンの認識としてはそうだということだが,少なくとも進化生物学の世界ではとてもそういう状況とは言い難いだろう.
 

  • 問題は最初の受容ステージで筋悪の理論が数多く提出されたことだ.筋悪理論の代表例はコンラード・ローレンツが「攻撃」の中で示しているようなものだ.(ここでターチンによるグループ内個体淘汰を無視したナイーブグループ淘汰の誤謬の解説がある) グループ淘汰理論にとって不幸なことに,数理モデルは,極めて異例な状況を除いて,グループ内の個体淘汰は常にグループ間淘汰を圧倒することを示している.

 
この部分は適切だ.ターチンは少なくとも理論的にはナイーブグループ淘汰の誤謬を理解していることになる.
 

  • 1970年代までにはこの数理モデルの結果は広く知られるようになり,グループ淘汰支持者を「ナイーブ」だと嘲るのは一種の流行になった.グループ淘汰支持者とされたものは,極く少数の例外(その1人がDSウィルソンになる)を除いて,皆しょげ返り恥じ入った(crawled into various holes with their tails between the legs).個体淘汰視点は,ドーキンスの「利己的な遺伝子」に見られるように,進化生物学のドグマになった.

 
この部分のターチンの記述は大筋では正しい.ただ,ターチンは数理モデルが決定的であるように描いているが,おそらくそうではなく,重要だったのはジョージ・ウィリアムズの「適応と自然淘汰」における(散文による)徹底的な論考だっただろう.そしてそれに少し先立つラックによる一腹産卵数の適応進化の考察も次に重要だっただろう.要するにウィリアムズに指摘されるまで,グループ内の個体淘汰を考慮に入れる必要性がきちんと認識されていなかったが,指摘されてみるとその通りだと考えられるようになったということではなかったのだろうか.数理モデルの結果はウィリアムズの考察が正しかったことが数理的にも確かめられたといういわば駄目押し的要素だったのではないかと思われる.
 

 

  • ドーキンスやその支持者たちは自然淘汰には1つの支配的なユニットしかないとしているが,ドーキンスは著作の中では少なくとも3つのユニットを認めている.遺伝子,個体,血縁グループ(血縁淘汰)だ.結局のところ個体は構造を持たない単一のアトムではない,それは器官,組織,細胞で構成され,細胞には多くの遺伝子がある.
  • 細胞が適切に機能するのはその中の遺伝子たちの共通利益かもしれないが,利己的遺伝子はその協力にフリーライドする動機を持ちうる.同様に細胞は通常個体の生存や繁殖のために協力するが,しかし時にその協力は崩れ,ならず者細胞が他の協力的な細胞を犠牲に増殖する.これはガンとして知られる.要するに物事は個体淘汰視点を支配的とするドーキンスやその支持者たちが描くよりも複雑なのだ.

 
ここは全く唖然とさせられる.ターチンはドーキンスを取り上げて引用までしておきながら,「利己的な遺伝子」において何度も強調されているテーマを全く理解できていないことが明らかになっている.
ドーキンスは,自然淘汰の真の単位は複製子である遺伝子であり,それ以外の細胞や個体は遺伝子の乗っているヴィークルだとして明確に区別している.そして自然淘汰による適応進化は遺伝子の複製成功が上がるように進む(つまり遺伝子にとって利己的な形質が進化する)が,ヴィークルにとって利己的に進むとは限らない(だから個体にとって利他的な行動が進化しうる)というのは「利己的な遺伝子」の重要なテーマだ.ターチンはこれが全く理解できていない.
そして利己的遺伝子たちは同乗している細胞や個体の利益が共通の利益になるので,相利的な協力を行うが,ある利己的遺伝子にとってそれを上回る利益があれば,裏切りも行うということをドーキンスは明瞭に理解している.だからジャンクDNAは利己的遺伝子で説明可能かもしれないと主張している.そしてヴィークルの振るまいが複雑になりうることももちろんよく理解していて,それが遺伝子視点の淘汰で還元的に説明できるというのが「利己的な遺伝子」における最も重要な主張になる.
ターチンによるドーキンス理解はあまりに低レベルで眩暈を覚えるほどだ.おそらくDSウィルソンたちの文章を孫引きしてドーキンスを揶揄しているだけで,まともに「利己的な遺伝子」を精読したことがないのだろう*3.読みもしないで引用して揶揄するという態度は学者として情けないというほかない*4
 

*1:前者であれば,このような利他行動の進化についての解説をする資格がそもそもないということになる

*2:もしあれば,グループ淘汰推しの誰かが発見しているだろう.しかし彼等が引用するのは常にここだけだ.

*3:以前指摘したドーキンスの引用が,章を間違え,不適切な文脈での引用になっていることもそう思わせる要素だ

*4:読んでいてこの理解だとすれば,あまりに低レベルな読解力でやはり情けないということになるだろう