War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その22

 
ターチンの協力の科学の学説史.ターチンはグループ淘汰が当初ナイーブグループ淘汰の誤謬により否定されたことをまず押さえる.その後,それに変わる主流の立場では状況を説明できないと主張し,ドーキンスを批判するが,あまりの低レベルの理解振りをさらけ出したところまで見た.
 

第5章 自己利益の神話:協力の科学 その8

 

  • 近時,ウィルソンと同僚たちはこの個体淘汰ドグマに大量の反撃をして成功している.そして今や自然淘汰はすべてのレベル(遺伝子,細胞,個体,血縁グループ,グループ)で同時に働くということが広く受け入れられている.

 
ということでターチン推しのDSウィルソンのマルチレベル淘汰が登場する.ウィルソンの攻撃は少なくとも進化生物学の世界では「成功している」とは言い難いが,マルチレベル淘汰理論が間違っているわけではないことは確かに広く認められているだろう.
しかしここで真に押さえておくべきことは,マルチレベル淘汰理論が包括適応度理論(血縁淘汰),(そして包括適応度理論についてのドーキンス流の遺伝子視点からの見方)と数理的に等価だということだ.数理的に等価であるから,片方の理論で予測できることはもう片方の理論でも同じように予測できる.ドーキンスは間違いでウィルソンが正しいということはないのだ.そして何かを説明するのにマルチレベル淘汰でなければならないということもあり得ない.この点でターチンのここまでの主張は完全に的外れということになる.*1


 

  • ヒト以外の生物で,通常の状況では,グループレベルの淘汰が非常に弱いというのは本当だ.自然界のグループ淘汰の実例は稀だ.しかしヒトは,生物世界の中で,思考,コミュニケーション,そして文化の能力を持つという意味で特別であり,これがグループ淘汰を強力に働かせる.ヒトの超向社会性が文化的グループ淘汰でどのように進化したのかについての最もよい説明はロバート・ボイドとピーター・リチャーソンによって提示された.

 
ここまで読んで私は椅子からずっこけそうになった.ここまで振っといてボイドとリチャーソンの文化淘汰を持ち出すいうのはあまりに壮大な肩透かしのように思える.私の理解ではボイドとリチャーソンの文化的グループ淘汰というのは,遺伝子頻度の増減ではなく,文化要素の増減を説明するものだ.
遺伝子は水平伝播がないので,ヴィークルである個体の繁殖が非常に重要になる.そしてこの繁殖を犠牲にしてグループに奉仕する傾向は進化しにくいので,血縁淘汰とかマルチレベル淘汰とか直接互恵とか間接互恵が議論されるのだ.しかし文化要素は水平伝播するので状況が全く異なる.その個体が繁殖できなくても影響を周りに振りまいて文化要素のコピーが増えるのなら,そもそもそういう行為は文化要素あるいはミームのヴィークル的には「利他的」ではないので,血縁淘汰やマルチレベル淘汰を持ち出す必要もないことになる.(もちろんその個体が伝播させる文化要素が減少する行為でかつグループ全体の文化要素が増えるようなものについては持ち出す意義があるが,ここではそういう趣旨ではないようだ)
 

 
ということで,ターチンはヒトの本性としての超向社会性は説明せず,文化的要素としての超向社会性のみを説明するという立場に立ったことになる.
ともあれ,彼の主張を見ていこう.
 

  • ヒトと他の生物の最も重要な違いは,行動の文化的伝達の重要性だ.これは人々の行動にとって遺伝が重要でないと言っているのではない.遺伝と環境(文化)はコラボレートして行動を決定する(行動遺伝学知見が解説されている).

 
これは確かにその通りだ.行動は遺伝と環境が相互作用して決まる.
 

  • 文化的伝達が遺伝的伝達と決定的に異なっているのは,人々は両親だけでなくその他の人々から学習することができるという点だ.若い人は特定の行動を同じ部族の成功者やカリスマ的な個人を模倣することによって受け継ぐ.彼等は部族の大人たちから魚捕りの方法から嘘をつかないことまで多くのことを教えられる.
  • ここで重要なのはこのような文化的な行動習慣の拡散は遺伝的なそれに比べてはるかに速く進むことだ.もちろんグループにとって利益になるような行動も害になるような行動も広がりうる.ここでグループ間競争が重要になる.それは害になる行動習慣が広がったグループを除去するのだ.例えば死者の脳を食する儀式を行ったニューギニアのフォー族のことを考えてみよう.それはクールー病を蔓延させる悪い習慣だった.リンデンバウムたちがこの原因を特定していなければ,フォー族はいずれ近隣部隊との闘争に負けて消滅していただろう.

 
クールー病のくだりは印象的な例だ.とはいえ,この場合この習慣は個人的にも害があり,グループ全体にも害があるので,グループ淘汰を特に強調するには適切とは言いがたいだろう. 
 
関連書籍
 
包括適応度理論(血縁淘汰)とマルチレベル淘汰理論が数理的に等価であることを示している日本語の書物はあまりない(実務的にはマルチレベル淘汰を用いることがあまりないからということだと思う).私が読んだ中で最もよい日本語の解説はこの本の第2章の中のコラム(P59)だ.

*1:そして包括適応度理論では遺伝子の利益のエージェントである個体にとっての行動戦略を見通しよく導き出せるのに対し,マルチレベル淘汰理論では個体の利益,グループの利益を別々に計算していく必要があり,見通しが悪く取り回しが難しい.大半の行動生態学者は包括適応度理論の方を用いてリサーチを進めているというのが現状だ