書評 「進化が同性愛を用意した」

 
本書は進化心理学者坂口菊恵による同性愛を扱った一冊.坂口は進化心理学的に性淘汰産物としてのヒトの行動性差,個人差について探究し,その後その至近要因にも踏み込んで内分泌行動の研究も行ってきた研究者だ.単著としてはナンパや痴漢のされやすさの個人差に関する「ナンパを科学する」に続く2冊目ということになる.
本書は同性愛を科学的に考察するものだが,まず同性愛行動そのものが複雑で多層的な側面を持つこと,またラディカルなフェミニズムや社会正義運動の吹き荒れる昨今,同性愛はなかなか社会的に微妙なテーマとなっていること,さらに(環境要因として)同性愛の社会史や文化史まで視野に入れていることから,かなり複雑で込み入った構成となっている.
 

Part 1 同性愛でいっぱいの地球

 
第1章では動物界に同性愛行動がありふれていることが強調される.現在エピソード的な報告も含めると1500種の動物で同性愛行動が報告されているのだそうだ.個別例としては有名なボノボの社会的絆を示すメス同士の同性愛行動をはじめ,ペンギン,カモメ,アホウドリなどの同性ペアによる子育て,イルカの若オス同士の若衆宿的な同性愛,ゾウのオスのコンパニオンシップ,チスイコウモリのオス同士は性的ないちゃつき,メス同士は(性行動抜きの)長期的コンパニオンシップ(互いに血を吐き戻し合う)という非対称な同性愛,大人オスが稚児を持つミナミヤマクイ(テンジクネズミの仲間),ハイイロガンのオス同士のカップル,ライオンのオス同士,メス同士のコンパニオンシップが解説されている.
そしてその合間に,自然淘汰の観点から見ると「同性愛の性行動は貴重な繁殖資源を浪費しているように見える」という謎があること,動物の場合これまで報告されている同性愛行動のほとんどが「両性愛」であること,霊長類の配偶システムの進化史(乱婚から一夫一妻への進化する場合の進化要因,神経基盤.遺伝的基盤),ヨーロッパにおける同性愛への見方の歴史的変遷(古代ギリシア・ローマの容認から中世スコラ哲学,キリスト教の非寛容へ)とその「生殖目的のための未成行動があるべき」という規範が適応主義の進化生物学に与えた影響,自然主義的誤謬に注意すべきことなどが解説されている.
 
本章の記述においてちょっと不満が残るのは,同性愛の進化的謎について,「ヒトのゲイやレズビアンに見られるように排他的な同性愛傾向がある場合」の謎と「大半の報告された動物のように両性愛的な個体が条件依存的に同性間性行動を行う場合」の謎では重みが全然異なっていることについてきちんと解説していないことだ.後者であれば,同性愛行動に費やされる時間やエネルギーなどのコスト(これはそんなに大きくない)を上回る利益があればよく,それは大した謎ではない(例えば社会的絆による有利さで簡単に説明可能だ)が,前者の場合は(自身が繁殖しないわけだから)その適応度的コストは非常に大きく,重大な謎になる.だから本章で示された動物の同性愛行動は(もちろん何がそのコストを埋め合わせた利益であるかはきちんとリサーチする必要があるが)それほど重大な進化生物学の謎とは言えないということはきちんと説明しておいたほうがよかっただろう.
 

Part 2 ヒトの同性愛を生物学から考える

 
第2章ではヒトの同性愛についてこれまでどのように捉えられてきたのかの社会史,学説史,思想史が語られる.

  • 現代科学の成立時である19世紀には,欧米はそれまでの保守的倫理観から現代的倫理観への過渡期にあった.法制度的には同性愛は処罰されるべき犯罪であり,「同性愛」を個性であると捉えるという発想はなかった.(同性愛が始めて合法化されるのは1919年のワイマール共和国憲法になる)
  • 19世紀後半から20世紀前半にかけて生殖器の発達が典型的な男女のそれにおさまらない人々の存在が明らかになった.また19世紀後半には様々な生物や社会における同性愛行動の証拠が蓄積されていき,学術の世界では性は連続的であるという認識が広がっていった
  • 1905年にXY染色体が発見され,1920年代には性ホルモンの生殖期や行動に与える影響が調べられるようになり,遺伝子と性ホルモンの相互作用が雌雄の違いを生むことが理解されるようになった.そしてXY染色体は雌雄それぞれのシンボルであるという性についての二元的な概念が確立してしまった.
  • 片方で1930年代には男性にも女性ホルモンがあり,女性にも男性ホルモンがあることがわかり,ホルモンの観点からは性が連続的であることが明らかになった.
  • しかしこのような(性の連続性にかかる)探求や教育は大きな流れにはならず,優生学の台頭とともに性に関する知識は男女二元論や異性愛主義の根拠として使われるようになった.(ゴールトンの思想と優生学*1,社会ダーウィニズムが引き起こした惨禍が解説されている)
  • フランツ・ボアズは社会ダーウィニズムに対抗し文化相対主義を唱えた*2.しかし文化相対主義は次第にヒトの心や社会行動に普遍的な要因があることをタブー視するようになる.ヒトの心理や行動にかかる学問としては,フロイトの精神分析と行動主義心理学が台頭した.同性愛に対して,精神分析家は幼少期に体験した両親のパワーバランスの偏りの問題と考え,行動心理学者は性心理が発達する時期に同性との接触で(誤って)快感を得てしまったためだと考えた.しかしこのような説明では同性愛が禁止されている社会にも同性愛者が現れることや,トランスジェンダーの存在を説明することはできない.
  • 1960年代以降遺伝子を単位とした適応主義的行動生物学が盛んになる.(ドーキンス,ハミルトン,トリヴァースたちが紹介され,親の投資理論が解説されている) そしてそれらの考えは,ドナルド・ブラウンによるヒューマンユニバーサルの提言,ウェスターマークの近親婚回避の説明などにより,様々な文化におけるヒトの営みにも適用されるようになっていった.
  • そして1979年にドナルド・サイモンズは性淘汰理論をヒトに応用し,性的マイノリティの特性の説明にも拡張した.デイヴィッド・バスは配偶戦略の性差を説明した.このような適応主義を前提とした心理学が進化心理学であり,多くの成果を挙げた.

 

Part 3 生物学的説明の限界

 
第3章では1960年代以降の同性愛,セクシャリティ,ジェンダーなどのついての科学的探求史とその行き詰まり,そして著者による方向性の提案が書かれている.様々なトピックが取り上げられており,内容は複雑で難解だ.冒頭はなぜヒトにおいて同性愛遺伝子が淘汰されてしまわないかという問題が取り上げられている.

  • ヒトの(排他的な)同性愛の進化的説明の試みは早くから行われた.同性愛者はいずれの文化圏にも一定数は存在し,ゲイの場合には遺伝的な要素があることから,なぜそのような遺伝子が淘汰されてなくならないのかを説明する必要があった.2000年前後には(1)血縁者の子の養育を助けるという血縁淘汰的説明 (2)ゲイ遺伝子は女性の中で発現する時に有利性を持つという多面発現的説明(3)同性個人との連合の維持による有利性があるという生存戦略説,があった.
  • その後同性愛の遺伝的背景は当初想定より複雑であることが明らかになった.まず(同性愛に限らず)行動傾向にかかる遺伝は非常にたくさんの要因遺伝子の影響を受けていることがわかってきた.そしてある家族(民族)におけるゲイ要因遺伝子と別の家族(民族)におけるゲイ要因遺伝子はだいぶ異なっていることもわかってきた.ゲイ遺伝子を特定しようとする様々な試みが為されたが,共通する影響の強い「ゲイ遺伝子」は見つからなかった*3.同性愛は比較的ありふれた個人変異であり,ありふれた多種多様な遺伝子の組み合わせがその素因として貢献しているのだろう.

 
この部分の説明は大変わかりにくい.説明としては2000年代当初に提案された(1)〜(3)のような説明では,自身が繁殖できないという重大な不利益を埋め合わせる利益を量的に説明できなかったことを指摘しておくべきだろう.そしてそれは現在も基本的には謎として残っているということになる.
片方で一般的に行動傾向にかかる原因遺伝子が非常に多数あることがわかってきたのは確かだ.本書の記述の流れは,それがあたかも適応主義的な考察の問題点となるかのような印象を与えているが,そうではないだろう.基本的に適応主義的な考察はある生物種の一般的な特徴や行動戦略を説明するもので,そういう意味では多くの動物の多くの行動戦略は(それが多数の原因遺伝子の影響の下にあったとしても)適応主義的にうまく説明できている*4.そしてそれはヒトのヒューマンユニバーサルとしての性差や(本書で後に扱われる両性愛者の条件依存的同性間性行動を含む)性行動戦略についても当てはまる.
そしてここにユニバーサルの説明とは別に個体差(個人差)の説明という問題がある.なぜ一部の人が同性愛傾向を持つのかというのは個体差の問題ということになる.個体差の一部は頻度依存性や条件依存性で適応主義的に説明できる.両性愛者の同性間性行動はそれで説明できそうだ.しかし排他的同性愛はそれでは難しいということになる.そしてここに原因遺伝子が多数あるという問題がかかわる.原因遺伝子が多数あると表現型は分散を持った分布になる.この場合各遺伝子の効果が相加的であればそれは最大適応値をピークとする正規分布に近くなるが,相加的でなければ様々な分布になりうる.それが本書の「多数の遺伝子の組み合わせがたまたまそろうと同性愛となるのだろう」という説明につながるということになる.そしてこの場合には遺伝子の効果の詳細,適応地形の詳細を詰めれば,原理的にはどのぐらいの外れ値の個体がどのぐらいの頻度で出現するかを(ある意味適応主義の範囲内で)説明可能になる.しかしその詳細を詰めるのは実務的には非常に難しい.だから排他的同性愛者の現状の頻度の存在は(説明可能性はあるが)引き続き謎ということになるだろう.
さらに本書の記述はゲイ遺伝子を探索する試みはナイーブであったという印象を与えるが,当時家族性のゲイが知られていた以上,まず最も単純な仮説として単一の原因遺伝子を探るのはむしろ当然で,探索の結果複雑な現状が明らかになってきたということだと思う.
本書のこの部分の記述は,この分野で同時代的にリサーチを行ってきた著者の驚きや落胆の実感がこもっているものではあるが,背景説明が過少で誤解を招きやすいものにもなっていると思う.
 
続いて内分泌生理学を含めたヒトの性的マイノリティの科学的探求と社会とのかかわりが描かれる

  • 動物において発達初期の性ホルモンの操作で性と関連する行動に影響が生じることは20世紀前半から知見の積み重ねがあった.この知見はヒトにも応用され,性的マイノリティに生物学的基盤があることの指摘とともにその社会的地位を高めることに貢献した.
  • しかしトランスジェンダーは性ホルモンや遺伝子ではすっきり説明できなかった.
  • さらに近年になり,同性愛指向が途中で変化する例があること(生まれつきとは限らない)が報告され,責任脳部位が異なるとされてきた性的指向と性自認にそれほどはっきりした違いがないのではないかという指摘がなされるようになった.さらに2010年代に医学・生物学・心理学分野の「再現性の危機」問題が明るみに出た.片方で女性や性的マイノリティのエンパワーメント活動が活発化し,これらにかかる生物学的アプローチ事態が深刻なバッシングの標的にされるようになってきている.
  • 進化生物学内部でも従来の性淘汰理論は性の二元論や生殖のための性行動という考え方にとらわれ過ぎていたのではないかという声が上がるようになった.ラフガーデンのような急進派は性淘汰理論の適応主義的研究成果を棄却すべきだと主張している.

 
この部分も背景になる社会情勢の説明がないのでわかりにくい.当初性指向や性的アイデンティティは環境要因により決まるものと考えられていた.すると性的マイノリティは間違った環境要因による異常な状態で治療や矯正の対象ということになる.これが生物学的な要因,特に遺伝で決まっているとすると,それは「生まれつきの個性」と認められやすくなり,性的マイノリティの権利向上運動の観点からは歓迎された(この点については本書の少し後の部分に解説がある).しかしその後のジェンダースタディーズのようなウルトラ左翼,社会正義研究の立場はイデオロギー的に生物学的説明を忌避し,生物学的要因の理屈の穴を探し,批判するという状況があるということだろう.
 
ここから著者の考えが述べられている.

  • まず「ジェンダー=社会的な性」と「セックス=生物学的な性」という切り分けの妥当性を考えてみよう.
  • 1950年代にジョン・マネーは性的マイノリティへの医療サポートのために尽力した.その中でヒトが外部に表現する性を示す行動や発話の総体を「性役割:ジェンダーロール」と名付けた.1960年代に精神分析家のロバート・ストローラーは自我同一性理論に基づき「心理的な性や性的アイデンティティ」をジェンダーアイデンティティと呼び,性別違和状態に対してこちらの呼び方が主流となった.
  • 1970年代に社会科学者が性差を文化的社会的に構築されたものとして扱うためにジェンダーという言葉を取り入れ使うようになった.
  • 本書ではマネーのジェンダーロールに近い概念として「生物学的ジェンダー」という概念を用いることを提唱する.性や社会行動の多様性を,文化のみから扱うのではなく,生物学的/文化的という二分法から引きはがすことを目指す.そして,性自認(ジェンダーアイデンティティ)や性的指向はこの「生物学的ジェンダー」の要素ということになる.このように捉えると動物とヒトにおける多様な性社会行動を連続して説明しやすくなる.
  • 19世紀末〜20世紀初頭の段階で生物学者は性が連続的であると捉えていたが,その後20世紀半ば頃までには社会的な要請の影響もあり二元的な見方が広がった.しかし哺乳類や鳥類を離れて魚類や無脊椎動物を見ると性の割り当てが固定していない例が多いことに気づく.環境の変化に応じて異なる行動セット(生物学的ジェンダー)が取捨選択されている生物の方が一般的だ.

 
ここで,「ヒトのジェンダーは社会的な性であり文化現象である」ということでは捉えきれないことを示す例が紹介される.

  • 脳部位の活性や発達過程とジェンダー関連行動のリサーチの結果は複雑だが,どうやら幼少期の非典型的ジェンダー関連行動は成長後まで持続するジェンダーアイデンティティの違和感とは直接連続しないようだ.前者は生物学的かつ包括的ジェンダーと捉え,成人後の性自認は文化的文脈の中で身体と自己意識の接続を確立する過程で生じる狭義のジェンダー意識として分けるのが適切だと考える.また性別違和(トランスジェンダー)は大脳新皮質の広い部分と関係がありそうだ.
  • 成人後にセクシャリティーや性自認が変わるケースがあることも知られてきた(レズビアンについてはライフイベントをきっかけに異性愛と同性愛の間を揺れ動くケースがあることは古くから知られていたが,ゲイについてもゲイカルチャーの流行によって性行動やパートナー選択のパターンが変わることがわかってきた).性的指向が遺伝子の指令により視床下部で生まれつき決まっているということでは説明しにくいことになる.
  • 男性ではかなり広く同性間性行動への反応性が見られ,10〜15歳ぐらいにピークがある.そしてその後多くの男性は異性愛への選択制が向上し,その比率は90%以上になる.そして男性の同性間性行動の発現はその文化的環境(同性愛が容認されているかどうか)に大きく影響を受ける.同性愛が一般的な社会では,タチ側は一般男性としてあつかわれ,ウケ側は特別な役割を担う名称(稚児など)で呼ばれる.このような場合同性愛=セクシャリティ,性別違和=ジェンダーという二分法は実態に合わない.ウケ側男性をジェンダーロールが女性的な人と捉えたほうが適切だ.
  • このような状況を見ると性行動そのものよりもジェンダー関連行動全体に対する生物学的な影響を考えるほうが妥当だと考えられる.

 
そもそもの「ジェンダー=社会的な性」と「セックス=生物学的な性」という切り分けは,かなりイデオロギー的なものなので,きちんと調べるとリアリティとは乖離するということになる.それを丁寧にミクロ的な事実から迫っていくのがこの部分の読みどころということになるだろう.もっとはっきり「『社会的な性』とされるジェンダーにも生物学的に決まる部分があるのだ」と言い切ってもよかったと思うが,そこから来る感情的な反発に対処するのもいろいろと大変なので,やや穏当な言い回しにしているということなのかもしれない.
 

Part 4 ジェンダーの生物学

 
第4章は動物におけるジェンダーの生物学.まず性別と性役割が一致しないような様々な動物の行動生態学的な知見が,第3章で提示された「生物学的ジェンダー」という視点から解釈できることが示される.

  • オスが繁殖ナワバリを持つ多くの動物でナワバリ戦略ではないスニーカー戦略をとるオスがいることが知られている.(サケ科の魚類やエリマキシギの例が示されている)これもジェンダーの多様性と捉えることができる.
  • メスのみで子孫を残せる単為生殖種は脊椎動物で80種近く報告されている.ハシリトカゲ類では女性ホルモンの周期に応じてメス役とオス役のメスが交代しつつ交尾し,その刺激で産卵する.雌雄同体生物ではどちらがオス役をとるかで争う例が多い(カタツムリやヒラムシのペニスフェンシングが紹介されている).
  • 魚類には性転換種が多く存在する.多くは成長に従って性別が変わるが,同時的雌雄同体の種も存在する(オス役とメス役をめぐって卵の取引を行う例が紹介されている).クマノミの性転換においては生殖腺とホルモン上の性転換に先立ち行動・脳の性転換が生じる.生殖と性認知が分離していると見ることができる.
  • アズマヤドリのオスは,若いうちにはメスに擬態し,メスの役割行動の一部を行う.ヨーロッパモグラのメスは卵精巣を持ち,繁殖期以外では精巣機能の方が高い(土の中を掘り続け獲物を捕らえるための腕力や攻撃性を得られるからだと考えられている).

 
ここでいったん理論編になり有性生殖の進化生物学が解説される.

  • そもそも進化生物学的には有性生殖は(病原体に対抗するなどの理由で)遺伝子のシャッフルのために進化したものであり,性別は精子や卵の大きさから生じた固定的な役割である必要はない.実際に性の決定を行うメカニズムの試行錯誤を(進化的に)行っていると思われる生物が観察されている(ツチガエル,アマミトゲネズミ,ナカジマシロアリの例が紹介されている).
  • そして遺伝子をシャッフルできない単為生殖種は短命であるとされ,10万年以上存続することは難しいと考えられている.しかしトラフサンショウウオ属のあるサラマンダーは単為生殖を500万年以上続けている.調べてみると他種のオスの精子からDNAを盗み*5,自分のゲノムに加えていることがわかった.

 
そして性別と性役割が結びついていない例の提示が再開する.

  • ブチハイエナのメスはオスと同じような性器(偽ペニスと偽陰嚢)を持ち,オスよりも大きくて攻撃的だ.そして胎児期から高濃度の男性ホルモンを分泌している.(男性ホルモンの影響で窒の開口部がふさがるために交尾も出産も偽ペニスの先の尿道口を使う*6)クマのメスにもそのような個体がいることが知られている.
  • トランスジェンダー性/インターセックス性を持つ動物は諸文化でしばしば神聖視される(上述のクマの他,ヒクイドリ,バヌアツの両性具有ブタが例示されている)
  • 性役割が遺伝的要因だけで決まらない例もある.有名な例は性的刷り込みだ.さえずりなどの行動にも学習が大きな要因となる.このような可塑性は同種同性の個体に複数の性的特徴を持つ多型が生じる要因ともなる.
  • 子育て行動にも可塑性がある.オスが子育てするやアイゾメヤドクガエルを飼育環境下でオスを取り除くとメスが子育てするようになる.またどちらの性が子育てするかについて進化的に簡単に変更が生じていることが知られている.両性に子育て回路があるスイッチは簡単にオンオフできるのだろう.この親行動スイッチは哺乳類にもあることが明らかにされている(マウスの実験,オランウータンやゴリラの観察事例が紹介されている).

 
ここまでの著述で著者は性別と性役割が一致していない例を次々と挙げて,そこに本質的に固定した関係がないことを示している.行動生態的には,オスメスそれぞれ(そしてそれぞれの条件下の個体)にとって平均的に有利になる様々な行動戦略があり,それが進化するということにすぎない.しかしここからヒトの同性愛と連続的に扱うためにはここは強調しておきたいということなのだろう.
 
最後に動物における同性間性行動の知見が紹介される.

  • マーリーン・ズックは2009年に「同性間性行動と進化」という論文で同性間性行動の分類を行っている.そこからいくつかのパターンを紹介しよう.
  • イトトンボ:オスによる同性間性行動の頻度はメスと一緒にいる機会があるかどうかによって影響を受ける*7
  • 家畜ヒツジ:ヒツジは実験によって同性への性的指向が確認されており,8%のオスは交尾相手としてメスを選ばない.
  • カモメ,アホウドリ:オスが不足するコロニーではメスメスで子育てするペアが生じる.精子は近くのオスとの交尾により得る.
  • ニホンザル:ボノボと同じようなメス間の性行動が顕著に見られる.しかしヴェイジーによると機能は異なっている.メスたちは性的な関係を持っても長期的な協力関係には結びつかない.ヴェージーはニホンザルのメスは本質的なバイセクシュアルだとしている.

 
4類型があげられているが,適応主義的に理解容易なのはカモメのケース(与えられた条件下で最善を尽くしている)になる.イトトンボはオスの同性間行動にどのようなメリットがあるかはよくわからないという印象*8だ.ヒツジのケースは排他的同性愛傾向であり,野生種でもそうであれば重大な進化的な謎となるだろう.ニホンザルのケースも謎が残り,これはマカク類でニホンザルだけなのか.ニホンザルだけだとするとそれはなぜかあたりには興味が持たれる.
 

Part 5 ヒューマン・ユニバーサルな同性愛

 
第5章ではヒトの性行動に文化的な影響があること,(排他的同性愛ではない両性愛者の)同性間性行動が(動物と同じように)適応的行動戦略としても解釈可能なことが,ヨーロッパおよび日本の歴史を題材に強調される.

  • ヒトにおいても同性間性行動の出現頻度は文化や環境により大きく異なる一方,その盛衰パターンは類似する.一般的には異性との接触が断たれた状況下では頻度が高まり,軍事的紐帯や宗教的意味付けの元で様式化されやすい.
  • 異性間の恋愛感情も文化的には毀誉褒貶の移り変わりが激しい.しかしそのような文化的受容性の基礎には生物として共通する恋愛という心理メカニズムがある.
  • 古くから性を用いた宗教儀式があり,世界各地で意識越境的な役割を担ってきた(シュメール文化の例が紹介されている).
  • 古代ギリシアや古代ローマでは同性間の性行動はすべての社会階層において普通のことだった*9.ローマも衰退期に入ると性倫理は厳格化し始め,6世紀には同性愛は禁止されるようになり,ユスティニアヌス法典に記された.この法典の影響力はヨーロッパ中世後期の不寛容な時代に復活する.
  • 4世紀から8世紀に至る期間,ヨーロッパではゲイ文化を含む都市文明が衰退し(ただし8世紀にスペインに侵入したイスラム文化圏では豊かな都市文明と同性愛文化が花開いた),キリスト教の影響が大きくなった.キリスト教では性行為自体に対する禁欲的な観念はあったが,同性間の姦淫は男女間の姦淫より罪が軽いとされ,聖職者の間では同性愛文学が流行った.
  • ヨーロッパの11〜13世紀では騎士道文化が興り,結婚は家督と生殖のため,恋愛は家庭外のプラトニックなものとされた.そこでは男性騎士同士の異常なまでの献身愛が賞賛された.これは日本の鎌倉から江戸中期までの衆道文化と似たところがある.
  • 13〜14世紀のヨーロッパは多様な信仰や生活形態に対する不寛容の時代となった.同性愛への不寛容は1250〜1300年の間に急速に生じた(十字軍とイスラムのゲイ文化への敵意が原因として示唆されている).
  • 日本では古来より異性愛,同性愛に対して寛容で奔放だった.日本人が性的に奥手となった非性交化はここ数十年で急速に進んだものだ.武士における衆道や寺院における稚児文化のもとでは男性間の性愛が様式美をもって隆盛を誇った.この興隆は,(1)異性との接触が少ない環境,(2)同性と長く続く絆を作ることの重要性,(3)異性との性交の禁止などの条件下で生じており,世界的に共通する同性愛文化の発展要因の縮図ともいえるし,ヒト以外の動物の同性間性行動の要因とも共通している(なおヒト独自の要因としては(4)宗教的意義(5)生活の余裕と教育レベルの高さ,がある).衆道文化や稚児文化のもとでは権力者が若者を寵愛し,寵愛を受けた者の社会的地位が上昇し,長期的な繁殖成功に寄与する.これは若者の適応的行動戦略と見ることができる.
  • 日本においても性倫理の変遷には宗教の影響が見て取れる.日本古来の宗教観では禁欲をよしとする要素はなかった.初期仏教は修行者に完全禁欲を求めが,ヒンドゥー教の影響を受けた密教では性交を用いた修行法(性ヨーガ)も存在した.密教を日本に導入した空海は性ヨーガの要素も(際どい点は注意深く隠しながら)伝えた.これにより聖職者は女色を避ける一方で,師僧が観音菩薩の化身とされた稚児と性交する儀式が生じ,稚児文化が生まれた.
  • 片方で武士の衆道文化は江戸の天下泰平とともに下火になり,代わりに快楽主義の風俗的男色が盛んになった.
  • しかしこのような稚児文化も快楽主義的男色も明治維新にともなう急速な西洋化の元で徐々に息の根を止められていことになる.

 
章題は「同性愛」となっているが,ここで語られているのは(排他的同性愛者ではない両性愛者による)同性間性行動の文化依存性(行動生態的には条件依存性)ということになる.このような行動は動物の行動戦略とパラレルに分析することが可能だろう.
 

Part 6 宗教戦争としてのホモフォビア・トランスフォビア

 
第6章ではここまで議論してきたことを踏まえた著者の経験や考えが述べられている.

  • かつて私は性行動や性にまつわる特徴は遺伝子やホルモンで決まると考えていた.そして「ジェンダー」を用いた説明はそれと対比されるもので,かつ測定できず説明を放棄したような概念であり,文化的な薄皮に過ぎないと見ていた.
  • しかしトランスジェンダーの存在は私を困惑させた.神経内分泌系の論文では性別違和も生物学的な現象であることが示唆されていたが,出現性比は文化によって大きく異なっていたからだ.また性的指向についてもホルモンによる脳の分化だけでは説明しづらい部分(男性の方が性的指向がはっきりしていて,女性は流動的であるなど)があった.
  • しかしジェンダーに生物学的な基礎があり,性行動はジェンダー表現のバリエーションの1つだと捉えるなら,様々な説明がぴたりとおさまることに気づいた.

 

  • そしてこれまでの進化心理学の議論は「恋愛=生殖のための適応」という前提を(ある意味ドグマ的に)受け入れていたのではないかと思うようになった(ここでは行動や意思決定と遺伝子が直接マッピングできるという単純な前提でリサーチを進めること*10,適応的な説明が容易ではないことにも適応的説明をひねくりだそうとする傾向*11にも疑問が提示されている).
  • そしてむしろヒトや生物を恋愛や性行動に向かわせる心理メカニズムの本来の機能は.通常結びつき難い個体をを引き寄せること自体にあるのではないかと考えるようになった.つまり性行動の進化に働いているのは典型的な性淘汰ではなく個体同士の協力行動を促すための淘汰(社会淘汰)と捉えるべきだということになる.

 
この部分が著者の進化心理学者としての主張ということになる.前段は最前線でヒトの性行動をリサーチしてきた著者の偽らざる思いということになるのだろう.ただ私にはやや極端な見方のようにも感じられる.そもそもある形質が特定目的のためだけに進化しなければならないわけではなく,適応度が上昇するならどんな形で役に立ってもよいというのは進化生物学者にとっては当然のことで,ただ性行動にかかる形質は主に繁殖成功に関連しているだろうと予想し,その部分をリサーチしてきたということではないだろうか.そしてほとんどの進化生物学者はある性行動形質に直接的繁殖成功以外のメリットがあればそれを(ドグマ的に否定したりせずに)適応要因として認めるだろう.
後段の部分は恋愛や性行動にかかる心理の「本来の機能」が個体間の絆形成にあったという仮説であり,これはありうる話だが,今後の検証次第ということになるだろう.私としては,まず繁殖成功のために進化し,その後個体間絆形成にも拡張・転用されたというほうがありそうな気がする.*12
 

  • 最近進化系統的な分析に基づいて,そもそも同性愛は生物にとって特殊ではないのではないかというリサーチが相次いでいる.その中では直鼻猿類,類人猿,ヒトは基本的に両性愛でありそれはTRPC2遺伝子の欠失によると主張する2021年のプファウの論文が物議*13を醸している.

 

  • 歴史的に性的マイノリティの迫害事例を見ると,そこには禁欲主義の要素を含む「自然は善」とする倫理観,性を用いる宗教セクターの排除,同性間の紐帯の必要性の衰退,風紀紊乱への危惧が要素をして浮かび上がる.それは「生殖のためだけの性」を強調することを通じた「コミュニケーションのための性」の排除といえないだろうか.
  • ヒトはそもそも両性愛的で環境により同性間性行動を行うという議論は,しばしば男性にとって受け入れがたいようだ.これは性的指向や反応の発達,学習に性的な非対称性があるからだろう.男性は自分の性的指向に合致しない刺激には反応しないし,性行動に関する発達学習の臨界期が早く,いったん確立されると変化しにくいのだ.
  • 本書でこれまで見てきたように,どのような相手と性行動をとるかという選択を含む生得的な行動セットはこれまで想定されてきたよりも流動的であることがわかってきた.であれば異性愛指向も性嗜好の1つといえるのかもしれない.そして共通する性規範は宗教よりも強い排他的社会グループの定義として効果的なようだ.おそらく性規範に基づく嫌悪感情はかなり強力で,それがホモフォビアやトランスフォビアの根底にあるのだろう.

 

Part7 多様性は繁栄ヘの途

 
本書の同性愛,同性間性行動,性的マイノリティをめぐる議論は第6章まででいったん終了している.最終第7章は少しスコープを広げた事柄が取り上げられている.特に自閉スペクトラム症と意識や知覚の特異性が大きなテーマになっている.

  • 性行動以外の適応主義的な心理学リサーチに自閉スペクトラム症にかかるものがある(胎児期の脳の男性化の程度が高いと自閉スペクトラム症になり,これは超男性脳として解釈できるという説*14が解説されている).
  • 天才とされる人の中には高機能自閉症と推測される人が多い.そうした人の中には性的マイノリティが高確率で存在していたらしい(例としてアラン・チューリングが示されている).アメリカのギフティッドクラスのリサーチでは,興味の方向性や性役割観は中性的な傾向があること,性的マイノリティの出現率が高いことが報告されている.(日本における例として三島由紀夫と南方熊楠が取り上げられている)
  • 特に優れた認知能力を示す人々はサヴァンと呼ばれる.サヴァンはダウン症を含む様々な発達特異性のある人にしばしば見られる.また自閉スペクトラム症のサブタイプとしてサヴァン特性を持つ場合もしばしば見られる.
  • 「天才と狂気」のリサーチでは統合失調症や気分障害との関係が調べられることが多い.統合失調症や双曲性障害の患者の家族は創造的な能力を要する職業(科学者,芸術家など)に就いている割合が高いことが報告されている.精神疾患の遺伝子探索の結果,それぞれの特性にかかわる遺伝子の数は多く,数百に上ること,異なる特性や精神疾患の関連遺伝子はかなりオーバラップしていることがわかった.認知の特異性を遺伝子や生理基盤と対応させる時には,これまでの疾患カテゴリーはあまり意味を成さない可能性がある.(統合失調症であったジョン・ナッシュ,おそらく自閉スペクトラム症であったラマヌジャンのケースが紹介されている)
  • 統合失調症や自閉スペクトラム症では,非日常的でスピリチュアルな物事に対する感覚が強い人が多い.これと創造性をつなぐ鍵になると思われるのが共感覚だ.
  • 幻覚剤が知覚と意識レベルの変容をもたらし,人生の価値付けをも変える効果があることが近年再発見された.通常は接続のない脳部位のクロストークが増大することを見つかっている.自閉スペクトラム症やサヴァン能力を持つ人は薬物を利用しなくとも一般人と異なる意識状態や知覚特性を利用できるのかもしれない.
  • 日本では座禅を用いて意識の変容状態を作る手法が発達した.座禅の達人の脳波を見ると周期の長い同期した振動が観られる.このような同期は癲癇や性的オーガズムでも見られる.
  • これまで宗教の科学的リサーチは集団を結束させる機能について論じるにとどまっており,なぜ人々を結束させる魅力があるのかについては手つかずだった.科学的手法では主観的事象を測定できないからだ.これは配偶相手を選んだ時になぜこの人なのかという問題にも当てはまる.これに取り組むには自然科学における事物カテゴリーや認識の枠組みを捉えなおす必要があるだろう.
  • 本書ではジェンダーとセクシュアリティをめぐる認識を再構築することを提案した.そしてそれにより自然科学的認識論と人文社会学的な問題意識を融合させる方向性の一端を示したつもりだ.本書のメッセージは(1)性が多様であることを認めても生物学的説明を放棄する必要はない(2)性行動にはコミュニケーションの役割もある(3)同性愛や性別越境と結びつけられてきた精神性の中身について再評価すべきではないか,の3つである.

 
この最終第7章は何を議論しているのかややわかりにくいが,最後の(3)が鍵になっているのだろう.結局トランスジェンダーのような現象をメカニズム的に理解するにはこれまでの手法では行き詰まりを感じているということなのかもしれない.
 
以上が本書の内容になる.全体として本書は非常に複雑な構成をとり難解な書物になっている.それは性的指向,性自認,排他的同性愛傾向,(両性愛者の)同性間性行動という微妙なトピックを扱い,さらにこれらに絡まる価値観や政治的な問題を考慮せざるを得ないということがあるからだろう.そして時に深く,時に逡巡しながら,このテーマをめぐっていく記述は,このテーマに関する著者の思い入れの深さも語っているようだ*15
著者の主張については大いに賛同する部分(性役割にも当然生物学的要素はあるだろう,両性愛者の同性間性行動は同性個体間の絆形成などの社会淘汰でうまく説明でき,動物における知見とも連続的になる),やや過激に感じられる部分(従来の性淘汰理論はややドグマ的になっている,恋愛などの性行動形質の「本来の機能」は個体間の絆形成にある),ここからどうしたいのかよくわからない部分(主観的事象を探求するための方法論を構築すべきだ),やや不満な部分(排他的同性愛と両性愛者の同性間性行動では進化的な謎の大きさが全然異なっていることをはっきり指摘していないこと)が混在しているが,読書体験としては濃密で大変興味深いものとなった.性的マイノリティの生物学に興味のある人には是非読んでほしい一冊だ.
 
 
関連書籍
 
著者によるナンパや痴漢のされやすさを扱った前著.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20090525/1243202602

*1:なおナチスが同性愛者を迫害したのはそれが遺伝的な問題と考えたからではなく,異性愛者を誘惑して同性間性行動を広めることが危険視されたことが指摘されている

*2:ボアズが作った流れはその弟子であるベネディクトやミードに引き継がれて戦後に大きな流れになる(8/16 私の要約の誤りのご指摘を受けて表現を訂正しました)

*3:有名なヘイマーによる連鎖解析から導かれたX染色体上のXq28遺伝子説とその後の追試結果が説明されている.最新のGWASによる結果においても関連性を認める報告と,関連性なしという報告があるのだそうだ.またこのようなリサーチは「同性愛」の操作的定義の内容によって大きく結果が異なりうること(定義を社会環境の影響を受けそうなものにすると遺伝的影響は小さくなる)も指摘されている

*4:これは表現型ギャンビットがかなりうまく機能しているということでもある

*5:どのように精子を得るのかには興味が持たれるが説明されていない

*6:出産の際に少なからぬメスが偽ペニスが裂けて死亡するそうだ

*7:イトトンボのメスにはメス型とオス擬態型があるが,興味深いことにこの違いは同性間性行動への要因として差をもたらさないそうだ.

*8:直感的には大したデメリットはないので,メスが少ないと交尾相手の範囲を広げる方が成功しやすいのかと思われる

*9:ただしウケ側の男性については偏見も存在したことも指摘されている

*10:ゲイ遺伝子の探索が例にあげられている.私としては,前述の通り,まず単純な前提からリサーチを進めることに問題はないと考える.そうやってリサーチを進めて始めて複雑な現実がわかってくるということではないだろうか

*11:参照されていないが,これはまさにグールドのいうスパンドレル批判ということになるだろう.私は仮説として提示されるなら問題はないと考えるが,著者には無理筋な仮説が目に余ったということかもしれない

*12:またこの著者の仮説は(両性愛者による)同性間性行動はうまく説明できるだろうが,排他的な同性愛傾向の謎は引き続き残るということになるだろう

*13:いろいろな霊長類をさらっと両性愛というのが適切か,性的指向が1つの遺伝子の影響を大きく受けるというのは単純化しすぎではないかなどの疑問が投げかけられているそうだ

*14:この超男性脳仮説に対しては,著者は女性においては男性性を示す諸指標と自閉スペクトラム症関連認知傾向に相関があるが男性では一貫した傾向は見られないこと,一般に男性性は攻撃性などに現れ,数学やオタク性とは考えられていないことを指摘して疑問を呈している

*15:私がちょっと驚いたのは本書の末尾にある著者紹介だ.最近の日本の学者の書いた本だと(○○県生まれ),○○大学院○○博士課程修了・・・という具合に書かれているのが普通だが,ここでは函館生まれ,函館中部高校卒業後,自宅での浪人生活を経て二十歳で家出,上京.数年のフリーター生活後,東京大学文科III類に入学し,・・・と異例に詳しく書かれている.本書がかなり思い入れのある本だということを示しているようだ.(なお前著の著者紹介も見てみたが,上京後数年のフリーター生活のくだりはあっても家出のくだりはなかった)