書評 「歌うサル」

 
本書は井上陽一によるテナガザルの研究物語だ.井上は高校教師をしながらボルネオに通いテナガザルを研究し続けたという経歴を持つ異色のリサーチャーであり,手探りから始めてだんだんいろいろなことがわかってくる面白さが伝わってくる一冊になっている.
冒頭ではテナガザル研究にのめり込んだきっかけが語られている.高校の地学の教師であった井上は1999年の春に1週間ほど休みがとれそうだということで,本屋でふと「地球の歩き方」を手に取る.そしてその「マレーシア・ボルネオの秘境・ダナムバレー」という記事が目に留まり,熱帯の森に行ってみるのも悪くないと思ったのが始まりだったそうだ.そして現地で早朝に森に響き渡るテナガザルの歌声を聴き,その意味を解読したいと感じ,そしてそのまま20年以上ボルネオの森に通い続けることになる.著者プロフィールによると井上の大学卒業は1975年なので,おそらく20年以上の教員生活の後に突然テナガザルのリサーチを始めたことになる.
本書全体の構成は第1〜3章でリサーチの実際とその結果,第4〜6章でテナガザルの歌について,第7章,第8章でテナガザルの知性と社会生活が描かれるという形になっている.
 

第1章 テナガザルを追いかける

 
著者のテナガザル研究のフィールドはボルネオ島北部のマレーシア領サバ州の二つの保護区ダナムバレーとインバックキャニオンの熱帯雨林になる.第1章は調査のおおまかな概要を紹介するという内容になっている.
2000年に始めて訪れた時の熱帯雨林の印象,保護区・調査拠点・対象個体群の概要,テナガザル観察の可能性*1,対象種(ヒガシボルネオハイイロテナガザル)の生活リズム(14時過ぎに就寝し*2早朝5時頃から活動開始する)と調査のタイムスケジュール,テナガザルの行動パターン(食べる,移動する,休息するを繰り返し,その間に時々歌い,遊び,グルーミングをする,食べ物の6割が果実でその半分がイチジク,副食は若葉,モノガミーでナワバリ性,家族(つがいと子供)のつながりは深く,同種隣接グループにも寛容)などが書かれている.
 

第2章 豊かな実りの中での歌・遊び・グルーミング

 
第2章では一斉結実がオランウータンの行動パターンにどのような影響を与えるかの調査結果がまとめられている.

  • ボルネオでは2〜10年に一度不定期に一斉結実が生じる.その際には様々な果実が実り,テナガザルは食事に苦労しない.彼等はおなかいっぱいになると長時間休息し,グルーミングし,歌う.移動距離は増え.就寝時刻も15〜16時と遅くなる.
  • テナガザルの歌にはオスのソロとオスとメスが鳴き交わすデュエットがある(詳細は第4章).一斉結実時には両方の歌ともに歌われる時間が増える.遊びとグルーミングの時間も増える(それぞれデータが添えられている).(時期的に)生殖に結びつかない交尾も関されされた.体力に余裕があることが影響していると考えられる.
  • 一斉結実は半年しか続かない.12月には一斉に果実が消える.この時に頼りになるのが一斉結実と関係なく一定のサイクルで結実するイチジクになる.(食事の中のイチジクの比率は一斉結実期には14%,それ以外では30%となる)

 

第3章 インバックキャニオン保護区での調査

 
第1〜2章の記述は主にダナムバレーの個体群の観察から得られたものだ.第3章ではもう1つのフィールドであるインバックキャニオンでの調査が語られる.このフィールドにはオランウータンがいない(かつてはいたが地域絶滅という経緯らしい)のでそれが生態にどう影響を与えるかがポイントになる.冒頭ではサイチョウやゾウとの出会いなどの様子も語られている.

  • ダナムバレーではイチジクの大木が実るとオランウータンを含む多くの動物が集まり3〜4日で果実は食べ尽くされてしまうが,インバックキャニオンでは果実はすぐに無くならず,テナガザルは7日間も通って食べ続けた.ダナムバレーの観察によると餌場ではオランウータンの方が優越的で,テナガザルはオランウータンが去ったあとでしか採餌できない.オランウータンのいないインバックキャニオンでナワバリ面積がダナムバレーの半分程度であるのはこれで説明できる.

 

第4章 歌で関わりをもつ

 
第4章と第5章では著者のリサーチ主要テーマであるテナガザルの歌が扱われている.

  • テナガザルの歌にはオスのソロとオスとメスが鳴き交わすデュエットがある.オスのソロはワとオの2つの音から鳴るフレーズが短い休みを挟んで連続する.同じようなフレーズを繰り返しているようだが少しずつ変化させ,そこには規則性もある.夜明けの森に最初は1個体のソロが響き,次々と周辺グループのオスが呼応して合唱になっていく.歌は数分から3時間ほど(平均30分ほど)続く.(音配列の変化のソナグラムや歌った場所の地図上の散布図が示され,ワ音とオ音でモールス信号のようになっているのではないかと真剣に考えたとか,ナワバリ主張音と解されていることが多いが,実際にはナワバリ境界ではあまり歌わないことなどから疑問だなどのコメントがある) 歌う様子からはオス同士のコミュニケーションのように感じられる.
  • オスのソロの鳴き交わしのデータを集めて,岡ノ谷研の吉田さんに分析してもらって共著論文を出した.オスは隣グループのオスと1対1のコミュニケーションをとる.オスのソロは数秒〜10数秒の時間間隔を空けて繰り返されるが,その時間間隔は相手のフレーズが挿入されることを想定してあけられているもの(交互に歌いあうことが構造的に保証される歌)であるようだ.音配列の意味については気になるところだが,解明できていない.
  • デュエットは前奏部をオスとメスが掛けあいながら歌い,次にメスのグレートコールと,オスとメスが同時に歌う短いコーダ,そしてオスとメスが短く掛け合う間奏部へと続く.その後グレートコール,コーダ,間奏部が何度か繰り返され数分〜50分(平均13分)続く.5歳以上の子がいる個体群では母が歌うグレートコールの音配列を子が少しずらして二重唱することもある.デュエットは夜明後食事をしてから開始される.グレートコールには個体差があり,それぞれ独自のパターンで歌う.あるグループのデュエットが終わると隣のグループが歌いだすという形でデュエットの連鎖が起こることがある.歌う様子からは家族で楽しんでいるように見える.
  • 歌以外の音声には,メスの交尾音声,ワシへの警戒音,近距離で何かを伝える「クゥクゥクゥ」というつぶやき,移動中に出す「ピュウ」音などがある.

 

第5章 歌の特徴

 
第5章ではオスのソロのパターンについて様々な観察・実験・解析が行われた結果が記されている.本書で最も興味深い部分だろう.また章末のコラムには岡ノ谷研究室との出会い,論文執筆・受理の経験,研究の楽しさについてのコラムが収録されていて,研究物語の補足として楽しい.

  • オスのソロは状況によって異なっていると感じる観察があった.そこで音声プレイバック実験を行った.あるオスがソロを歌い始めた時に隣グループのオスのソロの録音を再生した.オスは黙ってしまい,30秒後に明らかに違う調子で歌い始めた.またその後もその場所に何度も戻ってきた.
  • 文脈と歌との関係を調べるため.隣グループとの出会いの時の歌,家族内で鳴き交わす歌,夜明け時の歌,7時以降の歌,プレイバック後の5種類の歌について,オオ,オワ,ワオ,ワワの各フレーズの頻度を比較した所,各場面で頻度は異なっていた.またこの4フレーズの出現パターンはそれぞれの単音(ワ.オ)をランダムに歌っているのとは異なるパターンであることもわかった.
  • プレイバック後はオオが少なく,ワワが多い.ホエジカが吠えたあともワワワワと歌うので,ワワが多い歌は驚きや軽快を現しているのかもしれない.出会いや家族の歌はオオが多く,オオには親和的な呼びかけのメッセージがあるのかもしれない.
  • 一斉結実期に歌が変化するかについて調べた*3.歌う時間は増えたが,複雑さには有意な差はなかったという結果だった*4
  • ヒト言語のチョムスキー説に触発されて,テナガザルの歌にマージ(埋め込み構造)があるかを調べた.埋め込み構造と思われるのは4例のみだったが,その前駆的状態と考えられる挿入構造(挿入されるフレーズが1種類のみ)が5%程度見つかった.今後挿入されるフレーズの意味などの研究が進めば岡ノ谷の相互分節化仮説のモデルとなるかもしれない.

 

第6章 子の発達

 
第6章では子供の発達(特に歌の発達)の経緯,親の子育ての様子などの観察がまとめられている.

  • 子は6ヶ月齢までは常に母にくっついている.12ヶ月までは移動の場合常に母にくっついており,それが24〜30月齢で自力で移動するようになる.子が捕食されるリスクは子の24~30月齢期が一番高い.母は子が自立してから交尾妊娠して次の子を7ヶ月後に産む.出産間隔は約3年となる.
  • テナガザルは,モノガミーだが(フクロテナガザルを例外として)父は子育てに参加しないといわれていた.しかしこのヒガシボルネオハイイロテナガザルで29ヶ月齢の子が父に抱かれて移動するのが4回観察された.また41ヶ月齢の子が父に抱かれて寝るのも観察された.母が次の出産を控える2歳半頃からは父も子育てに参加するようだ.
  • メスの子の音声発達:0〜4歳児で母のグレートコールの同調して甲高い声を出すがリズムや音の高さの模倣は起こらない.2〜6歳でグレートコールの出だしをなぞるようになり,6〜10歳でグレートコールの持続時間がだんだん長くなり,10歳で母とほぼ同じ長さになるが,完全には一致しない(音間隔の低下パターンが母と異なり別のグレートコールが完成する.詳細がソナグラムつきで解説されている).メスの歌は遺伝的に決定されているのかもしれないが,5〜10歳である程度発声学習しているのかもしれない.今後観察例を増やして検討する必要がある.
  • オスの子の(ソロの)音声発達:6歳ぐらいで母とグレートコールを同調して歌うとともに父とはソロ(この時点ではかなり単調な歌)を鳴き交わす.7歳ぐらいでグレートコールを歌わなくなり,9歳ぐらいでソロが完成するようだ.ソロは音を複雑に組み合わせるので,音自体は遺伝で決まっていても組み合わせについては学習している可能性がある.
  • 子が20月齢ぐらいになると母は移動の際に子を待たずにジャンプし,子のジャンプを促すようになる.この際に最初は飛びやすいギャップのところのみでそうする.

 

第7章 ヒトと似ている

 
第7章ではテナガザルとヒトとの比較が取り上げられ,特に認知能力周りがテーマになっている.

  • テナガザルは四足では歩きにくいようで,樹上でも地上でも通常は二足歩行する.泳ぎは苦手で,このため川や海を境界に種文化が進んだと考えられている.
  • テナガザルの道具使用の観察報告は極く少ない.だが,私は京都の福知山動物園でシロテナガザルの明確な道具使用を目撃した(カップを使った水飲み).
  • 同動物園のシロテナガザルを用いて道具使用についていくつか実験した.
  • シロテナガザルでは「大カップに小カップを入れる」「積み木を積む」のような定位操作は観察されなかったが,「(それを見ながら)物を置く」という定位操作は観察された(詳細が説明されている).これは野生では観察できていない.
  • シロテナガザルはレーキでリンゴ片を手前に寄せることができる.その際にレーンに落とし穴を作り,落とし穴の手前にリンゴ片があるレーンと奥にリンゴ片があるレーンを選ばせると,(リンゴ片を取れる)リンゴ片が手前にあるレーンを有意に選んだ.これはどちらがリンゴを得られるかについての推論能力があることを示唆している.
  • 2歳9ヶ月のサクラと2歳のサツキに6本のバナナを与えたところ,まず2本ずつもって食べ始めた.サクラはすぐに2本食べ,次の2本も素早く食べ,さらにサツキが持っていたバナナも奪った.次に同じように6本与えたところ,サツキは2本とったあとそのうち1本を後ろの方に置き,1本食べ終わったあと,サクラに見つからないようにサクラの方を見たまま後ずさりして置いておいたバナナを取り,すぐに口に頬張った.見ることと知ることの関係を理解しているようだ.
  • 次に2つのカップのどちらかにレーズンを隠し,実験者がレーズンのある方を指さし,指タップ.視線を送って指示し,それが理解できるかを実験した.サツキ(当時3歳)はすべて理解できた.
  • さらにサツキ(当時4歳8ヶ月)にサリーアン課題の実験をした(やり方の詳細が解説されている.テナガザルから見えないように2つのカップのどちらかにレーズンを入れる,そこでどちらに隠したかを見ていた指示者に紙袋をかぶせて目隠しをし,その後にカップを入れ替えてから目隠しを取り,指タップ指示をする.指示していない方を取れば正解).サツキは16回中13回正解した.チンパンジーでもやってみたがチンパンジーはこの課題を何度やってもできなかった.ヒトの4〜6歳児でも実験した.ヒトの幼児は実験の一回目では42人中4人しか正解できなかった*5が,2回目では38人中22人が正解した.
  • 福知山動物園でのこのシロテナガザルの高度に認知的な行動はいずれも非常に稀で,他の動物園では観察されない.ここのテナガザルは園庭に長い鎖でつながれており,ヒトの子供たちを自由に触れあえるようになっている.ヒトと頻繁にやり取りすることにより,短期間に複雑な課題ができるようになったのかもしれない.そしてそれは複雑な歌を歌い,相手の歌を聴き,時間軸に添って記憶する能力が転用されることで可能になっているのかもしれない.またテナガザルは複雑な社会を作らないが,少人数の家族でも長年暮らすことにより互いの視線理解や意図理解が深まるのかもしれない.

 

第8章 寛容な隣人関係

 
第8章はテナガザルの隣人関係がテーマ.

  • テナガザルの3グループの363日,2292時間の観察で.これらの3グループが隣のグループと50メートル以内に接近したケースは30回(10メートル以内は7回)あったが,物理的な闘争(接触)は一度も観察されなかった.鳴き交わしは12回,一方が歌ったのは10回で,多くの場合は歌が歌われたことになる.同じイチジクの枝に座っていたり,一緒に食べていたこともある.隣グループとの関係は敵対的というより友好的なものだと考えるようになった
  • 一般的な認識では,飼育下で夫婦以外の個体を同居させるとどちらかが死ぬまでの血みどろの戦いが必ず起こってしまうことから,歌は無駄な争いを避けるためのテリトリーソングだと考えられているが,歌のやり取りは単なるテリトリーソングではないのかもしれない.ただ友好的とするならテナガザルの立派な犬歯が何のためにあるのかという謎が生じる.捕食者の争いで犬歯が使用された観察例はない.
  • 隣グループが深く侵入した例を観察できた(363日の観察で深く侵入したケースは2回のみ).その際に侵入グループは終日そのナワバリ内を移動し(イチジクの位置をよく知っており,ナワバリ主グループの歌には反応せず,さらに深く侵入した),ナワバリ主グループはナワバリの縁を動き回った.接近した時も互いに見て見ぬふりですれ違った.翌日,ナワバリ主グループは侵入グループの通過跡を逆向きに辿った.
  • テナガザルの家族内では争いはほとんど生じない.その中で相手を共感的に理解しようとしたり,我慢したりするようになったのだろう.(20年間で夫婦喧嘩(メスによる寝場所の横取り)は1度のみ観察,翌日には仲良く行動していた)
  • そして観察によると家族間(グループ間)でも争いが生じない.タイのシロテナガザルのリサーチによるとオスでは隣接する程血縁度が高いがメスにそういう傾向はない(オスは近くに分散し,メスは広く分散する).このオスの血縁度の高さが争いのなさを説明するのかもしれない.

 
以上が本書の内容になる.まず異色の研究物語としての魅力がある.そしてリサーチの中身も読みごたえがある.歌の詳細は実に面白く,まだ解かれていない機能的な謎も実に興味深い.(1個体とはいえ)チンパンジーにできないサリーアン課題がこなせるというのも驚きだ.チンパンジー,ゴリラ,オランウータンに比べるとあまり世間的な注目は高くないが,テナガザルは実に面白いリサーチ対象なのかもしれない.今後の研究の進展を期待したい.

*1:私は昔ビルーテ・ガルディカスの「オランウータンとともに」を読んだ時,頭上の樹林の何十メートルという高さを飛ぶような速さで渡っていくテナガザルを見て,「ああ,調査対象がオランウータンで良かった」と感じたと書いてあったことを思い出した.著者も最初は同じように感じたが,実は調査拠点とした観光客向けの施設のそばではテナガザルたちが人馴れしていて観察可能だったそうだ.そしてその他の人馴れしていない個体群も何度も見失いながら追跡を繰り返しているうちに次第に著者と助手を受け入れるようになってくれたと書かれている

*2:なぜこんなに早く寝るのかについての理由は不明だそうだ.仮説としては捕食者対策とスコールを避けるためというのがあるそうだ

*3:ボノボの方がチンパンジーより社会的寛容性が高いのは果実密度が高い地域で生じた自己家畜化の結果かもしれないという説や,コシジロキンパラの歌よりもジュウシマツの歌が複雑で,食べ物が豊富で捕食圧から解放される淘汰が複雑になるという説に触発されて調べたそうだ

*4:ここではこの検証のために2000以上あるオスのフレーズパターンを漢字で表し,レーベンシュタイン距離を計算するという話が出てきて楽しい

*5:紙袋をかぶせるという非日常的な手続きで混乱した可能性が示唆されている