War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その28

 
ターチンの協力の科学の学説史.最後にまとめがある.
 

第5章 自己利益の神話:協力の科学 その14

 

  • まとめよう.私たちはヒトの超向社会性の謎から始めた.超向社会性によりヒトは何百万人ものグループを協力に向けて組み合わせることができる.2つのキーになる適応が超向社会性の進化を可能にした.

 
ターチンは最後のまとめでヒトの超向社会性は2つの適応によると結論づけている.しかしターチンの議論の筋に従うなら,これは文化的グループ淘汰産物ということになるから,通常の生物進化的(遺伝子的)な適応ではなく,文化的な「適応」であるということになるはずだ.
 

  • その1つはモラリスト戦略だ.それはグループメンバーが協力しているなら協力し,協力しないものを罰するというものだ.十分なモラリストがいて協力の平衡に傾けられる部族は,それができない部族を打ち負かし,時に全滅させることができるだろう.

 
そしてターチンはモラリスト戦略をまず取り上げる.協力に関する様々な行動傾向が模倣を通じてグループに広がり,たまたま「グループメンバーが協力しているなら協力し,協力しないものを罰する」という行動傾向が流行したグループが生き残ったという説明になるのだろう.ターチンの議論の筋からすると,ここでの議論のポイントは利他罰であり,それは包括適応度理論やマルチレベル淘汰では説明できないが,文化グループ淘汰でなら説明できるとすると主張していることになる.
 

  • 2つ目の適応は協力的グループを明示するためのシンボルを扱う能力だ.それは社会性の進化に置ける対面インタラクションの制限を取り払った.ヒトの社会のスケールはいくつかのステップを踏んで大きくなった.小さな村と一族から部族へ,そして部族連合へ,そして国家へ,帝国へ,文明へと.

 
ターチンが2番目に挙げるのが「シンボルを扱う能力」ということになる.この部分のターチンの議論の趣旨(遺伝子進化なのか文化進化なのか)はややはっきりしないが,やはり近隣グループとの戦争が淘汰圧となってこの能力が進化したと主張していることになる.
 

  • そこでは新しいレベルの社会的複雑性が生じたが,低レベルの組織も残存した.その結果人々は一般的に階層的なネスト性を持つアイデンティティを持つ.彼等は生まれた町,地域,国,時に超国家的組織に愛着と忠誠心を持つ.それぞれの対象への愛着心の強度は様々だ.
  • 現代のドイツ人とフランス人の,地域,国家,超国家組織アイデンティティに対する態度は対照的だ.フランス人は地域への愛着もあるが,何よりまず「フランス人」だ.そしてEUヘの愛着がその次に来る.これに対して戦後のドイツ人のアイデンティティは一義的には地域と超国家のそれであり,国家的アイデンティティは強調されない.このことは多くのリサーチが示している.これにより南ドイツの住人は彼自身のことを「バイエルン人」,あるいは「ヨーロッパ人」と考え,「ドイツ人」というところをスキップしがちだ.その結果ドイツの人々は最も熱狂的なEU推進者になる.
  • この例は国家アイデンティティが時間とともに変化する例でもある.第2次世界大戦まではもちろんドイツ人も熱狂的なナショナリストだった.まさに “Deutschland über alles” (ドイツよ,すべてのものの上にあれ*1)だった.しかし敗戦と反ナチプロパガンダはそのアイデンティティを大きく棄損した.
  • 似たような国家アイデンティティの弱さはエスニックマイノリティ(スペインのカタロニアや英国の北部アイルランド)でも見られる.そのような人々はしばしば熱狂的なヨーロッパ統合の支持者だ.異なるレベルの社会アイデンティティはそれぞれへの忠誠心の強弱を生むのだ.そしてその強弱は歴史とともに移り変わりうる.

 
個人のアイデンティティがシンボルを扱う能力に大きな影響を受け,歴史的に移り変わるという最後の部分はなかなか楽しいところだ.
 
ここで私の感想もまとめておこう.

  • ターチンは本章の前半で利他行動にかかる遺伝子進化の学説史を語っている.しかしそれは所詮付け焼き刃で,様々な点でスロッピーだ.まず利他行動とは何かが曖昧だ(規範に従うことがそうだとしている部分もある).そして間接互恵性の議論を完全に無視している.マルチレベル淘汰を熱烈に推しているようだが,それが血縁淘汰理論(包括適応度理論)と数理的に等価であることも無視している(あるいは全く知識に欠けている).ドーキンスの「利己的な遺伝子」の中核的なメッセージを理解していない(読みもしないで孫引き的な批判をしているようにしか思われない).一言で言ってこのテーマを明確に理解しているとは言い難い.
  • 後半では自説を開陳し,結局利他性は文化的グループ淘汰で説明されるべきだというスタンスをとる.ここでの問題点は様々な条件依存的なモラリスト戦略の進化は間接互恵性や社会淘汰として説明可能かもしれないという代替説明に考慮を払っていないことだ.さらにある個体にとっての利他行動の文化的な進化がどのように進むのかについても全く吟味がない(文化的な進化の場合には(複製子である)ミームの利益と個体の利益が(遺伝子の場合より)大きくズレうるので,わざわざグループを持ち出さなくても個体にとっての利他的な性質が遺伝子の場合よりは容易に進化できると思われ,利他的行動進化の条件をきちんと詰めるべきだと思われるが,そこを意識しているようではない).
  • そして結論としては,戦争による淘汰圧で利他罰を行うモラリスト戦略が文化グループ淘汰として進化すると主張している.確かにグループ間で強い戦争の淘汰圧がある状況では,強い軍隊を持てるような文化が文化的グループ淘汰として進化する可能性はあるだろう.しかしそれがモラリスト戦略だけなのかという点について吟味がない.利他罰などなくとも制度的な罰が構築できれば厳しい規律を持った強い軍隊を作ることができるだろう.
  • そもそもここまでターチンは「アサビーヤ」の重要性を強調してきた.しかしそれは模倣を通じたモラリスト戦略とはかなり趣が異なるのではないか.この部分がどうつながるのかについての何も触れていないのは説明として不十分だという印象を持たざるを得ない*2
  • 最後にターチンはシンボルを扱う能力も戦争の淘汰圧で進化したと主張する.ここは文化進化を主張しているのか遺伝子進化を主張しているのかがはっきりしない.模倣を通じた文化進化でそのような認知能力が生まれたとするのは無理があるだろう.遺伝子進化としてもシンボルを扱う能力には様々なメリットがありそうで,ターチンの態度は代替説明が全く考慮されていない.
  • 私の感想を一言で言うと「戦争多発地帯で強い軍隊を持つ文化が優勢になるということを説明するのにマルチレベル淘汰推しを繰り広げる必要などどこにもなかったのではないか.そして学説史を解説したかったとしても致命的に議論が甘い」というものになる.

*1:ちょっと調べてみたところ,これは戦前のワイマール共和国国歌の第1番の歌詞にある文言で.現在はその3番の歌詞のみが正式なドイツ国歌となっているようだ

*2:アサビーヤのような条件依存的団結心はそもそも相利的状況における協力行動の進化としての内集団びいき心理と抜け駆けを抑制する評判による社会淘汰で説明する方がより説得的だろうというのが私の印象だ