書評 「運動の神話」

 
本書は進化生物学者ダニエル・リーバーマンによる運動(本書では特に意識的に身体活動を目的にして行うエクササイズを指す)についての本だ.リーバーマンは前著「人体600万年史」で進化環境における人体の適応史と現代環境とのミスマッチを概説してくれたが,本書では運動に焦点を絞り,なぜ,どのように運動は健康に良いのか,なぜそれがわかっていても実践するのが難しいのか,そしてどうすればいいのかについて解説してくれている.
全体としては,イントロダクションの第1章をおいた後での4部構成になっており,運動しない状態,スピードとパワーを必要とする運動,持久力を必要とする運動,現代における運動がそれぞれ扱われている.各章においては(巷でよく聞く)運動についての様々な「神話」をとりあげ,それがいかに間違いであるかを説明するというスタイルで解説が進む.原題は「Exercised: Why Something We Never Evolved to Do Is Healthy and Rewarding」
 
プロローグでは著者が人体の仕組みと運動についての実験と研究を進めてきて,ヒトは運動するように進化してきたわけではないのに現代においてはその認識に欠けているために多くの間違った神話を生んでいることに気づいたことが書かれている.そして本書は進化と人類学の視点から運動の生物学を考察していくものになる.
 

第1章 人は休むようにできているのか,それとも走るようにできているのか

 
最初の神話は「私たちは運動するように進化してきた」というものになる.冒頭ではハワイのアイアンマン世界選手権レースとメキシコのタラウマラ族のララヒッパリと呼ばれる長距離を競走する祭事*1の様子がそれぞれ紹介されて比較されている.アイアンマンレースでは参加者は極度の熱意を持ち巨額の資金をつぎ込んでトレーニングを行い出場するが,ララヒッパリの参加者は特別なトレーニングなどせず,普段は不要な運動を避けている(しかし生活のためやむなくかなりの運動量を持つ活動を毎日行っている).そして著者はヒトにとっての「正常」とは何かを問いかける.

  • 「正常」を知るには進化環境に近い狩猟採集民のリサーチが参考になる.彼等は必要なければ座り,ぶらぶらして運動を避けているが,食料調達のために毎日何キロも歩く.PAL(身体活動レベル*2)でみると,狩猟採集民は1.8〜1.9程度(座りっぱなしのサラリーマンで1.4〜1.6,建設作業員で1.7〜2.0程度)だ.
  • 自発的で計画的な身体活動という意味の運動は進化的にも文化的にも新しい現象なのだ.それは(進化史的には十分新しい)ギリシア・ローマ時代にみられ,いったん中世に途絶えた後ルネサンスで復興するが,あくまで特権階級の習慣だった.19世紀以降一般大衆を含めた身体鍛練の文化が急速に広まるが,その背景の1つは富国強兵とナショナリズムであり,もう1つは運動不足による健康への悪影響だった.そして運動は商品化,商業化され,さらに医療化された.しかしそれは運動を「楽しいもの」にしてくれるわけではないのだ.

 

第1部 身体的に不活発な状態

 

第2章 身体的に不活発な状態:怠けることの大切さ

 
第2章はなぜ運動は楽しくないのかを扱う.それはヒトは不要なエネルギー消費をできるだけ避けるように進化してきたからなのだ.ここでの神話は「怠惰に過ごすのは不自然だ」というものだ.

  • ゴリラやチンパンジーは1日のごくわずかな時間を採餌に当て,それ以外のほとんどは不活発(休息,消化,毛繕い,昼寝)に過ごす.狩猟採集民はさほど過酷な労働をしているわけではないが,数時間を狩猟採集に当てて長距離を歩いており,ゴリラやチンパンジーに比べてワーカホリック的だ.
  • ヒトの安静時代謝量(RMR*3)は1700キロカロリー程度もある.身体は安静にしていても動的なプロセスに多くのエネルギーを投資している.そしてこれは飢餓状態になると40%も下がる*4.つまり限られたエネルギーをどう使うかというのは本質的にトレードオフの関係にあるということだ.このトレードオフは休息時と運動時の間にも生じ,その配分戦略は自然淘汰による進化で形作られている.
  • 自然淘汰は,エネルギーが限られている場合,緊急に必要のない身体活動より(その活動が長期的に健康に資するものであっても)直接的に繁殖成功最大化に資する機能にエネルギーを振り向けるだろう.つまり私たちは極力身体を動かさないように進化しているのだ.
  • ヒトは(脳が大きいことなどにより)他の類人猿や哺乳類よりもエネルギーコストの高い「低燃費*5」な生物であり,狩猟採集という(他の類人猿に比べ)活発に身体を動かす生活様式をとるため,より強く不要な身体活動を避けるように進化しているだろう.

 

第3章 座ること:それは新たな喫煙か?

 
第3章の神話は「座ることは本質的に不健康である」というものになる.日本では健康の秘訣としてそれほど強調されているわけではないように思うが,アメリカではこれはかなりいわれていることのようだ.冒頭ではグリーンランドのイヌぞりツアーで何日もソリに座っているのが大変な苦痛であったことが語られている.

  • 座っている方が立っているより疲れにくくより安定する.座っている方がカロリーを節約できるので座ること(特に地面や床に様々な姿勢でしゃがむこと)はヒトの普遍的な習慣になっている.しかし椅子を使って座り,しゃがむことを避けるのは欧米で近代以降に広がった習慣に過ぎない.背もたれのある椅子に座っていると背筋が衰え,しゃがんだり背もたれのない椅子に座ることが苦痛になり,より背もたれのある椅子で座るようになる.
  • アメリカ人は1日9〜13時間(目覚めている時間の55〜75%)ほど座っている.狩猟採集民でも1日5〜10時間ほどは座っている.そしてアメリカ人であっても野生のチンパンジー(目覚めている時間の85%以上座っている)に比べれば非常に活動的だ.
  • ではなぜ座ることが不健康とされているのか.それは運動不足につながること,(長時間座り続けると)血液中の糖や脂肪が増えること,そして最も重大な問題として(同じく長時間座り続けると)慢性的な炎症が身体を攻撃しかねないことだ.
  • 最近のリサーチでは,持続的でほとんど検出できないレベルの全身に生じる炎症が,心臓病,2型糖尿病,アルツハイマーなどの原因であることが強く示唆されている.このリストは増え続けており,大腸がん,エリテマトーデス,多発性硬化症,関節炎などにも慢性炎症の痕跡が見つかっている.
  • なぜ長時間座ると慢性炎症を引き起こすのか.まず肥満になると内臓脂肪が増え,それが炎症の引き金になる(詳しい説明がある).次に長時間座り続けると血液中の脂肪や糖を取り込む速度が遅くなる.この血中濃度が高いことが慢性炎症の引き金になる.また(仕事などで)座り続けることを強いられるために心理的なストレスがかかった場合も慢性炎症が生じやすくなる.
  • 最後に(おそらくこれが最も重要だが)筋肉の活動が停止したままになることが慢性炎症の引き金になる.中強度から高強度の運動を行う時に筋肉は損傷の予防・修復のためにまず免疫を強化して炎症を起こし,その後炎症のない状態に戻すために強力な抗炎症反応を起こす.座り続けるとこの抗炎症反応が起こらないために背後でくすぶる炎症を消すことができなくなる.つまり座ること自体より,身体を十分動かさないことが原因だということになる.
  • 長時間座っている人は炎症関連疾患のリスクが高くなる.しかしこのリスクは短い中断を頻繁に入れることにより軽減させることができる.30分に1回座りっぱなしを中断したり,座っている間も落ち着きなく身体を動かすとよいようだ.
  • 「だらしなく椅子に座ってはいけない」というのも神話である可能性が高い.腰のカーブや猫背と腰痛を関連付ける一貫した証拠はない.腰痛を避ける最良の予測指標は疲れにくい筋肉を備えた丈夫な腰を持っていることだ(そういう腰を持っていると自然に姿勢が良くなるという関連はある).

 

第4章 睡眠:なぜストレスは休息を妨げるのか

 
第4章は睡眠の謎を扱う.ここでの神話は「毎晩8時間は眠らなければならない」というものだ.

  • ヒトができるだけ休むように進化してきたのなら,なぜこれほど多くの人が睡眠を削っているのだろうか.睡眠は欠かすことのできない休息であると同時に,貴重な時間という資源をめぐるトレードオフの対象になっている.
  • 睡眠は単に休息(エネルギーの節約と組織回復)というだけではなく,おそらく認知機能に関する重要な機能を持つ.睡眠中でなければ記憶情報の分類・整理・分析ができないのだろう.つまり時間(と捕食リスクの増大)というコストと脳機能の向上というメリットのトレードオフの結果だと考えられる.
  • しばしば「1日8時間の睡眠」ということが言われるが,この8時間の根拠ははっきりしない.大部分の哺乳類は1日に8〜12時間眠り,多くの霊長類は1日9〜13時間,チンパンジーは11〜12時間眠る.ヒトの大規模リサーチではアメリカ,ドイツ,イタリア,オーストラリアの成人の睡眠時間は夏期6時間半,冬期に7時間〜7時間半だった.欧米人の1日平均睡眠時間はおおむね7時間ということになる.
  • 一方狩猟採集民でリサーチすると彼等の睡眠時間は欧米人よりも短かった(夏期5.7〜6.5時間,冬期6.6〜7.1時間).
  • さらに2002年のクリプキたちのリサーチで,1日8時間の睡眠をとるアメリカ人の死亡率は6.5〜7.5時間の睡眠をとるアメリカ人より12%も高かったことがわかった.8時間の睡眠をとる人が睡眠時間を削れば死亡率を下げられるかどうかはわからないが,少なくとも「1日8時間」は神話であったのだ.
  • 進化的に考えると,ヒトはチンパンジーに比べて睡眠時間が短くなるように適応したのだろう.樹上から降り,より捕食圧が高いサバンナで寝るようになって,常に集団何の誰かが覚醒して見張れるように最小限の浅い睡眠を何回かに分けてとるようになったのだと思われる(また社交時間が増えるというメリットもあっただろう).
  • 睡眠に対する考え方は文化により多様だ.狩猟採集民は概してかなりにぎやかな環境で集団で寝る.赤ん坊は母親と添い寝をする.静かな暗い場所で寝たり.赤ん坊を別室で寝かせたりするのは文化的には新しい現象だ.
  • なぜ多くの人が睡眠障害に悩まされるのか.これには覚醒と睡眠を制御するプロセスを考える必要がある.まず視床下部に概日時計がある.第2のシステムは覚醒時間を砂時計のようにカウントして睡眠圧を徐々に高める(これはノンレム睡眠中にリセットされる).通常はこの2プロセスにより睡眠と覚醒のサイクルが維持される.重大事態が生じると闘争逃走反応が生じて交感神経が活性化され,睡眠が阻害される.事態が収まれば阻害は解け,睡眠不足が累積したことにより次の睡眠が深くなる.
  • 激しい運動は交感神経を活性化させ,すぐには寝つけなくなる.しかし運動がある程度の時間が経つと,身体を刺激してより深い「休息と消化の反応(副交感神経の活性化)」を生じさせ夜の寝つきを良くする.運動は就寝を助ける.そして規則的な運動はさらに効果があることがわかっている.睡眠と身体活動には密接な関係がある.身体活動をすればする程よく眠れるようになるのだ.
  • 不眠症は長期にわたることが多く,悪循環に陥りやすい.慢性的なストレスなどによりコルチゾールのレベルが上昇して寝つけなくなる.慢性の睡眠不足は慢性炎症を促進するために様々な疾病を促進してしまう.患者はしばしば様々な睡眠産業(高機能寝具,ハイテクマットレス,遮音装置など)に大金を投じることになる.睡眠薬は特に危険だ.死亡率を上昇させるリスクがあり,効果はほとんどプラセボに過ぎないと報告されている.

 

  • 睡眠と座ることは(しばしば前者は善で後者は悪とされるが)どちらも全く正常な休息行動で,文化規範に強く影響を受け,複雑な代償と効果を伴う多様性のある行動だ.

 

第2部 スピード,ストレンス,そしてパワー

 

第5章 スピード:ウサギでもなくカメでもなく

 
第2部では様々なタイプの運動を扱う.冒頭第5章では全力疾走のようなスピードを重視した運動を扱う.ここでの神話は「正常な人間は持久力のためにスピードを犠牲にする」だ.

  • ヒトの全力疾走はサバンナの動物の中で遅い.ウサイン・ボルトでもシマウマ,キリン,ヌー,ハイエナ,そして野生のヤギにも勝てない.ボルトはリスにはかろうじて勝てるが,大部分のヒトはリスより遅い.
  • この原因はヒトが直立し二足歩行をするから(パワーの元になる脚が少ない)であり,ダチョウのようにスピードのための適応形質(大きく3つの可動部分からなり,先端に行くほど長く細い脚,地面を捉えるスパイクなど)を進化させていないからだ.
  • ここでスピードと持久力はトレードオフ形質なのかを考えよう.
  • 持久力はATPを「充電」させるための効率で決まる.このプロセスにはクレアチンリン酸を用いる数秒程度のもの,解糖による30秒程度のもの,そして好気性代謝によるものがあり,持久力は最後の好気性代謝の効率で決まる.好気性代謝で得られるエネルギーは最大酸素摂取量(VO2Max)で計測できるが,これはヒトによって大きく異なる.
  • スピードは筋力とスキルからもたらされる.筋肉には遅筋(赤筋)と速筋(この中に白筋とピンク筋がある)がある.遅筋は強力なあるいは急速な収縮はしないが有酸素的にエネルギーを使い疲れにくい.速筋は糖を燃焼させて強力かつ急速に力を出すがすぐに疲れてしまう.この構成比は人体の筋肉の場所により異なり(三頭筋なら速筋が85%,ヒラメ筋なら15%),ヒトによっても異なっている.ボルトのようなエリートスプリンターは速筋が圧倒的に多く,おそらく持久力があまりない.
  • スピードと持久力の関係には遺伝的要因,環境的要因が複雑に絡まっている.行動遺伝学的にはスピードの遺伝率は30〜90%,持久力の遺伝率は40〜70%と推定されている(推定率の幅の広さに現実の複雑な要因の絡まりあいが現れている).遺伝子研究では強い影響をもたらす単一の遺伝子は見つかっていない(一時ACTN3が速筋の割合に強い影響を与えると騒がれたが,多くのデータが集まると極く小さい影響しかないことがわかった).遺伝的な部分だけでも多くの遺伝子が複雑に影響しているのだ.
  • スピードと持久力に強いトレードオフがあるという私たちの認識は,おそらくトップのエリートスポーツマンに注目し過ぎたために歪んでいる.マラソン選手たちはむしろスピードの持久力が両立できることを示している.彼等は42キロを1キロ3分以内で走りぬく.私たちのほとんどはその速さで1キロを走ることはできないだろう.プロのサッカー選手は1試合において平均して22分の爆発的な高速スプリントと68分のゆっくりとしたランニングとウォーキングをこなしている.狩猟採集民は持久力に優れているが最高速度は時速19~27キロほどあり,かなり速い.確かにスピードと持久力の間にトレードオフがないわけではないがそれは総合的な運動能力における個人差に隠れてしまうことが多いのだ.
  • そしてトレーニングでスピードと持久力の両方を鍛えることができる.激しい短時間の無酸素運動と有酸素運動を交互に繰り返す高強度インターバルトレーニング(HIIT)を行うと持久力とスピードの両方が得られ,健康的になれることがわかっている(ただしその効果を維持するには常に努力することが必要になる).私たちは石器時代の環境で持久力とスピードの両方を得られるような「何でも屋」に進化したのだ.

 

第6章 ストレンス:ムキムキからガリガリまで

 
第6章の話題はウェイトトレーニング.ここでの神話は「人類は極めて強靭になるように進化してきた」というものになる.

  • ウェイトトレーニングが商業化するとともに,人類の進化に関する神話が利用されるようになった.それは「パレオダイエット」や「プライマルフィットネス」を生み出した.石器時代の食べ物をとり,走ったり跳んだり丸太を持ち上げたりしてムキムキに身体を鍛えることを最善と主張する.この流れで最も成功しているのは「クロスフィット」であり,強度の有酸素運動と強度の抵抗運動を交互に行い,強さを目指す.
  • しかし私たちの祖先が進化環境でウェイトリフティングのような運動をすることはほとんどなかっただろう.狩猟採集民は痩せており,適度の体力はあるが屈強ではない.腕立て伏せや懸垂の回数は欧米人と変わらない.ただし(生涯を通して活発に身体活動を行っているので)年齢とともに体力が衰える率は低い.
  • 狩猟採集生活においてムキムキであることは有利ではないだろう,1つはストレンス(どれだけの力が出せるか)とパワー(力をどれだけ素早く出せるか)にはトレードオフがあり,狩猟採集生活においてはパワーの方が重要だからであり,もう1つはムキムキの身体はカロリーコストが高いからだ.
  • ゴリラやチンパンジーのストレンスについては誇張された見解が流布している.しばしばヒトの何倍もの力を出せるといわれるが,実際のリサーチではチンパンジーの生み出せる力はヒトの30%増し程度であることがわかっている.(ネアンデルタール人についても同じような誇張された神話がある)
  • 筋肉はウェイトトレーニングにより(微小損傷が生じ,それが刺激になって成長が促されることで)増やすことができる.ストレンスに対して最も効果的なのはエキセントリック(伸縮性)収縮やアイソメトリック(等縮性)収縮を要するウェイトを使ったワークアウトをゆっくり数回繰り返すことであり,パワーと持久力に対してはより軽いウェイトを使ってコンセントリック(短縮性)収縮を行う15〜20回の急速なワークアウトを複数セット行うのが効果的だ.そして週に数回のウェイトリフティングは健康に良い効果がある.それはサルコペニア(加齢性筋肉減弱症)が高齢者の障害や病気の大きな原因となっているからだ.
  • ではどの程度のレジスタンス・トレーニングが必要なのか.アメリカスポーツ医学会専門家パネルによれば週に2回,8〜10種類の抵抗運動を10〜12回繰り返して行うのが最適とされている.サルコペニアを防ぐにはムキムキになる必要はない.適度の筋肉を付けるだけで十分なのだ.

 

第7章 戦いとスポーツ:牙からサッカーへ

 
第7章のテーマはスポーツとヒトの身体能力の進化だ.ここでの神話は「スポーツすなわち運動」というものになる.

  • ヒヒやチンパンジーでは群れ内の順位やリソースをめぐる闘争が頻繁に観察される.ヒトはずっと穏やかで大人もよく遊び,喧嘩の頻度ははるかに少ない.これはヒトは腕力を捨て,頭脳を増大させ,協力と道具により創造的に問題を解決するように進化したからだというのがよくある説明になる.
  • しかしこれは部分的にしか真実ではない.ヒトは戦うことを完全にやめたわけではないし,狩りを行う.そのような場合に命にかかわる怪我をするかどうかは重要だ.スピードと強さは引き続き淘汰圧であり続けただろう.
  • ではヒトの協力して争いを回避する能力と攻撃する能力をどう考えればいいのか.リチャード・ランガムはヒトは極めて低い反応的攻撃性とより高い能動的攻撃性を持つようになったという議論を行った.ヒトは計画的かつ意図的な戦いの形を新たな高みにヘと導いたのだ.
  • ではそれはいつごろ生じたのか.(ここでダーウィンの考え方(類人猿との分岐後,協調性,知性,攻撃性の低下が一体となって進化した),レイモンド・ダートのキラーエイプ仮説,オーウェン・ラブジョイの食物供給仮説などが解説されている)
  • 性的二型はエレクトゥスの段階でかなり減少している.ここで狩猟と採集により男女間の分業,男性同士,女性同士の協力が促進されたのだろう.その後サピエンスにおいて女性がより反応攻撃性の少ない男性を選択し,自己家畜化が生じ,より穏やかになったと思われる.
  • ではスピードと強さへの淘汰圧と反応的攻撃性の抑制の関係はどうなっているのか.ここでヒトの戦いは直立し道具(武器)を用いるという点で独特だ.ヒトはオーバースローで正確にものを投げられるような形質を進化させている.投擲武器(特に投げ槍と弓矢)と技術は反応的攻撃の費用対効果に革命をもたらし,自己家畜化を促進させただろう.
  • そして反応的攻撃の抑制はスポーツを生み出したと私は考えている.あらゆる文化においてスポーツは戦闘や狩猟に役立つスキルを重視する.しかしスポーツは重要な点で遊びと異なる.それは組織化構造化され,確立されたルールと勝利の基準を持つ,つまり反応的攻撃性の制御という特性を持つということだ.それは自己家畜化の後に生まれたのだろう.
  • スポーツは運動不足の解消に役立つが,そうなったのは貴族やホワイトカラーが仕事で身体を動かさなくなってからだ.

 

第3部 持久力

 

第8章 ウォーキング:いつものこと(All in a Day’s Walk*6

 
第8章からは持久力が扱われる.最初のテーマはウォーキング.神話は「ウォーキングで体重は減らない」というものになる.冒頭ではハッザ族の狩りに同行した話があって面白い.ここではよく聞く「一日1万歩歩け」というアドバイスや一部の専門家のいう「長時間歩いても消費カロリーはわずかで空腹を呼び起こすだけで減量は不可能だ」をどう考えればいいのかが説かれる.

  • 平均的な狩猟採集民は生き延びるために一日男性で約14キロ,女性で約9.5キロ歩く(スマホからのデータでは現代人のそれは平均3キロに満たない).ヒトは耐久ウォーカーなのだ.
  • 歩く際には脚は逆さ振り子のように動き,立脚期の前半で位置エネルギーを蓄え,後半でその一部を運動エネルギーとして使う.難しいのは転ばないようにすることで,自然淘汰は独創的ないくつもの仕組み(骨の構造,筋肉の付き方,湾曲した腰部など)を進化させている.
  • 人類が(四足歩行ではなく)直立二足歩行となったのは,おそらく木に登る能力を損なわずに効率的に歩く方向に淘汰がかかったためだろう.類人猿のナックル歩行は非常に非効率だった.二足歩行に関する進化仮説は多いが効率が最大の鍵だったと考えられる(ナックル歩行でも直立して物を運ぶことはできる.石器が生まれたり,立った姿勢で涼しい環境に移ったのは直立歩行が進化した後だ).その後人類は水や食料や乳児を運ぶために様々な道具や技術を生み出した.主に運搬を担当した女性の腰部にはそのための適応形質(湾曲を男性のような2つではなく3つの椎骨で緩やかに形成)がみられる.

 

  • 「ウォーキングなどの運動で体重が減るか」は運動科学者の間の激烈な論争テーマだ.単純に考えればウォーキングによりカロリーが消費される(1日1万歩で250キロカロリー,1ヶ月7500キロカロリー,脂肪換算すると約2.1キロ)のでその分体重が減るはずだ.しかし山のような研究によれば過体重や肥満のヒトに標準的な運動を数ヶ月間課しても1〜4キロしか体重が減らないことが示されている.
  • こうなる要因の1つは「代償機構」,特に疲労と空腹の影響だ.これは進化的には理にかなっている.多くの被験者はより多く食べたに違いない.アメリカのダイエッターが目指すような25キロ程度の減量を望むのなら食餌療法も取り入れた方がよいのは間違いない.問題は課される運動量が低いというところにもある.より高強度(長時間)で進化的に正常レベルの運動を課した研究ではより効果的に減量できる可能性が示唆されている.
  • 別の要因はリサーチ期間にある.数ヶ月以上のリサーチは稀だ.ウォーキングは非常にエネルギー効率が高いため少量の運動が積み重なって大幅な体重減少を引き起こすには数ヶ月から数年かかるが,それは不可能ではない.
  • 最後の重要な要因は「代謝性代償」だ.リサーチによると非常に活動的なハッザ族の狩猟採集民の一日あたりの総カロリー消費量は欧米の同体重の座りがちな人のそれをわずかに上回る程度であることが示されている.これを説明するために「人々の総エネルギー予算は制約されている」という仮説が提唱されている.この仮説によると歩いた分だけ安静時の代謝エネルギーが節約されることになる.この仮説はまだ検証中だが,ミネソタ飢餓実験のように大幅に体重を減らした場合に安静時代謝率が急落することは確認されている.
  • ウォーキングを含めた運動が減量につながることは多くの研究が証明している.しかしそうするためには1日30分をはるかに超えるウォーキングを何ヶ月も続ける必要がある.また代謝性代償で運動量の効果は一部失われる可能性がある.そして減量は食事制限で行った方が効果が早く出るし運動より簡単なことが多い.最後に減らした体重を維持するにはほぼ必ず運動が必要になることがわかっている.
  • 「1日1万歩」は日本の時計会社が「万歩計」を開発したことがきっかけになっている.そしてその後偶然にも1万歩が妥当な目標であることが判明したのだ.

 

第9章 ランニングとダンス:片方の脚からもう片方の脚へのジャンプ

 
第9章のテーマはランニング.神話は「ランニングは膝に悪い」になる.冒頭では著者の母親の逸話が語られていて味わい深い.彼女は女性差別と闘うコネチカット大学の教員で,室内競技場を女性に開放する運動をきっかけにランニングにはまり,それは後に彼女の人生の大きな楽しみになったそうだ.

  • ランニングやダンスなどの持久系の身体活動の熱狂的なファンは多い.なぜこれほど人気があるのか.私たちは何時間もランニングやダンスをするように進化したのだろうか.
  • 持久走ならヒトはウマに勝つことができる(著者自身が参加した40人とランナーと53頭の馬の40キロ競走の様子が語られている.著者は4時間20分で走り抜き,53頭の馬のうち40頭に勝ったそうだ).
  • ランニング時には立脚期の前半で重心が下がり,腱や筋肉に弾性エネルギーが蓄えられ,後半にそれを使って身体を前に押す.これは四足動物のトロットに相当する(ヒトにはギャロップはできない).
  • ヒトは長距離を比較的速く走れることに加え,長距離を習慣的に走るという点で独特だ.ほとんどの動物は自発的に100メートル以上走ることはない(オオカミやハイエナは例外になる).ヒトの脚は長く,弾性のある腱が備わっており,さらに大量の汗をかける.心室も大きくて弾性に富む.走っている時に身体を安定させる仕組み(大臀筋の肥大など)や視線を安定させる仕組み(項靭帯)もある.これらは持久走ヘの適応だ.
  • そしてヒトは肉を手に入れるために持久走をしていたと考えられる.最初は腐肉あさりで,ハゲワシを見つけてハイエナより先に腐肉にたどり着くのに使っただろう.そして獲物を追跡・追走する持久狩猟も行うようになっただろう.(現代の狩猟採集民の持久狩猟の様子が語られている)
  • ヒトが長距離走をするように進化したのだとしたら,なぜこれほど多くのランナーが怪我(膝の故障,脛骨過労性骨膜炎,脛骨や趾骨の疲労骨折,足底筋膜炎,アキレス腱炎,腰痛など)をするのだろうか.
  • 現代環境とのミスマッチは考えにくい.走りすぎによる磨耗が膝や腰の軟骨を損傷するということはよくいわれるが,データはそれを否定している.
  • 危険性はある意味誇張されているのだ.怪我の確率が高いのは走行距離を急速に伸ばした初心者と,激しい競争をする俊足のランナーであり,普通のランナーははるかに怪我をしにくい.
  • 怪我をしない方法の1つはランニングが要求する身体レベルに自分の身体を順応させることだ.ただし骨や靭帯や腱などの結合組織は筋肉に比べて順応するのに時間がかかることに注意が必要だ.筋力も重要だ.体幹や姿勢を安定させるための筋力が弱いと怪我をしやすい.
  • もう1つの方法は怪我をしにくい走り方をすることだ.ポイントはオーバーストライドしない,170〜180ステップ/分,上体を傾け過ぎない,足を水平に着地するの4つだ.私は裸足の走法を研究し,踵で着地しないで母趾球で着地することにより衝撃を回避できることを示した.靴を履かない方がいいというわけではないが,裸足で走ると正しいフォームに近づきやすい.
  • 私たちの祖先は長距離走のトレーニングなどはしなかった.おそらく集団で長時間行うダンスがその役割を果たしていたのだろう.

 

第10章 エンデュランスとエイジング:「アクティブな祖父母仮説」と「コストのかかる修復仮説」

 
第10章のテーマは加齢に対する運動の影響だ.神話は「年をとって体を動かさなくなるのは正常なこと」だ.

  • 老化を遅らせるためのアドバイスは多いが,賢明なものには常に運動が含まれている.13000人を追跡調査した長期研究により運動をすることによりより長く健康な人生を送れることは明らかだ.では運動はどのように,そしてなぜ身体の老化に影響を与えるのだろうか.
  • ヒトは孫の世話をするという意味で独特だ.狩猟採集民は子供を産み終えた後も数十年にわたりアクティブに活動をし,子供や孫や甥姪にカロリーを供給する.これによりヒトは繁殖年齢を過ぎてもメダワーのいう「自然淘汰の影」に入ることを先送りできる.
  • ヒトが寛大で役に立つ祖父母になるために長生きするように淘汰されてきたようだ.この考え方の1つのバージョンは「おばあさん仮説」と呼ばれる.私はそこから導かれる副次的な仮説として「アクティブな祖父母仮説」を提唱する.この仮説はヒトの長寿は単に淘汰を受けただけでなく,老齢になっても適度に働き,できるだけ多くの子供や孫や若い親族に貢献することにより可能になったと考える.
  • ハッザ族のリサーチによれば祖母たちは1日5〜6時間(これは母親たちの4時間より多い)採集を行っており,祖父たちは若い男性と同じぐらい遠くに出かけて狩猟を行ったり蜂蜜を採集したりしている.彼等は現代の欧米人よりも高いレベルの体力と健康度を獲得し,その低下速度も緩やかで,高齢になっても活発に活動し続ける.
  • メカニズム的には老化はフリーラジカルによる酸化が細胞,組織,臓器に損傷を与えるために生じる現象だ.これを促進するのはミトコンドリア機能障害と褐変(糖とタンパク質の反応)だ.また慢性炎症やエピジェネティックな修飾も関連する.そしてこれらの破壊的なプロセスの大部分は予防したり遅らせることが可能だ.ではなぜそれらのアンチエイジングシステムは有能な祖父母を健康にするために何もしなくても働き続けるようになっていないのか.それは年齢を重ねるごとに自然淘汰の影響が弱まっていくからだと考えられる.
  • なぜ運動にアンチエイジング効果があるのか.よくある説明は「身体活動が老化を促進する悪材料を防いだり改善したりする」というものだが,それは「なぜ」を説明していない.私はこれに対して「コストのかかる修復仮説」を提示する.
  • 運動をすると身体に損傷が生じ,免疫は炎症反応を起こして修復を図る.この際に体内で抗酸化物質が生成され,広範囲な抗炎症反応を起こすようになるため,患部の筋肉だけでなく他の部位でも炎症が抑えられるようになる(単に抗酸化物質を服用するだけではうまくいかないし,運動と組み合わせるとかえって害になる場合もあることがリサーチからわかっている).しかしこの維持・修復システムにはコストがかかるために身体活動をした時だけスイッチがオンになるように進化した.そして現代社会では運動をしないとスイッチがオンにならないのだ.
  • 公衆衛生と医学の進歩は私たちを,高齢者の非感染性の慢性疾患の有病率は高いが,農耕民よりはるかに長く,狩猟採集民より少しだけ長く生きられるようにした.この慢性疾患の多くは加齢の必然的結果ではなくミスマッチによって生じている.身体活動は高齢期に健康でいられるチャンスを高める一連のメカニズムを発動させるのだ.(ランナーと非ランナーの有病率,死亡率の推移を調べた研究が紹介されている)

 

第4部 現代社会における運動

 

第11章 動くべきか動かぬべきか:どうやって運動させるか

 
第4部は,では現代社会にいきる我々はどうすればいいのかを扱う.最初の第11章ではどのように動機付けを行えばいいのかが扱われる.ここでの神話は「『とにかくやれ』と言えばいい」になる.

  • ヒトの身体は生涯にわたって動かさないと最適に機能しないように進化してきた一方で,ヒトの心は必要に迫られない限り(あるいは喜びなどの見返りがない限り)身体を動かそうとはしないように進化してきた.アドバイスを受けたりせかされたりしても運動を避けようとする人は多い.
  • ビョルン・ボルグ社*7では「スポーツアワー」と称した全社員が運動する時間を設けている.これは社員を健康にしたいという趣旨で行われ,参加は義務づけられている*8
  • 強制は1つの方法だが,リバタリアンである私の信念にはそぐわない*9.ナッジ的な介入手段は多く試されてきたが,少数の例外を除いてうまくいかない.背景には人間性の複雑さと多様性があるのだろう.
  • 運動を効果的に推進したいなら,「健康のために自発的に身体活動を行うことは奇妙で現代的な行動である」という事実を正面から受け止めるべきだろう.
  • 1つの良い方法は,運動になんらかの報酬を与える仕組みを考えることだ.運動という困難なことを一緒に行うグループに入ることは,進化的に見て心理的な報酬を得られる可能性を増やすだろう.ドーパミンやセロトニンなどの効果で運動自体が楽しくなるという現象はあるが,かなり激しい運動をしてはじめて感じられるもの*10で,運動をしない人がまず運動をしようとする動機付けには結びつかない(神経伝達物質ごとの特質と問題点が整理されている).
  • 何より運動は必然的に楽しいというふりをするのはやめよう.自分にとって楽しいと思えるタイプの運動から始め,運動している間楽しいと思えることで気を紛らわす手段を見つけるのがよいだろう.自分でコミットメント戦略を用いる手(運動しないと自分が嫌悪する団体に一定金額が寄付されてしまうなど)もある.
  • 強制は良くないと思っているが,子供に対しては例外だと考えている.体育の授業は重要だ.
  • いくつかのある程度有効なナッジの手法がある(整理されている).共通する重要な要素は社会的コミットメントになる.

 

第12章 どれぐらいの量? どんな種類?

 
第12章では「動機」に引き続いて,「では何をどれだけやればいいのか」が扱われる.ここでの神話は「運動には最適な量と種類がある」だ.

  • 「最良の」あるいは「最適な」量やタイプの運動というものがあるはずはない.「最良」「最適」の基準も,運動する当人の状態も様々だからだ.とはいえ運動は身体能力を上げ,老化を遅らせる.医療として運動の処方を考えてみた場合にはどれくらいの量と種類が適切なのだろうか.
  • 一般的に広く普及し,世界の保険機関のほとんどが提唱しているのは「週に少なくとも150分程度の中強度,または75分程度の高強度の有酸素運動を行い,それに加えて2回のウェイトトレーニングを行う」というものだ.
  • これの元になったのはパフェンバーガーたちによるハーヴァード大学同窓生の死亡リスクに対する運動の用量反応効果を長期的に調べたリサーチだ.週に2000キロカロリー以上の運動をしていると死亡リスクが中年期に20%以上低く,70歳以上で半減しているのだ(グラフをふくめて詳しく解説されている).運動量が多いほど長生きできる可能性が高くなり,その影響は年齢が上がるほど大きくなる.また運動を始めるのが遅過ぎることはないことも明らかになった.(同様な結果を示す最新のリサーチも紹介されている)
  • 様々なリサーチをみると,身体活動と死亡率の用量反応関数が描くパターンは共通している.最大の効果が得られるのは週当たり90分程度のところ(死亡率の低下が20%)であり,その後は単位運動量当たりの効果は下がっていく.週90分の運動からさらに死亡率を20%下げるには週7時間の運動が必要になる.週150分というのは明確で達成可能性のある良い処方だが,最適な運動量というものはないのだ.
  • では運動し過ぎるということはあるのか.激しい運動をやり過ぎるとかえって身体に悪そうで,反応関数がU字型をしているということはいかにもありそうだが,実はそれを支持する証拠はない.極端な運動が害を及ぼす可能性はあるが,それほどのレベルの運動をしている人はほとんどいないので研究がむずかしいのだろう.(極端な運動量が免疫*11や心臓に与える影響*12についても詳しく考察されている)
  • 運動し過ぎることがあるかと問題の答えは以下のようにまとめられる.まず極端なレベルの運動,重篤な感染症にかかっている場合,怪我の回復途中などはイエスだ.大きな力が繰り返しかかる状態(オリンピックレベルのウエイトリフティング,テニスを一日5セットなど)に身体が適応してない状態だと筋骨格系の損傷リスクがある.それ以外では過度な運動による悪影響はしなさすぎによる悪影響より途方もなく小さい*13
  • 中強度の有酸素運動が処方されるようになったのはケネス・クーパーの影響だ.彼はフィットネスや運動の効果を研究し,1968年に「エアロビクス」という本を書き,有酸素運動を推奨した.その後の数多くの研究で有酸素運動の利点が確かめられた,最も明らかな効果は心臓血管系に関するもの(動脈を不純物の付着していないしなやかなものにし,安静時の血圧を低めて心臓を丈夫にする)だ.さらにそれは体内のほとんどのシステムの成長と維持を促すのだ.
  • 高強度の運動を繰り返し行う「高強度インターバルトレーニング(HIIT)」はアスリートの間でトレーニング効果が高いことで知られていた.リサーチの結果HIITは有酸素運動と同等あるいはそれ以上の効果があることがわかった.見方によっては数分間のHIITで30分の有酸素運動と同等の効果が得られる.週に数回有酸素運動を行っている人は(医師と相談の上)すこしHIITを取り入れるのもいいかもしれない.ただしHIITを適切に行うためにはすごくハードな負荷が必要であり,普通の人には大きな不快感があるし,カロリー消費量も少ないので,HIITのみを行うことは勧めない.
  • ウェイトを利用した抵抗運動は筋肉量,特に速筋繊維を維持するためには欠かせない.骨量の減少を防ぎ,代謝機能を強化するなどの効果もある.主要な医療機関は有酸素運動に加えてウェイトトレーニングを週2回程度行うように勧めている.疲れてやめたくなる程度の動作を8〜12回繰り返し,それを2〜3回繰り返すと効果が高い.
  • 常識的な目標をかかげるなら,週に数時間,有酸素運動を主眼にし,ウェイトトレーニングも行い,高齢になっても頑張り続けるというものになる.

 

第13章 運動と病気

 
最終第13章は,個別のミスマッチ病ごとのミスマッチ仮説と運動の効果という各論的な内容になっている.各論なのでここでは神話は登場しない.
取り上げられているミスマッチ病は,肥満,メタボリック症候群と2型糖尿病,心血管疾患,呼吸器感染症および他の伝染病,慢性的な筋骨格系の疾患,がん,アルツハイマー症,メンタルヘルス(鬱病と不安障害)になる.基本的にはそれぞれ進化環境と現代環境のどのようなミスマッチが問題になるのか,身体活動が予防や症状改善にどう役に立つのか,どのタイプの運動が望ましいのかが解説されている.驚くべきことにこれらのすべてのミスマッチ病で運動は何らかの良い影響をもたらす.興味深い指摘をいくつか紹介しておこう.

  • 「太っていても健康」という考えは危険だ.「健康で肥満」状態と「不健康で痩せている」状態のどちらかを選ばなければならないとすれば,「不健康で痩せている」方に賭けるべきだという証拠が圧倒的に多い.
  • 心血管疾患の行動上の危険因子は喫煙,肥満,不健康な食習慣,ストレス,運動不足になる.それは生理的には高コレステロール,高血圧,炎症という3つの絡み合った要因を持つ.運動だけで完全に予防はできないが,運動を行えばこの3要因をすべて改善できる.
  • 運動を習慣的に行っている方が呼吸器感染症にかかりにくいという多くのリサーチ結果がある.詳細なメカニズムは複雑でわかっていないことも多いが,中強度の運動は免疫活性を高めるようだ.
  • 「変形性関節症は加齢に伴う消耗が引き起こす疾患だ」という考えは間違っている.ランニングのような関節に繰り返し大きな負荷をかける身体活動は変形性関節症の発症率を高めないし,場合によっては予防になる.変形性関節症は,消耗ではなく,関節内の炎症によって軟骨が破壊されることにより生じるのだ.ほとんどの場合これは肥満と運動不足により生じていると考えられる.総じて運動は変形性関節症のリスクを軽減させる.ただし関節に深刻な損傷を与える可能性のある一部のスポーツ(ダウンヒルスキーなど)にはリスクがある.
  • 乳癌,大腸癌などの一部のがんには運動に予防・抑制効果があることがわかっている.メカニズムはまだ完全に解明されていないが,癌細胞に渡るエネルギーを抑える作用があるようだ.
  • アルツハイマーは現代環境で多いことからみてミスマッチ病と考えられる.メカニズムはなお論争されているが,増え続ける新しい証拠はそれが一種の炎症性自己免疫疾患であることを示唆している.そして運動は知られている予防法や治療法の中で圧倒的に効果がある(16万人を使った大規模リサーチでは,中強度の運動がアルツハイマーのリスクを45%減少させるとされている).
  • 鬱病と不安障害も現代環境で増えていることからミスマッチ病である可能性が高い.そしてメカニズムはわかっていないが運動には少なくとも薬物治療や心理療法と同等な効果があるようだ.

 
以上が本書の内容になる.本書の中心的なメッセージは「ヒトの心は怠けるようにできているが,ヒトの身体は習慣的な身体活動をしないと自己修復・免疫システムのスイッチが入らないようにできている」ということだ.多くのリサーチの実証的な結果を踏まえ,進化的な視点から説かれるこの主張は実に説得的だ.
健康で長寿になるための良いアドバイスは詰まるところ「適度な運動,バランスのとれた食生活,睡眠」というのはよく知られた話で,私もなるだけ運動をしなければとは思って(そしてある程度は実践もして)いたのだが,これほど広範囲な影響(肥満や心疾患疾患だけでなく,一部のがんやアルツハイマーに対しても良い影響があるというのは驚きだ)があるというのは本書を読んではじめて認識したということになる.そしてこのように健康に直結しているという意味で本書の読書体験は結構衝撃的だった.私は改めて自分の運動習慣を見直すことにして,取りあえずエアロバイクを購入して週5日1回30分漕ぐことにした.これがいつまで続けられるかに若干の不安はあるが,アルツハイマーやがんのリスクをも軽減できるなら頑張る価値はあるだろう.運動しなければと思いながらなかなかできないでいる人(そして理屈で攻められると納得しやすい人)にはとても価値ある一冊だと思う.
 
 
関連書籍
 
原書

 
進化環境における人体の適応史と現代環境とのミスマッチを扱った前著.私の書評は
https://shorebird.hatenablog.com/entry/20161004/1475589801

 
同原書 

*1:2チームで1周8キロの周回路を競走する.先に15周(120キロ)するか相手を1周追い抜くかで勝負が決まる.著者が見た時には午前11時頃スタートしたレースの決着は深夜となったと書かれている

*2:1日消費したエネルギー量を全く動かなかった時にかかるエネルギー量で割ったもの

*3:基礎代謝量(BMR)とは異なる.基礎代謝量はRMRより10%程度小さい

*4:心拍数,体温,細胞更新率が下がり,脳,肝臓,筋肉などの臓器も縮小する

*5:本書では「高燃費」と書かれているが,文脈からみて「低燃費」と思われる

*6:「all in a day's work」が「いつものこと」という慣用句で,それを踏まえての原章副題だと思われる

*7:伝説のテニスプレーヤーのロゴをつけた商品を展開するスポーツウェア会社.現在ではボルグ本人は関与していないそうだ

*8:導入した時には社員の2割がやめたそうだ

*9:リバタリアン的にはタバコ吸う権利が認められるなら,運動しない権利も認められるべきだろうということになる

*10:よく取り上げられるランナーズハイはエンドカンナビノイドの効果で,これは数時間に渡る激しい身体活動をしないと得られない.おそらく持久狩猟で動物を追走する狩猟者のための適応だろうと示唆されている

*11:急激な運動後に感染症感染率が上昇する効果は見つけられていない,その効果を知るにはより多くの臨床データが必要だろう.ただし現在感染症に感染しているなら運動を避けるべきことに疑問の余地はないとコメントされている

*12:アスリートによく見られる冠動脈石灰化について,かつては心臓発作のリスク因子とされていたが,実際にはそうではなくむしろ運動によるストレスから動脈壁を修復するための保険的な適応だ考えられるとコメントされている.

*13:なお著者の奥様は「運動のしすぎによる最大のリスクは結婚生活の破綻だ」と指摘しているそうだ.著者はそれに対して「運動のしなさすぎによる最大のリスクは長生きして結婚生活を楽しむことができなくなることだ」と付け加えたいとコメントしている