War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その31

 
ターチンによるローマ帝国の起源.まず地中海文明を取り入れたエトルリアとなお野蛮なローマの間に文化的辺境があった.ターチンはその当時のローマにすでに外部出自のものを取り込む寛容性が見えると指摘した.ここからが辺境の話になる.
 

第6章 オオカミに生まれつく:ローマの起源 その3

 

  • リウィウスなどの古代の歴史家によれば,ローマの建国はBC753年とされている.考古学的な知見からいえばその当時のローマのエリアは100エーカー(0.4平方キロ)程度,人口は数千人規模だったろう.BC625年ごろローマは都市国家となった.さらに100年後,ローマのエリアは6倍になり,人口は3万人程度になった.
  • リウィウスやディオニシウスは最後の王であるタルクイニウス・スペルブス(BC535-510)のころローマはラティウム地方の覇権国家であったように描写している.20世紀の歴史家たちはこの記述をナショナリズム的なフィクションだと扱ってきた.しかし今日では考古学データの積み重ねにより,彼等の記述はおおむね正しかったと考えられている.当時のラティウムの諸都市は皆ローマより小さかったのだ.ローマは当時ティレニア地方最大の都市だった.エトルリアの最大規模の都市もローマの半分程度だった.イタリア半島でローマより大きかったのは(南部のギリシア植民都市である)タレンティウムだけだった.カルタゴとローマの間のBC507の条約の内容を見ればローマがラティウムの支配国家であり,地中海でも重要な都市だったことがわかる.

 
このあたりは最新の歴史的知見が語られていてうれしいところだ.ローマは紀元前8世紀から紀元前6世紀にかけてラティウム内での最強国家になったということになる
 

  • ローマはラティウムの中心ではなくその端にあった.その初期の歴史はエトルリア都市ウェイイとの数百年に及ぶ激しい戦争の物語だ.ウェイイはエトルリア領域の端にあった.ウェイイはエトルリアを統一していたわけではなかったが,ローマとの争いの中でエトルリア地域最大最強の都市になった.ローマがラティウムの覇権を得,ウェイイがエトルリア最強となったのは両都市がまさにエトルリア・ラテンの辺境にあったからだ.辺境は分断地域間の戦争を恒常的に引き起こし,住民たちは団結し,両都市を同じように強国に発展させたのだ.

 
そしてここがローマが強国となったターチンによる説明になる.紛争地帯で強力な軍事国家が生まれたということになる.文化淘汰的に説明するのかと思いきや,単に(特に根拠なく)団結心だけを持ち出すのがいかにもターチンということなのだろう.
 
しかしローマは一直線に大帝国へと発展したわけではない.ここから歴史の循環的な要素がローマ史に見られるという指摘になる.
 

  • しかしローマはそのまま直線的に軍事的に発展し続けて(歴史よりも数百年早く)地中海全域を支配下に置いたわけではない.
  • それは1つには,エトルリアもローマも地中海の都市文明の影響を受けていて,その辺境は真のメタエスニック断層線ではなかったことだ.辺境はある意味マイルドであった.マイルドな辺境は強い領域国家を生み出せても真の帝国は生み出せない.
  • 2つ目に歴史には循環的な要素があるからだ.領域国家としての長い興隆期はローマ社会に遠心的な力を生み出した.紀元前500年ごろローマは内部抗争期に入り,発展はいったん停止した.この時期にローマはタルクイウス王を追放し,王政から寡頭共和政へ移行する.そして遠心力はラティウム全域に広がりラテン諸都市(ラテン同盟)の反乱が生じる.ローマではパトリキ(貴族)とプレブス(平民)の間で争いが生じた.貧富の差は拡大し,土地は分断化され,多くの人々が貧困層に落ちた.プレブスたちは支配層への不信を高めたが,周囲を敵に囲まれていたために革命は生じなかった.とはいえプレブスたちは時に軍役を拒否し,支配層を脅迫した.支配層も派閥抗争に明け暮れた.
  • この前5世紀の危機はラティウム全域に生じた.文明化されていないアペニン部族による襲撃があり,南側ではウォルスキやアエクイとの戦争も生じた.片方でエトルリアとの抗争も継続していた.また疫病も蔓延した.
  • 人口は減少し,貴族は富を失い,生活は質素になった.社会の循環は徐々に平衡状態へ戻った.ウォルスキ,アエクイ,エトルリアとの戦いは,人々の心を生き残りに集中させ,この復帰プロセスを助けた.

 
混乱期のラティウムの様子をターチンはかなり詳細に解説している.奢侈と質素,人口の増減と貧富の格差の増減あたりが強調されるのが特徴だ.