War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その32

 
ターチンによるローマ帝国の起源.まず地中海文明を取り入れたエトルリアとなお野蛮なローマの間に文化的辺境があった.そこでローマは領域における軍事的強国になったが,紀元前5世紀には循環的な内部抗争期に入った.しばらく停滞した後,人口が減り,奢侈文化が衰え,様々な外敵の登場によりローマは軍事強国化へのプロセスに戻っていく.
 

第6章 オオカミに生まれつく:ローマの起源 その4

 

  • 復帰プロセスに乗ったローマは紀元前5世紀の終わりにはアペニン部族を支配下に置いた.そしてウェイイとの2つの戦いに勝ち,紀元前396年についにウェイイを征服した.これによりそれまでのローマ・エトルリア辺境は消滅した.
  • しかしローマはその勝利の余韻に浸っていることはできなかった.わずか6年後ローマは(最終的にはローマの帝国への道を開くことになる)絶望の縁に立たされる.紀元前390年のガリア人によるローマ略奪だ.

 

  • ガリア(あるいはケルト)は紀元前6〜5世紀に北部イタリアに侵入した.彼等は統一国家を作らずいくつもの独立した戦士部隊として行動したが,強力な敵と向かい合うとカリスマ的リーダーの元にまとまった.
  • ガリア人はアルプスを越えてポー平原になだれ込み,ポー平原のエトルリア都市が軒並み陥落した.これにより野蛮・文明断層線は南下し,ポー平原とティレニアの間のアペニン山脈沿いに形成された.
  • この新しい重大な辺境は,これまでのイタリア半島にあった(たとえばエトルリアとラテンのような)民俗的な分断を矮小化させた.エトルリアとラテンは言語や民族的アイデンティティは異なっていたが,どちらも文字を持つ地中海文明に属し,社会や政治組織形態,そして戦争にやり方も似ていた.「野蛮なガリア」は全く異なった人々だったのだ.
  • リウィウスによるとローマ略奪は以下のように進んだ.
  • 紀元前391年にガリアの一部族セノネスがアペニンを超え,エトルリア都市クルシウムを攻囲した.それはローマにとって野蛮な部族が文明都市を陵辱しようとする恐ろしい情景に見えた.クルシウムはローマに救援を要請し,ローマ元老院はガリアに撤退するように説得する使者を送った.交渉の席でセノネスはクルシウム領土の割譲を要求した.ローマ側は恐喝要求に正義があるのかと問い正したが,セノネスは正義は剣にあるのだと嘲った.交渉は決裂し,戦争となった.
  • ガリア軍はローマへ突進し,ローマ軍は郊外のアリアで迎え撃ったが大敗した.ガリア軍はそのままローマ市に侵入し,思うがまま略奪し,市民が立てこもったカピトリウムの丘を包囲した.ローマ側はガリアの撤退を金で買う交渉に入った.(リウィウスは最終的にはカミルスが軍を集めて金を払うことなくガリアを追い払ったとしている).
  • この敗北はローマ人の心理に大きな傷跡を残した.リウィウスはガリアがいかに野蛮で文明ローマと異なっていたかを強調している.

 

  • 多くの現代の歴史家はローマ興隆期におけるガリアとの辺境の重要性を見過ごしている.彼等に言わせれば,結局ガリアは野蛮部族であり,ローマに影響など与えられるはずもないということになる.この「文明バイアス」を払拭するには古代の歴史家ポリュビオスに注目するのが良い.ポリュビオスはギリシア人でありローマとガリアを第三者的に眺めることができた.彼はその著作(ローマ史)においてこう書いている.「私がローマ史の始まりとして選んだのはローマの力の確立の始まりであり,それはガリアのローマ略奪の年だ」と.彼は「ローマとガリア」という章を設け,ガリアとの絶え間ない戦争の歴史を描き,そこから得たローマのアドバンテージを2つ指摘している.1つは大きな犠牲に耐えることを学んだこと,もう1つは優れた軍事オペレーションをこなせるようになったことだ.

 
このあたりも初期ローマの歴史で楽しいところだ.ターチンによれば,ガリアのポー平原進出こそが,真のメタエスニック断層線の形成につながったことになる.そしてそれは文明と野蛮の断層線であり,そのガリアとの長い戦いの中でローマは強力な軍事大国になったということになる.
ターチンはガリアとの戦いだけを強調しているが,結局前回登場したウォルスキやアエクイはガリアによるローマ略奪のあとに何次にも続く戦争の末に征服している(それぞれBC338,BC304)し,かなり熾烈な戦いになったサムニウム戦争(BC343〜BC290)もこのあとだ.文化淘汰により強い軍を持つ文化が形成されるとしても,ガリア戦とイタリア諸部族戦のどちらがより強力な軍の創設に役立ったかについては(リウィウスやポリュビオスの記述だけでなく)本来詳細な吟味が必要なところだろう.