書評 「人を動かすルールをつくる」

 
本書はヒトがルールに対してどのように反応して行動するかという行動科学的視点にたって法(特に立法政策)を考える試み*1についての一般向けの解説書だ.著者のロイとファインはともに法学者で法と行動科学,法と行動の相互作用を専門としている*2
法,特に刑事法は人々の行動を変えようとするものでもあり,うまく人々の行動を変えるには,ヒトがルールに対してどのように反応するかは重要な論点のはずだが,実際に法を作っている人々はそのような行動科学のトレーニングは受けていないし,非常に単純な前提しかおいていない.著者たちはそういう立法実務は非効率でり,行動科学を取り入れた法のデザインが重要だと主張している.行動経済学とちょっと似た視点にたっていて,興味深い.原題は「The Behavioral Code: The Hidden Ways the Law Makes Us Better ... or Worse」
 

第1章 ふたつのコードの物語

 
冒頭で法律やルールにどう書かれているかと,それに対して人々がどう行動するかは別のコードだ(本書では前者を法律コード,後者を行動コードと呼ぶ)と指摘される.そして行動コードの理解の重要性が主張される.

  • 法律を定めて(変えて)社会を良いものにしようとするなら,行動コードを理解しなければならない.ここ40年で行動科学は大いに進展し,ヒトがどのように行動し,なぜ不正を行うかについては理解が深まった.しかしこれらの科学は法実務には生かされていない.
  • 行動主義革命は経済学や倫理学の分野を根本から揺さぶったがロースクールではほぼ無視されている.立法の実務家は(社会科学や行動科学を必修として学ばないので)ヒトの行動について直感に頼っているが,その多くは間違っている.立法に至る政治的プロセスは世論の影響を受けるが,一般の人々も行動コードを理解してはいないのだ.

 

第2章 処罰への誤解

 
著者による整理では行動コードは動機にかかるものと状況にかかるものに大きく分かれる.第2章から第6章では行動コードの動機付けにかかる要素が個別に取り上げられる(第7章と第8章で状況にかかる要素が取り扱われる).まず最初は罰の効果だ.

  • 多くの人は,罰を与えれば行動が改善され,ルールを破らなくなるだろうと考えている(処罰直感).政治家は犯罪に対してしばしば厳罰化を主張し(実例として大手金融機関の犯罪に対して法人への罰金だけでなく会社役員に実刑を課すべきだと主張した上院議員エリザベス・ウォーレンの例が挙げられている),一般大衆も支持する.
  • では,罰を与えれば本当に行動が改善されて犯罪が減るのだろうか.(後のナポレオン法典に影響を与えた)18世紀の思想家チェーザレ・ベッカリーアは拷問と死刑の廃止を訴えると同時に刑罰の中心的な機能は犯罪の抑止だと主張した.そして処罰の厳しさ,確実性,即効性が抑止の3つの核心要素だとした.

 
<厳罰>

  • 厳罰に処された犯罪者はその後犯罪を控えるようになるだろうというのは個別的抑止と呼ばれる考え方だ.しかし厳罰が再犯に対して抑止効果を持つとする確固たる証拠はない.(様々なデータとその解釈が提示されている)基本的に拘禁が個別的抑止として機能している証拠は見つからない.一部のデータは拘禁が再犯確率を高めること(処罰の犯罪誘導効果)さえ示唆している.ただし統計的に各種要因を完全にコントロールした調査は難しいという問題はある.
  • 既往の犯罪に厳罰を課すことにより,潜在的犯罪者に犯罪行動を控えさせる効果があるという考え方は一般的抑止と呼ばれる.ベッカリーアはこれが刑罰の核心要素だとした.これを検証するのは容易ではない(交絡変数が多い上に原因と結果が区別しにくい)が,社会科学者は何十年にも渡って分析してきた.
  • 抑止を狙ったもっともわかりやすい例はカリフォルニアなどで実施された三振法*3だ.しかしこの効果についての多くのリサーチは三振法にほとんど抑止効果がないことを報告している.一部のリサーチは三振法が暴力犯罪を増加させている可能性を示唆している*4.ただし抑止効果を認めているリサーチもある(その場合でも費用対効果は酷く悪い).
  • 死刑については抑止効果ありとするリサーチが出され,その後その欠点が指摘されるという騒ぎが2回繰り返された(詳細の説明がある).現時点では死刑が殺人率に影響するのかどうかについて有益な情報はないという結論になっている.
  • 結局厳罰化が犯罪行為を抑止するかどうかについて現時点では決定的な証拠はないという状況だ.これは行動コードがいかに複雑かを示す例でもある.

 
<確実性>

  • 厳罰とは異なり,処罰の確実性が犯罪の抑止に効果があることは複数の研究により確認されている.この効果には閾値があることもわかっており,逮捕率が30%を上回ると抑止効果が出始める.
  • 犯罪を減らすには犯罪多発地域「ホットスポット」に警官を集中的に配置することが効果的だ.ただしそれが人種的偏見によるものだと思われれば法制度への信頼が崩れるので注意が必要だ.
  • 犯罪者は処罰される確率を減らすために工夫を凝らす.資金を持つ企業の場合にはこれは深刻な問題になる(規制逃れを行うためのアプリまで開発したウーバーの実例が紹介されている)
  • この抑止効果は犯罪者の主観によるものなので,処罰リスクが過小評価されていると効果が下がる.どのような処罰が規定され,どう執行されているかを伝えることが重要になる.

 
<科学的アプローチへの障害>

  • 1990年代にアメリカのいくつかの都市で実施された犯罪減少への科学的アプローチ(厳罰化をやめ,処罰の確実性,迅速性,その啓蒙に注力するもの)は効果を上げた.
  • しかし導入は難航した.特に問題なのは政治家や市民の反応だ.このアプローチは直感的に犯罪に対して弱腰で効果がないと感じられるのだ.厳罰は道徳的直感に整合的で効果があると感じられてしまう.これを克服しないと科学は有効に活用されない.

 

第3章 必要なのはアメ,ムチ,それとも象?

 
第3章で取り上げられるのは処罰以外のインセンティブだ.
冒頭では人々の行動を変えるにはインセンティブが重要であることがいくつかの逸話とともに*5指摘されている.

  • 不法行為責任法は実際に損害行動の減少につながるのか*6.はっきりとつながると示されたリサーチはない*7.おそらく刑事法と同じ問題(賠償責任の確実性,その認識など)があるのだろう.
  • では遵法行為に報償を与えるのはどうか.成功例*8はあるが,不用意な外的報酬は内発的動機付けを減退させることがあるという欠点も指摘されている.
  • 報酬についての実証リサーチは少ないが,税務コンプライアンスについてのものがある.そこでは影響は複雑であることが示されている*9
  • インセンティブの効果を予測するのは難しいのだ.ルール設定においては具体的な実証分析が欠かせないだろう.
  • またヒトは常に合理的経済的に反応するわけではない(様々な認知バイアスの例が示されている).ヒトはしばしば直感的なヒューリスティックに従う(ハイトはこれを象と呼んでいる),法を定める時には象への対処法を知っておくべきなのだ.(ヒューリスティックの様々な実例が示されている)行動経済学の示す知見は興味深いが,再現性に問題のあるものも混じっていることがわかってきた.
  • 要するに状況は複雑で,罰のほとんどはうまく働かないし,アメの効果は複雑ではっきりしないのだ.行動コードは単純ではない.ヒトの意思決定がどのように進行するかを徹底的に学び,法においてインセンティブがどう意味を持つのかを考え直さなくてはならない.

 

第4章 道徳的側面

 
第4章では道徳(個人の価値観)が取り上げられる.冒頭では,ながらスマホ運転規制に関する例が取り上げられている.やめさせるために「法律違反だ,罰金がある」と説得するよりも,「非常に危険であり歩行者の生命にかかわるのだ」と説得する方が効果的だ.それはそこに道徳の要素があるからだ.

  • シカゴの大規模調査で,交通違反やゴミの不法投棄などの違法行為に何が影響しているかを調べた.処罰への不安はあまり影響がなく,最も強い予測変数は「法が自らの価値観に合致しているかどうか」だった.
  • 法は人々の道徳観念を利用できるはずなのに,たびたびそれに失敗する.うまく利用するには道徳や倫理についてのリサーチ結果を理解すべきだ.(コールバーグの道徳発達論,道徳的唖然(moral dumbfounding)の発見とハイトによる道徳の二重過程の議論が紹介されている)つまり道徳推論の発達段階や道徳的直感の存在を踏まえる方が効果的だ.
  • 行動倫理学は善良な人が悪いと知りながら反倫理的行動を行う理由を解明する(道徳の二重過程理論を踏まえた)新しい学問分野だ.これまでシステム1(道徳的直感)が働いている場合には(潜在意識が働いたり自己欺瞞が生じやすく)反倫理的行動をとりやすいことが示されている.なおそれがどのように選ばれるのかのメカニズムは非常に複雑で解明は途上にある.それでもシステム2(熟慮)が働きやすくなるような介入により状況が改善される可能性が示唆されているといえる.
  • いくつかわかっていることとしては,ヒトは自分は誘惑に抵抗できると考える傾向にあること,道徳的ジレンマに直面すると倫理よりも快楽主義的に傾きやすいこと,ポットのゆでガエルのような反倫理行動の増大プロセスがあること,罪悪感を克服するために自己正当化の「中和」や「道徳不活性化」が生じることなどだ.中和や道徳不活性化に対しては「修復的司法(犯罪者と被害者に向き合わせる手法を取り込むもの)」が提唱されている.
  • 一部の犯罪者は極悪な行動を繰り返す.これは中和や道徳不活性化では説明しきれない.これに対して,善人とは根本的に異なる悪人がいるのだとか,悪人は道徳的に極端に未発達な人なのだと考える人は多い(ただし道徳的理由付けレベルと犯罪タイプに関係性は見いだせていない).パーソナリティ研究からはダークトライアド(ナルシシズム,サイコパス,マキャヴェリズム)概念が提唱されている.一部のパーソナリティ障害者は犯罪を犯すリスクが高いことも報告されている.発達心理学からは幼少期の冷淡で非共感的な特性(CU特性)の要因が指摘されている.
  • これらをどう解釈すべきかは難しい.データは複雑で,特定の人が犯罪を犯す確率について信頼できる予測を行えるわけではない.パーソナリティの理解も(正確な判断を行うには)不十分だ.介入によってこれらの特質を変化させることが可能であることを示す証拠もある.
  • 法と道徳規範について社会科学から得られる教訓は以下のようになるだろう.(1)ヒトの行動に影響を与えたければ道徳を無視すべきではない.(2)法が効果を上げるのは道徳と整合的である時だ.そしてヒトが実際にルールに違反する前後には道徳性を正しく評価できないことがあることは認識しなければならない.(3)極く一部の人は善悪の判断や特性が酷く歪んでいて法によりそれを改めさせることは難しい.しかしそのような人は本当に極く一部であること,(法をふくめた)介入が効果を発揮する可能性があることは認識しておくべきだ.

 

第5章 市民的服従

 
第5章では「市民的服従(人々が法には従うべきだと感じていること)」が取り上げられる.これは法に従うという規範意識ということになるだろうか.冒頭ではガンジーの不服従運動が紹介され,市民的不服従が生じるのは法が賢明ではないことを示す炭坑のカナリアのようなものだと指摘されている.

  • 著者によるリサーチによると,法に従うことへの義務感は,その国の政治体制では説明できず(アメリカと中国で差がない),特定の個人的特徴(パーソナリティ,政治姿勢,道徳的関心,親の傾向*10など)によってよく説明できることがわかった.
  • 個人の発達段階では,幼少期には法やルールは何かを禁止するもので,処罰への恐れから守ろうとするが,長じるに従い,処罰を恐れるためではなく法に従うのは義務だと考えるようになる.
  • 手続き的公正は,司法制度の公平性や正当性への見解にとって重要だ.そして公平性や正当性ヘの見解は法に従うことへの義務感に大きく影響する.これらについてのリサーチの多くは相関関係に基づいているが,中には実証的に因果を明らかにしているものもある*11.手続き的公正は市民的服従の前提条件だといえる.(手続き的不公正が蔓延し,警察や司法への不信感が増し,犯罪が多発した実例,いったん不信感を持たれた警察活動を改善しようとした試みの実例が紹介されている.そこでは手続き的不公正が改善された後には司法機関そのものへの信頼を取り戻す試みも必要なこと,その際には真摯な謝罪が重要であることが指摘されている)

 

第6章 群れに従う

 
第6章で取り上げられるのは社会規範だ.冒頭ではイスラエルの託児所でお迎えの遅刻に罰金を設定したらかえって遅刻が増え,罰金を廃止しても元に戻らなかったという有名な事例(罰金により,「遅刻は良くないことだ」という規範意識から「追加費用を払えば遅刻が許される」という規範意識に変わったためと説明される),省エネを呼びかけるメッセージにおいては社会規範的な文言が有効だという実験結果などが紹介されている.

  • 行動を変化させる上で社会規範は大きな力を発揮する.法がこれを利用できれば違法行為を減少させる効果は大きく改善される.(いくつかの実例*12が紹介されている)
  • 社会規範はしばしば気づかれなかったり誤解されている(自分はきちんと納税するが他の人は機会があれば脱税すると信じているなど).だからすでに存在している社会規範を利用するには,多くの人がルールに従っている点を強調するのが効果的だ.
  • すでに存在している社会規範の扱いには注意しなければならない.良い行動を支えている社会規範があるなら変に手を加えない方がいい(イスラエルの託児所の失敗の例).
  • メッセージの発信源の信頼性も重要だ.メッセージの受け手が一体感のある集団やコミュニティのメンバーの場合は効果が高くなる.メッセージの内容の(記述的なメッセージと命令のような規範的メッセージの組み合わせが効果が高い)にも注意を払うべきだ.(失敗例がいくつか紹介されている*13
  • ヒトは社会規範や他人の行動に反応する.このことは現在の法制度の元になっている個人の合理的な選択モデルとは異なる視点を持つ必要を示している.社会規範を利用するなら人々がどのように興隆し,習慣や価値観や社会規範をどのように共有するのかを理解する必要がある.

 

第7章 変化を知らしめる

 
第7章と第8章では行動コードの状況にかかる要素が取り扱われる.
第7章は,「法律を守ることができるようになっているか」という状況についての介入がテーマだ.ここでは法を知っていること,認知的能力,社会経済的条件が取り上げられている.
 
<法の周知>
最初に取り上げられるのは「ルールの周知」だ.冒頭ではテニス選手のシャラポアが禁止薬物のリスト変更を知らないまま10年間使っていた薬を使い続けドーピングテストに引っかかり,記者会見で率直に謝罪した経緯が語られている.

  • 法により社会を改善しようと思うなら,社会規範や道徳を考える前にまず法を周知させることが重要だ.法の不知は法律のあらゆる側面に現れる.刑法の基本的な事柄や家族法さえあまり知られていない.法律体系は膨大で複雑でありその内容を理解するためには専門家の助けを借りるしかないものになっている.
  • 同じ問題は組織や企業の独自のルール体系についても当てはまる.独自ルールはしばしば管理者の免責のための体系になりがちで,何か問題が起こるために取り繕うための条項が付加され,複雑で膨大でわかりにくいものになる.
  • 将来の行動を法やルールにより改善させようと思うなら,問題が生じるたびに条項を付加するアプローチの限界を認識すべきだ.できるだけ複雑さを回避し,明確でシンプルなものにし,ルールの周知と啓蒙のためにもエネルギーを注ぐべきだ.

 
<法を守る能力>
次に取り上げられているのは「法律を守る能力の改善」だ.

  • 犯罪と自制心の欠如に強い相関があることが多くの実証研究から明らかになっている.自制心を強めるための介入に犯罪を減少させる効果があることも実証研究から明らかになっている(カナダのSNAPプログラム*14や服役囚に子犬の訓練をさせるプログラム*15が紹介されている).
  • 別の法を守る能力に関連する犯罪要因に薬物乱用や依存性障害がある.これもソーシャルスキル,問題解決能力,ストレス管理などに注目する治療プログラムが再犯率の減少に効果があることがいくつかのリサーチで明らかになっている.

 
<社会経済的条件>
続いて「社会経済的条件ヘの介入」が取り上げられている.

  • 多くの州で雇用者には犯罪歴による雇用差別が認められている.犯罪歴を理由に入学を許可しない大学も多い.これは服役者の社会復帰を困難にし再犯の要因になっている.犯罪歴による差別の解消を目指すのには重要な根拠があるのだ.
  • また貧困,教育の欠如,住居へのアクセス不全などの社会経済条件も犯罪要因になる.これらが犯罪要因になることについてアグニューは一般的緊張理論を提唱している.この理論は複雑なので理論全体の実証は難しいが,その核心的部分(一部の人は社会経済的ストレスに対して犯罪という形で対処すると考える)である緊張とネガティブな感情と犯罪の間の関連性には実証的な根拠がある.アグニューはペアレントトレーニングやいじめ対策プログラムなどの介入政策を提言している.

 

第8章 テロリストに機会を与えない.

 
第8章では犯罪機会についての物理的,状況的な介入が検討される.冒頭では液体爆弾の可能性が発見されたことに対して航空機への液体の持ち込みが制限された事例が紹介されている.

  • アメリカの70年代の犯罪率増加は,社会経済要因が改善している中で生じた,コーエンとフェルソンはデータを細かく分析し,社会経済要因の改善により女性が職場や学校により進出し,家に誰もいない時間が増えたこと,家の中に高額でサイズの小さなもの(テレビなど)が増えたこと,が関連していることを明らかにし,「日常活動理論」を提唱した.この理論によれば価値のあるターゲットがきちんと防備されていることが犯罪リスクを抑えることになる.これは近時のオンライン犯罪(価値あるデータがきちんとセキュリティされているか)にも当てはまる.
  • このアプローチは有効だが,被害者が(防備を怠ったと)非難されやすいという問題がある.この問題に対してはクラークが提唱したターゲットの堅固性だけでなく,違法行為が発生した実際のコンテキストに注目する「状況的犯罪予防」というアプローチがより優れている*16.たとえば街路の明るさや建物の高さと構造が犯罪率に影響を与えるなら,建築物や都市計画をもっと広い目で見る必要があるのだ.クラークは状況的犯罪予防の戦略を25のタイプに分類している.
  • これらの犯罪の機会を減らそうとする介入には,新しい犯罪に置き換わるリスク,犯罪者が適応するリスク,犯罪の被害者に不平等が生じるリスク(犯罪機会が抑えられていないものに被害が集中する)があるので注意が必要だ.しかしこれらの転移効果についてのリサーチは,介入の25%程度で転移効果が生じるが,全体としての犯罪抑制効果の方がはるかに大きいこと(そして場合によってはポジティブなハロー効果があること)を示している.
  • これに関して問題になるのは「犯罪者を刑務所に収監しておくことが犯罪機会をなくす介入として有効か(拘禁に無力化効果があるか)」ということだ.多くの人はこれが有効だと感じているが,リサーチによるとその関係は明確ではない(様々な結果が報告されていて,全体としては判断できない).
  • 無力化効果があるという考えには「犯罪者の犯罪傾向は不変だ」という前提がある.しかしそれは一定ではない.年齢犯罪曲線が示すのは思春期を過ぎれば犯罪率は下がるということだ.また一部の犯罪者を拘禁すれば代わりの犯罪者が(機会を得て)現れるという代替効果もありうる.
  • また犯罪機会論のアプローチには市民的自由との相克があり,アメリカ国民はしばしばそのような制限を好まない(シートベルトを付けないと発進しないシステムを義務化するかどうかで生じた議論,銃乱射事件の頻発にもかかわらず銃規制に反対する大きな政治的勢力があることなどが説明されている).このアプローチは政治的,道徳的な側面があるのだ.だからこれを採用するなら最終的には政治がうまく調整する必要がある.

 

第9章 システムを食い物にする

 
第9章はこれまでの行動コードの解説を踏まえたうえで,企業や組織のコンプライアンスを議論する章になっている.冒頭はジーメンス社の組織的な大規模汚職事件が紹介されている.彼等は発覚後連邦裁判所にこの問題に対する徹底したコンプライアンスプログラムを提出し,それは司法省に高く評価され,<組織のための連邦量刑ガイドライン>にしたがって寛大な処分が勧告された.

  • 社会を改善するには組織の行動の問題解決も重要だ.問題を起こした会社を罰しようとするのはよくある対応だが,企業幹部や組織自体に厳罰を課せば犯罪が減少する決定的な証拠はない.
  • この点からみると,単に罰するのではなく,組織が自ら違法行為をしないように促すのには意味があるように思われる.連邦量刑ガイドラインは効果的なコンプライアンスと倫理プログラムを組織に採用させることを狙っている.プログラムを策定した組織は(違反行為が発覚し,その対策として策定した場合)量刑が軽くなり,立ち入り検査の負担を減らすことができる.
  • ではこのような取り組みには効果があるのだろうか.一連のリサーチの結果はまちまちだ.全体的には効果はあるようだが,それは非常に限られているように見える.時間とともに効果がなくなる,あるいは全く効果がないとする結果もあり,プログラムの効果に懐疑的な学者もいる.場合により事態を悪化させることがある(特に経営陣の倫理的コミットメントへの社員の信用が失われた場合*17など)という指摘もある.
  • コンプライアンスプログラムの要素の多く(倫理意識向上トレーニング,内部告発者保護の明文化,違反の報告の義務づけなど)は何の効果も発揮していないようだ.効果がありそうな要素には,苦情対応の方針の明文化,インセンティブより価値観に働きかける,社員に権限を付与した上で意見を反映させるなどがあるが,プログラムのどこに効果があったかを見極めるのは難しい.
  • 法が企業に要求する内容は曖昧で,企業は法に配慮しなければならないが同時にコストも抑えたいので,「象徴的な構造*18」を作り出すだけという対応をしがちになるのも問題だ.この場合プログラムは法に忠実そうな姿勢を見せる手段に成り下がり,中身は空っぽになる.
  • プログラムが効果を生むには特定の条件が必要であるようだ.独立した第三者による監視体制があり,経営幹部がコンプライアンスと倫理に深くコミットし,組織風土や文化も倫理的でなければならないのだ.要するにプログラムはそんなものが必要でない場所でしか効果を発揮しない.
  • 内部告発者条項は重要な戦略と位置づけられている.内部告発者は検査では見つけにくい情報を持っているからだ.しかし内部告発には多大なコストとリスク(保護条項があっても多くはトラブルメーカーのレッテルを貼られ,降格や解雇の憂き目に遭う)が伴う.つまり告発には利他的な使命感が必要になる.また告発によって事態が改善されるとは限らない.最初の報告先とされる上司には報告をブロックしてフィルターにかける権限が備わっている.複数のリサーチによると法の遵守へのコミットメントが組織内に存在しない限り内部告発システムは十分には機能しないようだ.
  • つまり組織全体の構造や価値観が問題になる.違法行為に対する組織文化を知るには組織の儀式,シンボル,習慣,価値観を文化人類学的に分析する必要がある(BP,フォルクスワーゲン,ウエルス・ファーゴの実例が説明されている).そのようなリサーチにより有毒な文化の7つの要素が指摘されている(リスクを無視して実行する,批判的な意見を言わない,ルールは違反してもよい,違反を隠してもよい,悪いのは社員で経営陣ではない,ダメージはなかったと言い張る,公式の方針やメッセージは建て前に過ぎない).これらは行動を悪い方向に誘導する.
  • 最も重要なのは組織がその文化に内在する有害要素を洗い出して認識し,問題解決に取り組むことだ.

 

第10章 行動法学

 
第10章ではこれまで説明してきたことからどのように法律をデザインすべきかがまとめられる.冒頭では2020年4月のコロナパンデミック危機初期の人々の行動改変と,5月以降の失速に置ける様々な状況が描かれている.

  • コロナ対策のコンプライアンスからは行動コードが1つのメカニズムによるわけではないことがわかる.おおまかにいうと行動コードには動機付けと状況という2つのメカニズムを持つ.
  • 動機付けにはインセンティブによる外発的動機付けと,価値観,道徳,義務感による内発的動機付けがある.状況にはルールに従う能力(知識や理解など)と違反する機会がある.望ましくない行動に法律で対処するなら,動機付けと状況を確認する必要があるのだ.
  • 次の6ステップからなる分析過程が有効だ.(1)望ましくない行動のバリエーション(一体何に対処するのか)の確認(2)行動がどのように機能しているか(機会)の確認(機会への介入だけで対処可能ならその方が望ましい)(3)行動を控えさせるために何が必要か(従う能力)の確認(これが満たされていないと動機付けには意味がないので改善方向への介入を検討する)(4)法制度や執行者が正当だと考えられているか(法に従う義務感)の確認(5)関連する道徳や社会規範の確認(法目的が道徳や社会規範に沿っているならそれを利用し,沿っていないならそこに注目が集まらないように注意する)(6)インセンティブの考慮(処罰の確実性,厳格性,人々の認識を考慮して罰や報酬を決める)
  • 19世紀初頭まで西洋医学はガレノスのバランス論に依拠してしばしば意味のない(場合によっては有害な)治療行為を行ってきた.しかしそれ以降科学的検証が取り入れられ,医学は科学的なものになった.21世紀初めの法学の世界は19世紀初頭の医学の状況と同じだ.法律(特に立法行為)も同じように科学的な洞察を取り入れるべきなのだ.私はここで3つの改革(法曹教育の改革,現実に即した法に関する行動科学の設立,法曹の意識改革)を提唱する.

 
以上が本書の内容になる.法はしばしば望ましくない行為に罰を規定して,これを抑止しようとする(法学において明示的な合理的経済人モデルで数理的に議論するようなことはあまりないと思うが,ある意味それよりももっと原始的に直感的なモデルに従っているとみなせるということだろう).しかしヒトが反応するインセンティブは罰だけではないし,(罰もふくめた)各種のインセンティブへの反応の仕方は状況依存で非常に複雑であり,効果を見定めるには具体的個別リサーチが必要なこと,そしてそもそもその前に状況をよく吟味して介入した方がよい場合も多いことが詳しく説かれている.第9章の企業や組織のコンプライアンスの問題点の指摘には深く頷ける部分が多い.
結局現時点では罰をふくめたインセンティブの効果がよくわかっていないことが多いこと,状況への介入が望ましいと示唆されているが,その一部はいかにも理想主義的でやはり現時点ではその効果がはっきりしないことなどいろいろすっきりしない部分もあるが,これから練り上げていく学問のスタートとしては十分興味深いと思う.コンシリエンスの一環として今後の発展を期待したい.
 
関連書籍
 
原書
 

*1:本書の副題「ルールを作る行動法学の冒険」ではこれは「行動法学」と呼称されている.「行動経済学」と並べると収まりがいい語だが,あまり一般的な用語ではないようだ

*2:ロイはコンプライアンスや企業文化,ファインは犯罪学と刑事司法により軸足があるようだ

*3:3度目の犯罪に対して懲役25年から終身刑という厳罰を規定するもの

*4:これはすでに2度犯罪を犯した前科者は,次の犯罪にいったん着手したあとでは何をしても同じ厳罰になるので,どのようなリスクをとってでも処罰を回避しようとすることによる効果だと説明されている

*5:レンガ製造業者の環境規制を守るためのインセンティブとして設定された補助金の効果の実例や,ブロガーに(合法的に)侮辱された億万長者が復讐のために,同じような仕打ちを受けた人に名誉棄損損害賠償の訴訟費用を負担すると申し出て,ついに巨額の賠償金を払わせた例などが紹介されている

*6:英米法では不法行為法はtort lawと呼ばれ,契約法とは異なる法理が集積されている.法目的に一般的抑止があるとされ,悪質な不法行為に実損害額を上回る懲罰的損害賠償が米国の多くの州で認められている(日本法を含む大陸法では実際に生じた損害の賠償責任のみというのが原則)

*7:自動車保険の保険料が事故の後上がる州と上がらない州での比較,医療ミスに伴う責任が緩和された州とそうでない州の比較などのリサーチが紹介されている

*8:リッチモンドのピースメーカーフェローシップ作戦の成功例が紹介されている

*9:性差があり,報酬の種類によっても効果が異なる.また効果が長続きしない可能性がある,報酬にはある程度の規模が必要で費用対効果が悪い場合もある

*10:親の法的義務感が強いと子供にもその傾向が現れる.本書ではそれは学習によると説明されているが,遺伝の影響も考えるべきだろう

*11:3種類の警官の取り締まり態度の動画を被験者に見せ,その後法への義務感をアンケート調査したもの,確定申告が遅れている納税者に3種類の督促状を送って効果を見たものなどが紹介されている

*12:飲酒運転をなくすために「モンタナではほとんどの人が友人や家族を大切にするために飲酒運転をしません」とメッセージに効果があった例などがあげられている

*13:アリゾナ州の珪化木の森の国立公園で珪化木の持ち出しをやめさせようして失敗した例が紹介されている.公園当局は悔い改めた盗難者から返還された珪化木を積み上げて「良心の山」と名付け,「一度に持ち出される珪化木は小さくても.それが積み重なり1年間で14トンも失われています」というメッセージを添えた.しかしこれは「みんな持ち出してるんだ,だから自分もやっていい」という規範意識を生じさせてしまったそうだ

*14:6〜12歳の少年少女に自制心を失うきっかけを自覚する方法を教え,その場合にはまず立ち止まり深呼吸し,悪い考えを現実的な考えに置き換える訓練などを行うプログラム

*15:子犬との触れ合いは服役囚の大きな喜びになり,トラブルを起こすと子犬と引き離されるので,自制心の訓練になるそうだ

*16:このわかりやすい例として,ヘルメットの着用義務の罰金化がオートバイ盗難を減少させた事例が挙げられている.罰金導入により皆がヘルメットを着用するようになったので,オートバイを盗難したあとノーヘルで乗っていると(そして盗む前にヘルメットだけ持ってうろうろしていると)警察に注目されてしまうことが犯罪減少につながったとされている.

*17:典型的なものはこのようなプログラムが最高幹部の保身のためにだけあると感じられた場合

*18:例えば「差別」が問題になるなら,差別問題担当者を置き,差別禁止規定を設定するだけなど