War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その37

 
ターチンによるローマ帝国の興隆.辺境とメタエスニック断層線という外部要因を見たあと,ローマ時代のテキストから内部要因を検討する.そして古代ローマの価値観「父祖の慣行」を吟味し,それがアサビーヤにつながったと主張した.そして続いて帝国の興隆期の特徴として平民と貴族の間に断絶がなく団結することができたことを特に強調する
 

第6章 オオカミに生まれつく:ローマの起源 その7

 

  • 社会の垂直的統合,つまり平民と貴族の間の団結心は帝国興隆の最も重要な特質の1つだった.この点でローマがいかに優れていたかを調べるには,その社会の構造を知る必要がある.社会の構造はその軍隊組織と密接に関連していた.ラテン語のpopulus(ポピュルス:民衆)のもともとの意味は「軍隊」だったのだ.
  • ローマ市民の大部分は小規模土地所有者だった.彼等はローマ軍に兵を供給するという点でローマ国家にとって重要だった.5万〜10アスの資産を持つものは重装歩兵として従軍した.重装歩兵は古代地中海世界の軍の中心であった.それより貧しいもので1万アス以上を持つものは軽装歩兵として従軍した.資産を持たないもの,外人,奴隷は社会の最下層とされた.
  • より富裕な市民は騎兵として従軍した.40万アス以上を持つものは騎士身分とされた.社会の最上層の元老院階級の貴族は騎兵あるいは指揮官として従軍した.元老院階級は人口の1%程度であり,平均的な資産は100万アス程度だっただろう.つまり初期のローマ社会の貧富の差は大きくなく,トップ層の資産規模でも平均の10〜20倍程度に過ぎなかった.(これは産業化以前の社会として非常に小さいこと,また現在のアメリカと比較しても非常に貧富の差が小さかったことが説明されている)
  • しかし紀元後400年前後(後期帝国期)には貧富の差は最大になり,一般市民(その頃の多くの市民は無産階級になっていた)と元老院階層(平均資産は黄金2万ポンド(共和政のころの100倍)にもなっていた)の差は20万倍になった.これは富めるものがますます富み,貧しいものがますます貧しくなった結果生じたものだ.
  • 初期ローマの元老院階級貴族のライフスタイルは質素倹約型であり,一般市民のそれとたいして違わなかった.初期共和政時代の海外交易は低調で東洋の豪勢な奢侈消費財は輸入されなかった.服装の違いは,トーガに紫のストライプがあるかどうかだけだった.後のローマの歴史家はこの当時の質素な暮らし振りを強調した.(キンキナトゥスが独裁官として召喚されたとき,畑で耕していた鍬を置き「これで今年は種まきができなくなったので,食べるものがなくなるかもしれない」と嘆いたというエピソードが紹介されている)
  • もちろんローマに地位やランクの違いがなかったわけではない.パトリキ貴族は一般市民に比べて富と権威と名声を持っていた.ローマは民主主義体制ではなかったし,限られた家系の貴族が権力を手中にしていた.それでも支配層と一般市民の間に富や権力についての(後の帝国時代のような)絶対的な壁はなかったのだ.
  • この垂直的な統合(平民と貴族の間の絶対的な壁の不存在)は,成功する帝国の興隆期の一般的な特質だ.これは(アレクサンダー帝国に至る)マケドニアの興隆期にもみられたものだ.
  • (後の時代とは異なり)興隆期のローマの貴族層は戦争時の犠牲を進んで引き受けた.カンナエの敗北では,ローマ軍は5万人が戦死し,その総力の1/10を失った.そして元老院はそのメンバーの1/3を失った.これは貴族層の方が戦死する確率が高かったことを意味している.富裕層は税の負担も率先してより多く引き受けた.第2次ポエニ戦争時のガレー艦隊の再建のための税を他の階層より重く負担している.
  • 支配層の指揮官は戦列の後ろに隠れずに兵たちと並んで戦った.これが初期および中期ローマの軍において平民と貴族層が軍隊で協調的に闘えた理由だ.クラス間のコンフリクトが激しかった紀元前5世紀の時代でも平民兵士による軍隊内の反乱は(軍隊の構成からみて容易に行えたが)全く生じなかった.彼等は,不満があるときには徴兵に応じないという形でのみ意思を示した.後期共和政の不安定の時代に至るまで平民と貴族層の関係はきわめて協調的だったのだ.

 
ターチンは興隆期のローマで平民と貴族層が協調的であったと強調している.ただここでなされている比較は後の帝国時代とのものであり,同時期の近隣諸国との対比ではない.だからそれが本当に当時の世界で相対的に協調的だったのかどうかを明確に示せているようには思われない(そして前回も指摘したがそれが軍の強さの最大の要因であることも示せてはいない).同時期のエトルリア諸都市やラティウム諸都市,あるいはサムニウムやガリアとの比較はデータが残っていないので難しいということだろうが,やや我田引水的な印象は残ってしまう.