War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その38

 
ターチンによるローマ帝国の興隆.辺境とメタエスニック断層線という外部要因を見たあと,ローマ時代のテキストから内部要因を検討する.そして古代ローマの価値観「父祖の慣行」を吟味し,それがアサビーヤにつながったと主張した.最後に古代ギリシアとの差(なぜアテナイやスパルタは帝国にならなかったのか)が取り扱われている.
 

第6章 オオカミに生まれつく:ローマの起源 その8

 

  • ローマ帝国の興隆には2つの要因で説明できる.1つはここまで見てきた内部的団結,アサビーヤだ.そしてもう1つはその注目すべきオープンさだ.ローマは外部勢力を,それが直前まで戦っていた相手であっても,極めてオープンに受け入れた.このオープンさがなければ帝国は成長できない.
  • 確かに理論的には征服地を植民地化した上でジェノサイドや民族浄化を行うという代替手段もある.そして多くの帝国はある程度はこの方法も取り入れている.しかし成功した帝国はみな(自民族の生物学的増殖に頼らず)主に文化的同化を採用している.そしてこれがローマやマケドニア(アレクサンダー帝国)と,アテナイやスパルタの違いを説明する.

 

  • スパルタは非常に高い内部的な団結を持っていた.古代ギリシアの都市の中で初期ローマに最も似ていたのはスパルタだ.威厳ある振るまい,贅沢に対する嫌悪,そして国家に対する自己犠牲的奉仕の精神は初期ローマと同じだ.ペルシア戦争時のテルモピュライの300人の犠牲がそれをよく示している.あるいはスパルタの方がアサビーヤは高かったかもしれない.(スパルタの厳しい戦士育成システムが説明されている)スパルタは軍隊キャンプのようなもので,個人の幸福追求はどこにもなかった.その軍隊はギリシア世界最強で紀元前800年から371年まで敗北したことはない.
  • スパルタはどのようにしてそうなったのか.紀元前8世紀のスパルタ(当時ペロポネソス半島南部のラコニアを版図としていた)は他のギシリア都市と対して違わなかった.転換点は隣接するメッセニアを征服した時だった.スパルタはメッセニア人を奴隷(へロット)とし,自らは支配階級かつ戦士となり,ヘロットたちに土地を耕作させることにした.続く数世紀ヘロットたちはしばしば反乱を起こした.スパルタは鎮圧のために軍隊を強くすることに注力し,兵を厳しく訓練し,反乱を抑え込んだ.しかし紀元前371年についにスパルタが敗北するとメッセニア人はスパルタから抜け,スパルタの都市としての重要性はなくなった.
  • スパルタのメッセニアの処置はローマとは対照的だ.ローマは紀元前338年のラテン戦争後,すべてのラテンコミュニティを受け入れた.紀元前4世紀の終わりにはカンパニアを併合し,カンパニア貴族層をローマの支配層の一部に受け入れた.受け入れの態様にはいろいろあったがローマは被征服民を受け入れ続けた.
  • ただしローマのオープンさには限界もあった.それはメタエスニック断層を超えなかったのだ.「ローマらしさ」にはラテン,カンパニア,エトルリア,ギリシアが取り込まれたが,ガリアはそういう扱いを受けなかった.ガリアが受け入れられるようになったのは,(カエサルによる)トランサルピーナガリアの征服後,彼等がローマ文化やラテン語を受け入れるようになってから,そしてさらに野蛮なゲルマンが前面に現れてからだ.重要なことはすべての民族差は相対的だということだ.
  • スパルタはメッセニア人を奴隷にすべき民族だと考えた.それはスパルタがメタエスニック断層に接していなかったからだ.スパルタ人とメッセニア人はともにギリシア人であり,差はローマ(ラテン)とタレント(ギリシア)の差に比べて極くわずかだった.しかし断層の向こうの「あいつら」がいなかったせいで,スパルタはメッセニアを「われわれ」とみることはできなかった.ヘロットとの緊張関係はスパルタを強くし,しかし究極的にはスパルタ版図内の団結を得られず,その衰亡の原因になった.スパルタはその軍事的強さにもかかわらず,その版図をギリシア全体に広げることはできなかった.

 
ターチンはスパルタとの比較をしながら,ローマ帝国の興隆についてアサビーヤとオープンさを上げ,そのどちらもメタエスニック断層に沿っていたからだと説明していることになる.
しかしスパルタとの違いをこれで全部うまく説明できているようには思えない.そもそもスパルタがメタエスニック断層に沿っていなかったのなら,なぜそもそも強国になれたのか.それがヘロットとの緊張によるものだとするなら,最初の強国の興隆は断層なしでもいいことになるのではないか.要するに紛争多発地帯にいれば強国は生まれるということでいいのではないかと思える.
そしてメタエスニック断層に沿っていなかったからメッセニア人を「われわれ」として受けれいることがなかったとする.確かに最初はそうだったかもしれない.しかしペルシア戦争を経たあとでも受け入れられなかったのはなぜなのか(確かにペルシアは文明世界に属し,そこに文明対野蛮のメタエスニック断層はないが,「われわれ」と「あいつら」を作るには十分だろう.そしてターチンは民族差は相対的だといっているではないか)は説明されるべき問題だろう.それは社会システムの慣性ということなのかもしれないが,何らかの説明はしておくべきではないだろうか.
 
スパルタの社会システムは確かにすさまじい.古代ギリシアの本は多いが,実はスパルタに特化したものは少ない.私が読んだのはこれだ.
 

 
テルモピュライの300人は有名な逸話だ.映画にもなっている.