War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その42

 
ターチンのフランク帝国とその後継国家群興隆物語.まずはカロリング朝フランク帝国の対イスラム辺境が描かれる.とはいえ記述のほとんどはフランク帝国(およびその後継国家)ではなく,アラゴンやカスティリアという西ゴート王国の残存勢力から独自に興隆したキリスト教国とイスラムの対立になる.

 

第7章 中世のブラックホール:カロリング辺境におけるヨーロッパ強国の勃興 その3

 

カロリング朝の対イスラム辺境 その2

 

  • このイベリア半島のイスラム教国とキリスト教国の辺境は800年弱(711年の侵入から1492年のグラナダの陥落まで)続いた.最初の300年は広い空白地域があり辺境の位置はほとんど動いていない.
  • とはいえ小さな揺り戻しはあった.フランクは800年ごろ南に侵入したが.シャルルマーニュの死後押し戻された.10世紀にはアストゥリアス(イベリア北西部のケルト系)ナバーラ(同じくバスク系)がイスラムから版図をもぎとって定着した.しかし10世紀末にはコルドバ朝(後ウマイヤ朝)のマンスール将軍に敗北し,バルセロナ,サンチアゴ,レオン,パンプローナを失った.マンスールはサンチアゴを陥落させた時に鐘をコルドバに持ち帰り,鋳つぶしてモスクの飾りにした.
  • キリスト教徒にとって幸いにもコルドバ朝は1030年ごろから内戦期に入り分裂した.ここで(キリスト教徒にとって)辺境は吸収域に変わった.そこは定着可能な有望な土地になったのだ.レコンキスタの始まりである.

 
イベリアの辺境の歴史の花はレコンキスタだ.文明の断層線でキリスト教とイスラム教の両勢力が何百年も敵対し,最終的にキリスト教側が勝利する.ターチンはかなり具体的に語ってくれている.
 

  • イベリアの辺境の様子はどのようなものだったろうか.(ここでパワーズの「A Society Organized for War」に収録されているアルフォンソ7世の伝記から,2つの村の小さな軍隊によるコルドバに向けての山を越えた長距離の進軍の様子が紹介される.そこでは荒くれどもの恐れ知らずの襲撃の様子が記述されている.彼等はリスクを省みずに敢行した対イスラム軍への夜襲に成功し,多くの略奪品を得る.)

 
パワーズによる描写は具体的で生々しい.彼等がハイリスク志向の荒くれ者であることがよくわかる記述になっている.

 

  • 辺境の戦いの様相はそれぞれの文化によって異なるが,このカスティリア辺境の男どもの軍の様子は他の辺境のそれ(例えばエルマークに率いられたコサック)と重要な点で非常によく似ている.彼等はプロの軍隊ではない.非常に結束の固い自律的なユニットで,(中央からの)命令なしに自律的に動き,分け前が保証されていた.自分たちの宗教的シンボルを持ち,自分たちは敵と全く異なると認識していた.そして動機の中心は略奪品だった.
  • この類似を指摘しているのは私だけではない.多くの歴史家がレコンキスタとロシアの東征の類似を指摘している.最も印象的な類似点はこの両者の社会がともに平等主義と社会的流動性を持っていたことだろう.そして彼等はともに戦争により富と地位を得ることができる.平民の生まれでも活躍により騎士になれるのだ.このような上昇の道は辺境がある限り存在した.しかしいったん辺境が消滅すると流動性は失われ,社会構造は固定化する.
  • カスティリアの辺境社会は片方で公平さの規範を発達させた.これは例えば戦争によるり利益の配分の厳格なルールに見られる(襲撃利得の分配ルール(貢献度に応じた取り分が基本)とその執行方法が説明される).利益配分を公平なものにすることは,抜け駆けや全軍を危険におかすような襲撃のインセンティブを抑えることにつながる,それにより戦場における協力が促進されたのだ.この規範はモラリストたちの集団により規定されたに違いない.

 
ターチンはここで,辺境における団結だけでなく,上昇可能でリスクをとることが見合う社会,それによる抜け駆け(一種の裏切り)を避けるための公平な規範ということも強調している.ある意味団結心(アサビーヤ)だけでなく,制度面にも目を配っているようで,私としては読みやすい記述になっている.
 

  • イベリアの辺境社会の大半の住民は町(towns)に暮らしていた.この町の役割は経済的なものではなく防衛的なものだ.辺境地域に点在するコミュニティはイスラムの襲撃に対する深い防衛を提供していた.ただしロシアの場合と異なりカスティリア人たちは防衛線を構築したわけではない.ロシアの場合は耕作地を防衛する必要があったが,カスティリアの主要産業は牧畜であり,羊を町の城壁内に収納するのは容易だったからだ.またロシアの辺境の場合はタタールの襲撃からの防衛の要素が大きいが,カスティリアは豊かなイスラムへの襲撃による利益の要素の方が大きかった.
  • レコンキスタにおいては,各地方の在郷軍が鍵になる役割を果たした.中心となる指令センターはなく,ナバーレ,レオン,アラゴン,ポルトガル,カスティリアという多様なキリスト教国が独自に作戦を実行した.時が経つにつれて3つの勢力が中心となった.アラゴンは地中海沿岸を,ポルトガルが大西洋沿岸を,そしてカスティリアが中央を南下した.それぞれの地域においても単一の王立軍による派手な勝利の連続で進んだのではない.実際13世紀まではキリスト教国側は大きな戦いのほとんどで敗北している.しかし辺境の男達による植民への飽くなき欲望が数多くの小さな戦いの勝利を呼び込み,前線を進めたのだ.
  • このような非集権的な組織による戦いだったので,キリスト教国側による南下はイスラムがセキュラーサイクルによる脱中心フェーズを迎えた時にのみ大きく前進することになった.
  • 10世紀のキリスト教国側の一時的前進はコルドバ朝のマンスールにより押し戻された.キリスト教国側は11世紀にコルドバ朝が分裂した時にまた前進することができ,カスティリアはトレドまで進んだ.しかしムラービト朝がスペインに侵入し,カスティリアは1086年にザラーカで大敗する.12世紀にはムラービト朝が衰退期に入りカスティリアは戦線を南下させるが,次に興隆したムワッヒド朝に大敗する.13世紀になるとキリスト教側は同盟し,ナバス・デ・トロサの戦い(1212年)でムワッヒド朝を圧倒する.13世紀の終わりにはイベリア半島のイスラム勢力はグラナダのナスル朝を残すのみになった.しかし14世紀と15世紀の大半の時期にレコンキスタはまたも停滞する.これはこの時期にカスティリアがセキュラーサイクルの脱中心フェーズに入ったからだ.
  • このカスティリアの内戦の不安定期は,1476年にイザベラが継承戦争に勝ち残った時に終わった.イザベラ女王は内乱期の混乱を収めるため,在郷軍組織を統一しサンタ・エルマンダー(神聖兄弟団)を設置し,警察権と司法権を与えた.これにより地方の秩序は回復したが,イザベルはこれをイスラムとの戦争に活用することにした.1492年にキリスト教国連合軍はグラナダを陥落させ,イベリア半島の辺境は消滅した.

 
この辺りがレコンキスタの歴史的記述ということになる.終盤ではたがいにセキュラーサイクルを繰り返して,押したり押されたりしていたことになるが,なぜ最終的にキリスト教国側が勝利したのかについては(略奪品が魅力的だった以外の)説明がない.(特にイスラム側は押し戻す時にはアフリカからの新勢力の侵入が鍵になっているが,なぜ15世紀にそれが起こらなかったのかも説明されていない)ここはちょっと物足りないところだ.ともあれここからレコンキスタが歴史に与えた影響が語られる.