War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その45

  

第7章 中世のブラックホール:カロリング辺境におけるヨーロッパ強国の勃興 その6

 
ターチンのフランク帝国とその後継国家群興隆物語.ライン川の西側では,ローマ帝国崩壊後一時的に成立したシアグリウス王国からローマ文化が西側のフランクの支配層に浸透し,人口の基層にガリア系が残り,移住してきたゲルマン農民と融合することにより,ライン川以東のゲルマンと少し異なる地域が形成された.
そしてここにヴァイキングが登場し,真のメタエスニック断層が現れることになる.
 

カロリング朝の北フランス辺境 その2
  • シアグリウス王国がフランク帝国に組み入れられたことは,本来北フランスの辺境の消滅を意味するはずだった.しかしそうはならなかった.
  • ローマ領ブリテン島は5世紀に無政府状態に陥り,ローマ軍団はそこを放棄した.そこには早速ピクト,アイルランド,サクソン,アングル,ジュート,フリースランドが侵入した.ケルト系の首長国はカオスから逃げ出し,英国海峡を越えてアルモリカ(セーヌ川とロワール川の間の北フランス)に定着した.この流れは6世紀まで続き,そこはブルターニュ(小さなブリテンという意味)と,人々はブルトン人と呼ばれるようになった.ブルトン人たちは(ブリテン島に荒廃をもたらした野蛮なゲルマン部族を酷く恨んでいたので,)フランクに恨みを抱き,フランキアを略奪するようになった.
  • フランクはブルターニュを征服しようとし,一時期征服したこともあるが,それは長続きしなかった.そしてブルトン人の襲撃に備えてブルターニュ辺境領を設立した.
  • ブルターニュ,ブルトン人というアイデンティティはフランスへの同化に対して非常に固い抵抗として作用した.例えば19世紀においてフランス政府は小学校でのブルトン語(ブレイス語)の使用に罰を課したりしたが,このアイデンティティは生き残った.
  • ブルトンもフランクもキリスト教徒であり,この辺境はメタエスニック断層とはいえない.しかし互いの敵意と略奪の応報は北フランスに低密度人口地帯を作り出した.そしてこのギャップは異なる略奪集団,つまりヴァイキングに楔を打ち込む余地を与えた.
  • ヴァイキング船団がブリテン諸島に最初に現れたのは790年のことだ.しかしフランク帝国が内部結束を保っているうちはそれは帝国にとって脅威ではなかった.しかしこれはシャルルマーニュの後継者をめぐる内乱が生じたことで変化した.840年代にヴァイキングはロワール,セーヌ,ソンムの河口部に基地を設立し,これらの川を使ってフランキア内部へ侵入し,略奪の限りを尽くした.
  • シャルルマーニュの孫の1人であるシャルル禿頭王(シャルル2世)はネウストリア辺境領を設立し,パリ伯だったロベール豪胆公に対ヴァイキング防衛の指揮をとるように命じた.内乱で崩壊しつつあるカロリング帝国には辺境防衛の余力はなかったのだ.防衛は現地で組織するしかなく,それは有能で勢いのあるパリ伯に任された.ロベールの息子のウード伯は英雄的に闘い,885年にヴァイキングからパリを防衛している.後のフランスの首都はその当時辺境の要塞であり,この豪胆公の血筋から後のカペー朝が生まれることになる.
  • スカンジナビア人たちはカロリング帝国の北西部を襲撃し始め,それはすぐに毎年のことになった.論理的な次のステップはベース基地を川の河口に設け,さらに帝国の奥深くを襲撃することだった.そしてベース基地はスカンジナビアからの植民を呼び込み,彼らは土地に居着いた.最終的に植民地区は河口から奥に広がっていった.911年にルーアンのヴァイキングの首領ロロはシャルル3世に土地をよこせと強要し,シャルル3世は勅許を与えた.この土地は後にノルマンディと呼ばれることになる.ロロはシャルル3世をリスペクトして翌年キリスト教に改宗したとされるが,これはほとんどフィクションだ.フランクの歴史家はロロが改宗後も捕虜を斬首し,北欧の神々に捧げたと記している.
  • スカンジナビアからの植民の流れは10世紀を通じて続き,ノルマンディは西に,南に,東に広がっていった.このノルマンの膨張は周辺地域に強い圧力を加えた.ブルトン人たちは崩壊し,彼らの首長国は海峡を越えて逃げ出した.
  • ノルマン人の戦団はフランクの領土を略奪し続けた(当時の歴史記録がいくつか引用されている).歴史家エレノア・サールが著書の中で書いているように,ノルマン人たちはフランクとの関係をa blood feud(血で血を洗う抗争)と捉えていたのだ.

 
 
フランスの北部は西側に突き出した半島がブルターニュ地方,その東が(第2次世界大戦で連合軍が上陸作戦を敢行したことで有名な)ノルマンディ地方,さらにその東がオー=ド=フランス地方,オー=ド=フランスの南のパリ周辺の内陸がイル=ド=フランス地方(ここはノルマンディとも接している)となる.ブルターニュ,ノルマンディという地名はブリテン,ノルマンが語源であり,ブルターニュは現在でもケルト由来の独自のアイデンティティを持っているとされる(モン・サン・ミシェルがどちらに属するかでよく論争になるとどこかで聞いたことがある).このターチンの記述はこの地方の民俗的な複雑さがどのように形成されたのかをわかりやすく解説してくれていて楽しい.
ターチンはブルトン人がまずフランクとの緩衝地帯としての空白を作り,そこにヴァイキングが入り込んで略奪を繰り返し,パリを中心としたフランクが防衛を余儀なくされたと説明してきたことになる.ここからメタエスニック断層が形成されたという説明に続く.