War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その46

  

第7章 中世のブラックホール:カロリング辺境におけるヨーロッパ強国の勃興 その7

 
ターチンのフランク帝国とその後継国家群興隆物語.北フランス地方にはローマ帝国崩壊後ブリテン島から逃れたケルト系がブルターニュに住みつき,フランキアとの間に辺境を形成,8世紀以降さらにその中間地帯(後のノルマンディ)にヴァイキングが侵入した.ターチンはこれにより北フランスに真のメタエスニック断層が形成されたとする.
 

カロリング朝の北フランス辺境 その3

 

  • 9世紀から10世紀にかけての,ノルマン人の度重なる襲撃とノルマンディ領の成立は北フランスにメタエスニック断層を形成した.それは500年前のローマ辺境と非常によく似ていたが,スケールは小さかった.
  • 断層の片方はロマンス語をしゃべるキリスト教徒たちであり,少なくとも支配層エリートには教養があった.もう片方は「野蛮な」ゲルマンのオーディン信仰者たちだった.11世紀に入ってノルマン人たちがロマンス語をしゃべるようになり,キリスト教に改宗しても,彼らはノルマン人であるというアイデンティティを保ち,フランクに敵意を持っていた.
  • 北フランスがノルマンからの圧力に対する効果的な抵抗を組織化するのには1世紀ほどしかかからなかった.一般的には辺境から新しい強国が生まれるのには2〜3百年程かかるので,これは通常よりもかなり素早い.北フランスの人々はローマの辺境民とフランクの移民から成りたっていた.フランク帝国の辺境にいることを自覚した彼らはコア地域のアサビーヤ腐食の影響を受けなかった.これにより10世紀の中ごろには,パリ伯,アンジュー伯,ブロワ伯,そしてノルマンジー公の周辺に政治的結束が生まれた.

 
北フランスはシアグリウス王国の流れを汲んで,フランク帝国の中で独自の民族的文化的領域となったので,フランク帝国のコア地域での結束力の低下の影響を受けにくかった,そして「野蛮な」ヴァイキングに接して彼らは効率的な防衛を組織化する必要に迫られ,通常より早く強国化していったというのがターチンの説明になる.
 

  • 結局のところ,スカンジナビアからの移民がノルマンジーの内側に定着した時,彼らも周辺の敵意ある隣人に囲まれていた.ヴァイキングたちは高いアサビーヤを持っていたが,彼らの結束は血縁グループに基づくもので,その規模は小さかった.とはいえこれは襲撃には十分だった.彼らが襲撃時に強力な軍隊と対峙したならさっさと船に乗って撤退すればよかったからだ.
  • しかしより大きな規模で防衛するには協力を学ぶ必要があった.エレノア・サールは「(北欧からの)移民の子孫たちはヨーロッパでもっとも規律あり結束した戦士社会を築き上げた.・・・イングランドの征服はそれにより可能になったのだ」と書いている.サールはノルマン人は血縁概念を拡大してノルマンディに戦士社会を作ったのだと主張している.

  • この「略奪性血縁社会」のもっとも良い例は南イタリアとシシリアのノルマン征服(Norman Conquest)だ.これは文字通りオードヴィル家の10人の息子たちからなる兄弟団によって成し遂げられたものだ.イングランドを征服したウィリアム征服王の軍隊も(文字通りの兄弟団ではないが)兄弟,いとこ,義理の兄弟などからなる血縁集団により形成されていた.
  • このような血縁,疑似血縁に基づくノルマンの結束メカニズムはその時代,その場所,そこのノルマン文化から生まれた特有なものだ.それはメタエスニックの辺境で生まれたノルマン国家であるがゆえのアサビーヤなのだ.

 
ターチンはノルマンコンクエストがイングランドと南イタリアで成功したのは,北部フランスで辺境にあったからだという議論をしたいようだ.しかしそもそもノルマンは(メタエスニック辺境とは言いがたい)北欧にいてなぜ効率的な略奪集団を形成できたか(ターチンの言うアサビーヤを形成できたのか)については全く説明がない(小さな血縁集団なら辺境でなくとも形成できるという理屈かもしれないが,ヴァイキングの初期の成功はそれだけでは説明しにくいだろう).都合が悪い部分は頬っかむりという風にも受け取れるという印象だ