War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その49

  

第7章 中世のブラックホール:カロリング辺境におけるヨーロッパ強国の勃興 その10

 
ターチンのフランク帝国とその後継国家群興隆物語.北西部の辺境から英国とフランスが興ったところがまず語られた.次は北東部の辺境,そしてドイツの興隆がテーマになる.

カロリング朝の北東部辺境 その1

 

  • 北西部の偏狭の複雑な歴史に比べて,北東部の辺境の歴史は理解しやすい.その歴史はイベリアのそれに似ている.実際にゲルマンの「東方への衝動(Drang nach Osten)」はレコンキスタによく似ている.
  • 注目すべきなのはエルベ川とオーデル川に挟まれた地域(ほぼかつての東ドイツとされた地域)だ.ローマ時代にはここにはゲルマンが住んでいた.しかしながらローマ帝国崩壊後ゲルマンはこの地を放棄し,代わりに西スラブが住みついた.ゲルマンはこの西スラブをヴェンドと呼んだ.
  • この入れ替わりがなぜ起こったかについて完全に理解されているわけではない.おそらく,その地域のゲルマン部族は,その中のもっとも活動的な人々が収奪の機会や豊かな土地を求めて西に移動したために弱体化したのだろう.そして同時期にスラブ人たちも西に拡大し始めた.この残留ゲルマン部族たちはスラブからの収奪と圧迫を受けて,より豊かな地に移った同胞に加わることを選んだのだろう.
  • このスラブの西方への移動は5〜6世紀に始まった.8世紀の終わりにはゲルマンのサクソンとスラブのヴェンドの境界はおおむねエルベ川のところにあった.シャルルマーニュが785年にサクソンを征服し,キリスト教に改宗させた時,このエルベ辺境はメタエスニック断層となった.

 
この本来ゲルマンがいた現在の東ドイツ地方にスラブが入り込んだ経緯は(文字に書かれた歴史があまりないので)あまりよくわかってはいないようだ.スラブが初めて歴史に登場するのはビザンツ帝国の6世紀の記述(ヴェネティ,スクラヴィニ,アントと呼ばれる諸部族がドナウ川の北方にいることを伝えている)になるようだ.もともと(現在のポーランド中央部を流れる)ヴィスワ川東岸辺りにもいたのか,さらに東から来たのかについても諸説あるようだ.いずれにしてもヴィスワ川流域にいたゴート族の西方移動,さらにフン族やアヴァールの移動に伴って西方に移動したらしい.

いずれにせよ彼らはエルベ川東岸まで侵入し,そこにゲルマン(ドイツ)との辺境が形成されることになる.
 

  • ゲルマンの東方への衝動は間欠的なものとして始まり,完了するまでに数世紀を要した.シャルルマーニュは様子見のような攻撃を行ったが,大した成果は得られなかった.カロリング帝国が崩壊したのち,ザクセンの土地はヴェンドからの襲撃対象となった.これに対する効果的な防御が形成されたのは10世紀のザクセン朝の皇帝たちの治下になってからだ.ザクセンとチューリンゲンのエルベ川,ヴェーザー渓谷地域は要塞化された.その後ゲルマンは反撃に出た.928年にハーフェル川を超えてブランデンブルグに攻め入った.翌年皇帝ハインリヒ2世はレンツェンの戦いでスラブ軍を打ち破り,その後マグデブルクに大司教を置き,東ドイツをいくつかの教区に分割し,スラブをキリスト教を改宗させようとした.
  • しかしながら983年にはスラブは反撃し,エルベ川東岸の多くの地を取り戻した.問題は皇帝が東ドイツよりイタリアに興味を持っており,辺境領主たちの軍事力が不十分だったことだった.ここから1世紀半,東方への衝動は停滞する.

 
ゲルマン(ドイツ)は辺境をめぐる攻防戦の末,一旦放棄した土地を取り戻しにかかることになる.そしてこれはのちのドイツの東方拡大につながる.