War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その50

  

第7章 中世のブラックホール:カロリング辺境におけるヨーロッパ強国の勃興 その11

 
カロリング帝国の北東部にはエルベ川東岸にゲルマン(ドイツ)とスラブの間のメタエスニック辺境が出現した.まず9世紀にドイツが侵攻し,10世紀にスラブが押し戻したところまで語られた.ここから11世紀以降辺境がその両側にどういう影響を与えたかが語られていく
 

カロリング朝の北東部辺境 その2

 

  • 何世紀にもわたるゲルマンの東方への衝動はスラブ(そしてのちにバルト)の人々に大きな圧力となった.衝動が進むにつれて,それはチェコ,ポーランド,リトアニアという国家の形成のトリガーとなった.チェコとポーランドは11世紀の初めにキリスト教に改宗した.チェコは帝国内の従属的な地位を受け入れた.ポーランドはさらに東にあったので抵抗を組織化した.
  • 歴史を振り返るとチェコにとってもポーランドにとってもキリスト教への改宗はよい決断だった.改宗があったので,そのアイデンティティ,言語が生き残れたと考えられるからだ.
  • 異教にとどまったスラブ部族,例えばオボトリート族,ルティシア族,ラーン族はそれぞれ独自の戦闘的組織化された異教の形態を発達させた.(具体的な信仰の内容が説明されている)
  • ザクセンとポラート(オボトリート族の一派)の抗争はジェノサイドと形容できるものだった.スラブの襲撃部隊は男を皆殺しにし,女と子供を奴隷にした.ザクセンは残虐な大量殺戮で報復した.(それぞれがいかに残虐だったかが形容されている)

 
ターチンはキリスト教に改宗した民族は消滅を免れ,改宗しなかった民族は組織的抵抗の末にジェノサイドの憂き目に遭ったと言う風に語っている.改宗が決定的に重要だったのか,組織的抵抗の有無こそが問題だったのかはあまり深掘りされていないが,興味深いところだ.
 

  • (ドイツの)東方への衝動はコンラート3世時代(1138~52)に再開された.十字軍への圧力は皇帝からではなく草の根からだった.拡張の動きにコンラート自身はかかわっていない.それはハインリヒ獅子公,ザクセン公,アルブレヒト熊公などの辺境貴族たちにより組織化された.イデオロギーは教皇から提供され,東方十字軍として認められた.十字軍参加者の動機は(異教徒は邪悪だという)イデオロギーと(収奪により得られる)自己利益だった.

 
ドイツ騎士団による東方十字軍はドイツの東方拡張の要となった.この辺りの歴史はなかなか面白い.

 

  • この時期に東ドイツは恒久的に征服され.ハインリヒ獅子公はエルベ川を越えて侵攻した.1226年にはドイツ騎士団が結成された.ドイツ騎士団は異教プロイセンに攻められたマゾシェフ公コンラートからの救援要請に応えた.公は騎士団にクルムラント領を与え,今後征服する領土の所有権を保証した.1236年,ドイツ騎士団はラトヴィアにあったリヴォニア帯剣騎士団と合併し,プロイセンを征服し,現地人の大量虐殺,生存者の強制改宗,ドイツ化を行った.さらに新たに征服された土地にはウェストファリアの貴族,シトー派の修道士,フランドルやゲルマンの商人,ザクセン,オランダ,デンマークからの農民などの大量の植民が流れ込んだ.
  • 13世紀を通じて東ドイツは多様な人々の坩堝となり,最終的にみなドイツ人になった.特にドイツ化が進んだ地域にはベルリンを抱くブランデンブルグ,ポメラニア,プロイセン,シレジアがあった.この4つの地域は17世紀~19世紀に現代ドイツが統一される時の中心になる.

 
フランスの形成が,古代ローマガリアの要素を残すものだったのに対し,プロイセンなどのドイツ化はかなり異なるものだったというのがターチンの説明になる.この辺りの違いは興味深いところだ.
 

  • ブランデンブルグ・プロイセン・ドイツの興隆は急速だった.ウィリアム・マクニールは「The Rise of the West: A History of the Human Community」においてこう書いている:「1640年に選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム・ホーエンツォレルンがブランデンブルグで権力を握った時には,プロイセンは貧しい辺境州に過ぎず,その他の領地はドイツ中に散らばっていた.しかし1688年に彼が死んだ時にはブランデンブルグ・プロイセンはすべてのリソースを軍事力に注ぎ込む軍事国家となっていた.貴族,聖職者,ギルドなどが持っていた特権は,軍事目的に劣後するとされた.この結果プロイセンは単に防衛能力を持つだけでなく,新しい土地で膨張する能力を持つに至った.」つまり,プロイセンは戦争のために組織化された社会となった.

 

 

  • ブランデンブルグ,プロイセン,ポメラニア,シレジアはすべて東方への衝動の産物だ.そして17~18世紀を通じてこれらの辺境州は再興するドイツの核となった.現代のドイツのコアの大半がこれらの地域の外側になっているのは歴史のアイロニー,ヒトラーにとっては残念だろうが,第三帝国の敗北の結果だ.

 
ターチンによるドイツのコア地域の形成は東への侵略を目的にした軍事優先国家によるものだということになる.防衛というより一方的な侵略の様相が濃いので,ここではあまりアサビーヤは強調されていない.