書評 「ゴキブリ・マイウェイ」

 
本書はクチキゴキブリの翅の食い合いをリサーチしている若手研究者の自伝的研究物語.リサーチのテーマはゴキブリの配偶ペアの翅の食い合いという極めて興味深いものだ.4年ほど前にオンラインセミナーで聞いてとても印象的だったので迷わず購入した一冊になる.
  

はじめに

 
冒頭は飛行機のキャビンに持ち込んだリュックが実は採集したゴキブリでいっぱいであることをCAさんに隠した*1背徳的なエピソードから始まる.そして題材のクチキゴキブリの生活史が実に興味深いものであることが解説されている.彼らは生まれた朽ち木から分散後,オスメスでペアを形成して新たな朽ち木に定着,朽ち木を食べながらトンネルを造り,そこで一生を終える.生涯モノガミー(一切浮気しないと考えられている)であり,卵胎生で子を産み,両親ともに口移しで餌を与えて子育てを行う.そしてペアは翅を食い合うのだ.いかにも興味深い.これで読者をぐっと掴み,ここから物語が始まる.
 

第1章 やんばるの地に降り立つ

 
第1章は本書を読む上で役立つ様々な基礎知識解説章となっている.研究材料であるリュウキュウクチキゴキブリの採集とその翅の食い合いの様子,ゴキブリの定義(ゴキブリ目(Blattodea)昆虫でシロアリ以外のもの*2),生態的位置づけ(ゴキブリの99%は森林で朽ち木,落ち葉,昆虫の死骸などの分解の第一段階を担っている),著者とゴキブリの出会い(中学時代に教師に昆虫の研究をしたいと相談し,マダガスカルオオゴキブリを取り寄せてもらった時に始まる),クチキゴキブリの系統的位置づけ(ゴキブリ目,オオゴキブリ科,クチキゴキブリ属)とオオゴキブリの卵胎生のメカニズムと適応的意義,行動生態学の基本的考え方などが手早く説明されている.
 

第2章 謎の行動、翅の食い合い

 
第2章から研究物語が始まる.学部4年生の4月に九州大学の粕谷研に配属され,そこでクチキゴキブリの卒業研究を志望する.すると5~6月の新成虫シーズンまでに調査地を決めて実際に採集しなければデータが取れない.ここをくぐり抜けるドタバタと突進力が楽しい読み物になっている.
ここでテーマである「翅の食い合い」についての解説がある.

  • 新成虫のオスとメスは交尾前後に互いの翅を食い合う.最終的に付け根まできれいに食べられて,両者とも飛翔能力を失う
  • この行動はクチキゴキブリでしか見つかっていない.そして交尾前後に生じる行動であるので繁殖と密接に関連していると思われるが,その適応的意義は全く謎である(ここでこれまで知られている似た行動として「性的共食い」と「婚姻贈呈」が解説され,このどちらとも異なることが説明されている)
  • 著者が研究を始めた時点で,クチキゴキブリの翅の食い合いについては(成虫の翅が根元から無くなっていることから)そういう行動をするのだろうとされていたが,実は正式に論文として発表されている研究は皆無で.唯一未発表の修論があるだけだった.そしてそれもふくめて実際の食い合いを誰も見たことはなかった.

著者はこの修論の執筆者にも連絡をとり,まずは翅の食い合いがどう進行していくかを観察記載することにする.
 

第3章 三度の飯より研究

 
第3章では少し時間が遡り,研究が始まるまでの物語になる.
子供のころからの昆虫好き,図鑑の中で「生態」という言葉に出会い,生態学を志して九州大学理学部に進学する.最初の「生態学」の講義は矢原徹一によるもので(あとから考えると)個体群生態学よりの講義で動物の行動を扱う学問という感じではなくちょっと失望する.しかし図書館で調べて動物行動学に出会う.そしてファーブルの昆虫記のようなことがやりたいと感じ,最終的に行動生態学を目指し粕谷研の門をたたくことになるという顛末が率直に語られている.
 

第4章 クチキゴキブリ採集記

 
物語は大学4年時のやんばるでのゴキブリ採集時に戻る.資金獲得,採集道具(手鋤,ハブよけの鉄板の入った靴,収納容器,ウエストポーチなど),採集の様子(基本は朽ち木を手鋤でばこばこ割っていく)の様子が語られている.
 

第5章 実験セットを構築せよ

 
ゴキブリを無事採集してきたあとは飼育方法確立の苦労話だ.光源問題(ハンダ鏝片手に120個の赤色LEDライト自作),飼育場所の確保(研究室の片隅に物干し竿とハンガーラックをを使った暗室を作成),ビデオカメラの設置,飼育容器の選定と環境確保(セルロースパウダーの使用が決め手)をめぐる試行錯誤が語られている.
 

第6章 戦場でありフェス、それが学会

 
ここで研究物語から一旦脇道にそれて,学会について.
学会とはどんなところか(最も重要なことは実績や就職*3につながる人脈作りでいかに自分を売り込むかがポイントだが,しかし単純に楽しいところでもある),シロアリ研究の第一人者の松浦教授とつながれた*4こと,様々な学会賞と受賞経験,国際学会体験記などが語られている.
 

第7章 翅は本当に食われているのか?

 
話は翅の食い合いの観察に戻る.安定した飼育技術確立までの苦労(白色腐朽材を供給するためのクワガタ飼育用の菌糸ビンと飼育容器としての「ディッシュ」がブレークスルーになる),録画と再生の忍耐が語られている.そして著者はついに翅を食うところを観察することに成功する.
 

第8章 論文、それは我らの生きた証

 
そして著者は発見した知見を論文に書くことになる.ここでは論文とは何か,基本構成,初めての論文執筆*5,まず翅の食い合いの発見を報告する論文に書くことにしたこと,論文の投稿先の雑誌選び,英文論文を書くことの苦労*6,リジェクト,メジャーリビジョンを経てのアクセプト,思いがけない大きな反響(New York Timesにも取り上げられたそうだ)が語られている.
 

第9章 ゴキブリの不可思議

 
翅の食い合いの発見の報告論文は受理された.そしてもちろん「この行動の適応的意義は何か」が最も興味をそそるテーマとして残っている.第9章ではその謎へのチャレンジが描かれる.ここは本書の中でも読みどころだ.著者の探求の過程を少し詳しく紹介しよう.

  • 子育て投資は卵を作るメスの方が大きい.だから翅は栄養源としてオスがメスに与え,メスの翅もオスがとってあげてメスが食するのだろうか.しかし観察によるとオスはメスの翅を食べ,メスがオスの翅を食べるだけだった.そして翅はほとんど消費されずに排出されているので養分になっているわけではない.
  • 翅を食べられると飛翔できなくなる.ではこれは相手の翅を奪って自分のところに留まらせる手段なのか.しかし子育て投資のアンバランスから考えてメスにはそうするメリットがあるが,オスには考えにくい.またこの考えは性的対立があることが前提になっているが,オスが翅を食われるのに抵抗している様子はない.
  • そもそもこの性的対立は繁殖の律速段階がオスでは交尾相手の数,メスでは生産できる卵の数になっていることから生じるものだ.これはオスが交尾後にメスの元を去ったあと次の交尾相手を見つけることができることが前提となっている.しかしクチキゴキブリの場合一夫一妻で両親による子育てをする生物であり,この前提が成り立っているとは限らない.
  • クチキゴキブリの両親による子育ての進化過程を系統的に分析すると,メス親単独保護から進化したと思われる.この保護は半年ほど続くのでメスは一旦交尾すると繁殖プールには戻らないだろう.また性比はほぼ1:1なので,交尾後メスの元を離れたオスが新しい交尾相手と出会うのは難しいだろう.こういう状況下でオスは交尾後メスの元を去らずに子育てに参加した方が(給餌や衛生環境の維持など投資を増やすことにメリットがあり)適応度が上がったと思われる.これに次のシーズンの交尾相手も確保できるメリットが加わっただろう.つまりクチキゴキブリにおいては性的対立が非常に小さくなっている可能性があると思われる.
  • このような状況下ではオスとメスの間に協力が進化しやすいだろう.翅の食い合いは一種の協力行動と捉えることができるのではないか.
  • 翅の食い合いの実際の様子を見ると,ゆっくり休み休み交代で齧っている.これは急いで食べなくても相手も抵抗しないという協力状況と考えると理解しやすい.

すると「その協力によるメリットは何か」が次の問題になる.ここは現在著者が仮説をもって検証中ということで仮説の内容は本書では伏せられている.
 
ここからは「翅を齧れなくしたらどうなるか(何らかのデメリットが顕現するか)」という実験をめぐる苦労話(どんなに工夫してもゴキブリたちはそれをかいくぐって齧る),それをさらに何とかかいくぐってUVライト効果樹脂を使って成功したもののなんらデメリットが観察できなかったことが語られ,このことから(協力のメリットは)繁殖上の直接的なメリットではなく,衛生的なメリットかもしれないことが示唆されている.
 
この章は性的対立にかかる考察が秀逸だ.ここでは性的対立があまりないことがフィッシャー条件の吟味から語られていて理論的にも深い.なお(あたためている仮説については非開示としながら)協力のメリットについては衛生的なものが示唆されている.これに加えてコミットメント的なもの(翅を食べてもらうことにより,もはや裏切らないことをコミットし,相手により協力的になってもらう)があれば楽しいというのが私の印象だ.
 

第10章 研究者という生き物

 
最終章では著者が研究者としての矜持を語っている.研究者のキャリアルートの概要,大学教員をめぐる厳しい環境(雑務と資金獲得),博士課程で得られるもの(何を大切にするのかを考える時間),研究とは何か(マルチな能力を求められる総合格闘技),研究者の本質は何か(考えることと知的好奇心),現在の環境(学振CPDにより海外で研究中)が率直に語られている.
 
以上が本書の内容になる.ゴキブリの翅の食い合いという興味深い題材をめぐる研究物語が,昆虫好きの少女がゴキブリの研究者として一本立ちするまでの経緯とともに率直に語られている.そしてこれがどんなところにも超オプティミスティックに体当たりで突貫していく痛快物語として仕上がっていて,読んでいてとても楽しい.(粕谷門下だけあって)理論的な考察の部分も深く,科学書としてもいい仕上がりだと思う.このゴキブリ研究がさらに進展することを期待したい.また添えられている見事なイラストはすべて著者自身の手になるものだそうで,ゴキブリ愛があふれていて素晴らしい.ゴキブリ好きな人だけでなく行動生態学に興味のある人にとっても嬉しい一冊だと思う.
 
 
著者登場のオンラインセミナー
shorebird.hatenablog.com

*1:中身を問われて「土です」と答えたそうだ.隣の乗客のメンタルを慮ったのであり,土も入っているので嘘ではないという弁明がなされている.

*2:2007年にこれまでシロアリ目とされていたシロアリがゴキブリ目に完全に包含されることが明らかになったそうだ

*3:ここで学振制度の概要が説明されている

*4:京大の研究室を訪ね,シロアリの飼育法を教えてもらったり,論文の図を提供して共著者になったりというエピソードが語られている

*5:著者初めての論文は翅の食い合いの発見ではなく,クチキゴキブリのトンネルに居候しているカメムシの報告についての論文だったそうだ

*6:最も苦労するのはdiscussionではなく正確でわかりやすい説明が求められるmaterials & methodsなのだそうだ.