War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その51

  

第7章 中世のブラックホール:カロリング辺境におけるヨーロッパ強国の勃興 その12

 
カロリング帝国の北東部にはエルベ川東岸にゲルマン(ドイツ)とスラブの間のメタエスニック辺境が出現した.ドイツはエルベ川を超えて侵攻し,さらに東への侵攻拠点としての軍事組織社会としてのブランデンブルグ・プロイセンが興隆した.この地域は近代ドイツの中核となる.ターチンは続いて辺境のスラブ側,リトアニアの興隆を語る.
 

カロリング朝の北東部辺境 その3

 

  • 改宗と植民地化の結果,13世紀の末にはデンマークからエストニアまでのバルト海沿岸はラテンキリスト教世界の一部になった.この動きにより多くのバルト海沿岸の民族は征服された.その1つは(今や征服者プロイセンの名前としてのみ残る)プロシア人だ.エストニア人やラトビア人も一旦征服され,ドイツ支配下で生き延び,20世紀になってようやく小国として復活を果たすことになる.しかしある民族だけは団結して対抗し,独自の帝国を興した.それがリトアニアだ.

 
現在,バルト民族はラトビアとリトアニアを構成する民族集団とされる.(エストニア語はバルト語族ではないので,エストニアはバルト民族とはされないようだ).12世紀ごろまで似たような境遇にあったバルト海沿岸の様々な民族のうちリトアニアだけは数百年続く大帝国を形成している.これはリトアニア大公国として知られており,現在のリトアニア地域(この領域はリトアニア民族の故郷とされているようだ)に加えて東スラブのベラルーシおよび西ウクライナ地域および現在のポーランドの東側を包摂する国家だった.ターチンはこの大公国の勃興を詳しく語る.
 

  • 1203年にリガの刀剣兄弟団(the Sword-Brothers of Riga)が後のリトアニアとなる領域に侵入した時にそこにリトアニア人というべき人々がいたわけではない.そこには戦士階級が統べる様々なバルトの農民たちの部族がいた.2世紀前にロシア人がキリスト教に改宗し,これらのバルトの異教徒たちはメタエスニック辺境に接することになった.彼らはポロツク公国からの襲撃圧力を受け,時に貢納を強いられた.キエフ大公国が12世紀に分裂した時,バルト人たちは部族単位で要塞を持ち,武装した部隊を組み,ポロツク公国を含む周囲への襲撃を始め,家畜,奴隷,銀を収奪した.彼らの人口密度は低く,深い森に囲まれて分散していたので,襲撃圧力自体がそれほど大きかったわけではない.
  • 状況はドイツ騎士団と刀剣兄弟団の組織された略奪騎士が現れて大きく変化した.13〜14世紀を通じて「プロトリトアニア人」は西と北から同時に圧力を受けたのだ.彼らは同胞部族がドイツの圧倒的な力に殺戮され,支配されるのを目の当たりにした.1240年代からはさらにモンゴルによる殺戮が加わった.彼らは抵抗するか服従するかの選択を迫られ,前者をとった.リトアニア人たちは団結し,ヨーロッパで最大の帝国の1つを作るに至った.

 
ターチンはリトアニアも辺境における襲撃からの防衛で形作られたという説明を行う.ターチンのスタンスからは当然の議論ということになるだろう.ここで物足りないのは,ではリトアニアとエストニア,ラトビアの違いは何だったのかが全く説明されていないことだ.もちろんターチンは辺境の民族すべてが強国を形成すると入っていないが,何らかのコメントはほしかったところだ.あるいはそれは単なる歴史の偶然という風に考えているのかもしれない.
 

  • 1219年にはリトアニアの王子は20人いた.しかしその40年後にはそのうちの1人であったミンダウガス(初代リトアニア大公)が全国民に従軍命令を出せるようになっていた.これが統一に向けての最初の試みだったが,ミンダウガスは1263年には義理の弟に暗殺されてしまう.
  • その後もドイツ騎士団からの圧力は継続した.14世紀の初めには次の統一に向けての試みが始まった.大公ゲディミナスの元,リトアニアはかつてのキエフ大公国(その時点ではモンゴルのキプチャクハン国(ジョチウルス)の支配下にあった)の地域に拡大を始めた.拡大は次の大公であったアルギルダスの時代にも続き,リトアニアは黒海に達した.次の大公ヨガイラはポーランドのヤドヴィガ女王と婚姻した.
  • 15世紀を通じてリトアニア=ポーランドはヨーロッパにおける最大領域国となった.1410年,ヨガイラはグリューンヴァルトの戦いでドイツ騎士団を打ち負かした.1466年,ドイツ騎士団はポーランドの王冠に従うものとなり,そのメンバーの半数はポーランド人となった.このスラブ・バルトのドイツ十字軍に対する勝利は歴史の中の大きな転換点の1つだ.
  • しかしいかなる勝利も永続しない.18世紀の末には,もともとはポーランド王臣下だったプロイセンのホーエンツォレルン家の王たちは,ハプスブルグ家やロマノフ家と競い合いながらポーランドの地を削り取り始めたのだ.

 

  • 14世紀の末までリトアニアは異教信仰だった.なぜなら,それは対立する十字軍のカトリック信仰に対抗するものであり,彼らのナショナルアイデンティティの一部だったからだ.しかしながらドイツからの圧力が減じるにつれて,リトアニア人たちは異教を捨てることができることに気づいた.ヨガイラはポーランドの王権を得るための取引として,1386年に洗礼を受け入れた.当初には抵抗もあったが15世紀を通じてリトアニア人たちは徐々に改宗した.彼らはキリスト教に改宗した最後のヨーロッパ人となった.

 
ここにポーランドから西ウクライナまではリトアニア=ポーランド(さらに大公国衰退後ハプスブルグ帝国領)のもとでのカトリック,東ウクライナからロシアにかけてはロシア正教という境界が形成され,様々な文化的な影響を残すことになる.現在では境界は緩やかなグラデーションのようになっているとされるが,なお違いは残っている.ウクライナの西側の人々と東側の人々の間には親欧州か親ロシアかの心情的な違いがあるといわれるが,これはその遠因となっているとされる.これは現在のウクライナ戦争にも大きく影響しているだろう.