War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その52

  

第7章 中世のブラックホール:カロリング辺境におけるヨーロッパ強国の勃興 その13

 
カロリング帝国の辺境.ここまで南西部辺境とスペインの興隆,北西部辺境とイギリス,フランスの興隆,北東部辺境のドイツとリトアニアの興隆をみてきた.最後に残るのは南東部辺境になる.
 

カロリング朝の南東部辺境 その1

 

  • 本章で議論した3つの辺境は,ある意味ローカルな問題だった.これらのダイナミクスはせいぜい数百キロ程度の範囲で生じた出来事に影響されていたに過ぎない.しかしラテンキリスト教世界の南東部の辺境は何千キロも離れたユーラシアの反対側の出来事に大きく影響された.そこにはモンゴルと北中国の接触面があり,世界最大規模のメタエスニック辺境となっていた.
  • このアジア内部の辺境は紀元前第1千年紀に形成され,中国の様々な王朝形成の要因となった.ステップサイドからは匈奴,突厥(トルコ),蒙古(モンゴル)が興った.

 
ここでターチンは中国とモンゴルの境目を世界最大のメタエスニック辺境としている.たしかにうねるように流れる中国史はこの辺境を抜きにしては語れないだろう.ここでターチンは言及をヨーロッパまで影響を与えた民族に限っているので,匈奴,突厥,蒙古のみを紹介しているが,中国史に大きな影響を与えた遊牧系民族としてはこれら以外に,契丹(遼を建国),女真(契丹とともに金を建国),満州(清を建国),鮮卑・拓跋(隋や唐のかなりの要素を占める)があり,その他にも多くの民族が知られている.
 

 

  • これらの遊牧国家はいずれも巨大な帝国となり,他の遊牧民を服従させたり全滅させたりした.圧迫を受けた遊牧民は戦士を集結させ,女子供や家畜とともに西に向かった.そしてその圧力を受けた遊牧民がさらに西に向かうというドミノ効果を引き起こした.この結果中国発の帝国興隆パルスが圧力波となってステップを伝わった.この波はユーラシアステップの最西端であるハンガリー平原に達した.

 
ターチンはまるでハンガリー平原が中央アジアのステップと直接つながっていてその西端であるかのように書いているが,実際には中央アジアステップが直接つながっている平原はウクライナ,ポーランドにあり,ハンガリー平原はカルパティア山脈で隔てられている.ちょっと微妙な描き振りだが,波がハンガリー平原に何度も到達したのは歴史的事実ということになる.
 

  • 最初にハンガリーに到達した波は(匈奴の末裔とも言われている)フン族によるものだった.次の波はアヴァールによるものだ.アヴァールは突厥(トルコ)の一派だと言われている.そして次にマジャールが現れた.最後の波はバトゥーによるモンゴルの襲撃だった.モンゴルは1241年にハンガリーの軍隊を壊滅させた.しかしバトゥーはモンゴルの後継者選抜に参加するためにそこを去った.
  • ハンガリーに遊牧民が達するたびに隣接するドナウ川中流域(現在のオーストリア,チロル)は恐るべき隣人を迎えることになった.これがラテンキリスト教世界の南東部辺境を形成した.カロリング期の788年,シャルルマーニュはババリアをフランク帝国に組み入れた.その当時,後にオーストリアとなる地域はアヴァール帝国の支配下にあった.そこから8年かけてフランクはアヴァールを打ち負かし,東辺境(Ostmark:後のオーストリアの語源)を置いた.そこはババリアからの植民によりほぼ完全にゲルマン化した.
  • その後100年ほどハンガリー平原は権力の空白地だった.アヴァールは瓦解したが,フランク帝国に植民を進める余裕はなかったのだ.どのみち9世紀にはカロリング朝は停滞期に入った.その地の人々はダキア,ゲルマン,フン,アヴァール,スラブの寄せ集めであり,国家として組織化されていなかった.
  • この空白にマジャール(ハンガリー)が入り込んだ.マジャールの謎の1つはその言語だ.ハンガリー語はフィン・ウゴル語族に属しており,それは北方ユーラシアのもの(フィンランド語,エストニア語などが含まれる)だからだ.一部の学者は彼らは北欧に起源を持つのではと主張しているが,おそらく,彼らはウゴル語を話す森の人々と遊牧民であるトルコの何らかの相互作用の結果形成されたのだろう.言語以外のすべての特徴は彼らがフンやトルコと同じ遊牧民の部族連合であることを強く示唆している.実際に中世ヨーロッパ人は彼らのことを単純にトルコと呼んでいる.
  • マジャールはハンガリー平原に定着した後すぐにカロリング朝の土地を襲撃し始めた.襲撃の一部はフランスまで達した.オーストリアはその襲撃の通り道となり,荒廃した.
  • 924年ザクセン朝の初代皇帝(ハインリヒ1世)はマジャールに襲撃をやめてもらう代わりに貢納することを承諾した.しかしながらザクセン朝ドイツが統合されその力が増すとともに(それにはマジャールからの圧力も要因となっていただろう),ドイツは攻撃的になっていった.955年,オットー大帝はレヒフェルトの戦いでマジャールを打ち負かした.東辺境が再設置され,ババリアからのオーストリアへの植民が再開した.同時に襲撃がうまくいかなくなったハンガリー人たちも落ち着いた.彼らは遊牧民から農耕民に転換し,キリスト教ヘの改宗にも関心を向けるようになった.最初の改宗の試みは(ハンガリー初代国王の)イシュトバーンによるものだった.しかし1046年には反動が起こった.異教の部族長たちがイシュトバーンの後継者を殺し,キリスト教徒を殺害したのだ.ハンガリーが本当にキリスト教化したのは12世紀になってからだ.
  • それでもハンガリーの改宗は重要な転換点となった.ハンガリーはラテンキリスト教世界の一部になった.ドイツとの対立感情は19世紀まで続き,時々戦っていたとしても,ハンガリーとドイツの間にメタエスニックな分断はなかったのだ.

 
ハンガリーの歴史は世界史ではあまり詳しく取り上げられないところでもあり,ターチンの語り口はいろいろと楽しい.
ハンガリー平原はしばしば遊牧民の脅威に晒された最前線ということになる.ターチン流に考えるなら,ここに強国が興ってもよさそうなものだが,パルスが2〜3百年に一度ぐらいの頻度で,来た時には壊滅してしまうので強国にはつながらなかったということだろうか.いずれにせよターチンはその隣のオーストリアに注目している.