日本進化学会2018 参加日誌 その7

大会第四日 8月25日 その1


また夏空の戻った8月25日.進化学会最終日は通常の講演・発表ではなく夏の学校と一般講演会になる.

進化学夏の学校 系統地理研究の基礎と新展開:地域の集団はいつ,どこから来て,どう適応したのか

イントロダクション 岩崎貴也
  • 系統地理学;phylogeographyは最近作られた学問だ.系統情報と地理情報をあわせ「分布形成の歴史を明らかにする」学問ということになる.
  • 地域集団がいつどこから来たのか,その経路,移動障壁は何だったか,(厳しい時期に)生き延びた場所はどこかなどが当初議論された.最近ではその地域の生物集団とどう適応したのか,地理的変異はどう形成されたのか,適応遺伝子はどこでどう頻度を上げたのかなども取り扱われるようになっている.
  • この分野を立ち上げたのはジョン・エイビスで,参考文献としてはまず彼の書いた教科書がある.このほか分野全体に関する本として種生物学会の本もある.また特定の分類群についての本もいくつか出ている.

Aviseによる大著 私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20090511

生物系統地理学―種の進化を探る

生物系統地理学―種の進化を探る


種生物学会によるもの.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20130704

系統地理学―DNAで解き明かす生きものの自然史 (種生物学研究)

系統地理学―DNAで解き明かす生きものの自然史 (種生物学研究)


淡水魚類についてのもの.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20100413

淡水魚類地理の自然史―多様性と分化をめぐって

淡水魚類地理の自然史―多様性と分化をめぐって

  • 作者: 井口恵一朗,大原健一,北川忠生,北村晃寿,佐藤俊平,高橋洋,武島弘彦,竹花佑介,向井貴彦,山本祥一郎,横山良太,淀太我,渡辺勝敏
  • 出版社/メーカー: 北海道大学出版会
  • 発売日: 2009/12/22
  • メディア: 単行本
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日本および東アジアの哺乳類,爬虫類.両生類についてのもの.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20060215

動物地理の自然史―分布と多様性の進化学

動物地理の自然史―分布と多様性の進化学

  • 作者: 浅川満彦,阿部永,石黒直隆,太田英利,大館智氏,押田龍夫,鈴木仁,高橋理,永田純子,前田喜四雄,増田隆一,松井正文,松村澄子,馬合木提哈力克,渡部琢磨
  • 出版社/メーカー: 北海道大学出版会
  • 発売日: 2005/05/25
  • メディア: 単行本
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日本の哺乳類についてのもの.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20171110

哺乳類の生物地理学 (Natural History Series)

哺乳類の生物地理学 (Natural History Series)


応用にかかる本としてこの本も紹介されていた

地図でわかる樹木の種苗移動ガイドライン

地図でわかる樹木の種苗移動ガイドライン

  • 分布形成の歴史は地域適応の歴史でもある.この中にでもそれは自分と関係ないと思っている人もいるかもしれないが,そんなことはない.すべての生物には分布情報があるのだ.(いくつかの例が示される)
  • モデル生物のシロイヌナズナも2016年に地理的適応のメカニズムが解析された.
  • 系統地理は生物の進化的な面白さの解明に欠かせない.しかし日本進化学会における発表は減っている.進化は系統樹の中で起こるのではなく自然の中で起こるのだ.本来地理情報とは切り離せない.
  • 系統地理学は進化研究にとって基礎となる自然史研究であり学生的な総合研究でもある.


系統地理学が描く分布形成の歴史の進展と制約:高山植物の研究を例に 池田啓
  • 種生物学会のこの本だが,これが出版されたのが5年前.そこから大事なことは変わっていない.ただし,データは次世代シーケンサーで増大している.

系統地理学―DNAで解き明かす生きものの自然史 (種生物学研究)

系統地理学―DNAで解き明かす生きものの自然史 (種生物学研究)

  • 系統地理学の体系はAvise1987により定義された.その後彼により教科書が書かれ,訳本も出ている.

Phylogeography: The History and Formation of Species

Phylogeography: The History and Formation of Species

生物系統地理学―種の進化を探る

生物系統地理学―種の進化を探る

  • 今日は(1)系統地理学とは(2)系統地理学の研究例(3)系統地理学から考える生物進化について話をしたい.
  • (1)系統地理学とは
  • 植物の図鑑にはしばしば分布域の記載がある.そしてこの分布域の記載にはリンネ以来の歴史がある.リンネはコケモモの記載において世界中の標本を確認して分布域を載せた.
  • その後分布域情報は積み重なり,現在ではGBIFというデータベースができている.分布情報を使うと分布域の種間比較ができる.すると類似したパターンを持つ生物が多数あることがわかる.
  • この分布域のパターンの形成要因についての研究は,19世紀に始まり「生物地理学」と呼ばれる.地史,進化,地形,生物の相互作用,気候を総合的に扱うことになる.地史と進化は歴史的要因,残りの3つは生態的要因ということになる.
  • 系統地理学はミクロ進化,分子遺伝学,マクロ進化(生物地理,古生物.系統学)の3つの観点から生態的な生物地理を考察する学問になる.
  • 系統地理学はその黎明期には.系統学(種間分子系統),歴史生物地理,集団遺伝学のと烏合的な学問として始まった.そして現在は種内系統も用いるようになっている.
  • (2)系統地理学の研究例
  • 日本の高山植物の研究例を紹介しよう.高山植物はきれいな花を付けるので人気があり,日本に460種ほど生息する.だいたい北極圏,北太平洋沿岸地域と共通する.日本の分布の半分は北海道で,あとは東北,長野にまとまった分布があり,その他いくつかの小さな分布がある.
  • この本州の分布について1959年にベーリンジア由来だという説が提唱され,おおむね受けいられているが,氷河期を通じて.いつ,何度侵入したのかはよくわからなかった.
  • 20年前に葉緑体DNAを使って2種の南北分化を調べた.両種とも北海道と本州中部で分かれた.これは2回以上の侵入を強く示唆している.さらに葉緑体を集団レベルで解析すると北と南で一貫して異なり,東北と中部の間で線が引けることがわかった.これは核マーカーを用いたリサーチでも支持された.
  • ではこの2回以上の侵入はいつなのか.次は時間軸の推定.IMモデルを用いてパラメータを推定することになる.これによると分岐は最終氷期より古く11万年前〜30万年前ということが示された.つまり長野より南の分布は最終氷期より前の間氷期に侵入していることになる.では北への侵入はいつか,これには千島列島の調査が望ましいが,現在はやや難しい.
  • 片方で北太平洋沿岸の古植生は花粉データからかなりわかってきている.これを用いて分子的に調べると,カムチャッカと北海道の間にも違いが見られる.さらに調べると北海道の系統には1万年前の最終氷期以降の侵入もあり,別種からの遺伝子浸透を受けていることもわかった.
  • 結論としては北海道タイプはいろいろなものが混ざっているが,最終氷期以前の遺存種は少ないということになる.
  • 周北極の高山植物の研究例.
  • 周北極の高山植物は氷河時代にはどうしていたのか.1937年にベーリングにレフュージアがあったという仮説が提唱された.これは2000年頃に分子系統からベーリングのレフュージアとして確認された.さらに2013年により詳細に調べられ,大西洋にギャップがあること,ウラルとアルプスに障壁があることがわかった.これはベーリング以外の複数のレフュージアの存在を示唆する.2016年には古い年代の分岐を主張する論文が出たが,これには強い批判があり,今後議論されていくことになる.
  • 系統地理学の研究の歴史をまとめると,
  • 1980年代はミトコンドリアと葉緑体のDNAから種間系統を分析するものが主流だった.
  • 2000年代に多数の核マーカーが使われるようになり,STRUCTURE解析が主流になった.これにより分布の変遷,種間の共通点と相違点が調べられた.ただリサーチの主流はあらかじめ想定されたシナリオの吟味が主流だった.
  • 2010年代からはABL/IMなどのモデルによる統計的な解析が主流になった.これにより歴史的プロセスの推定と検証を行うようになった.ただし一般化するには例が少ないこと,モデルの前提に仮定(進化速度など)が含まれていることなどの注意しておかなければならない.
  • (3)系統地理学から考える生物進化
  • これまでの研究は中立的な分子マーカーを前提にしたモデルを使っている.しかし分子マーカーは中立とは限らない.
  • しかし進化的な意味のある遺伝子を使うこともできる.例えば光受容体は北と南でめちゃくちゃに違っている.これは別植物でも生じている.おそらく適応が関わっているのだろう.ゲノムワイドでどのようなファクターが効いているかを考えていくことができるようになるだろう.


質疑応答

  • Q:植物の分布の様子は種子の鳥分散があるかどうかで変わっているか.
  • A:鳥分散かどうかで一般的な傾向はない.氷河の上では種子の風分散が結構効くこともあるのだろう.
種分化は地理変異に宿る!? 多様化メカニズムに系統地理から迫る 松林圭
  • 私は分類出身だ.東南アジアや中米の昆虫を主に扱ってきた.そこから種分化の研究に足を踏み入れた.
  • 個体群がどこかの時点で分岐していく,この過程を調べている.
  • 種分化はどのように始まるのか.地理的モードは何が主流なのか(同所的種分化はどのぐらいあるのか)生物群によって同所的分岐の頻度は異なるのかあたりに興味がある.
  • 最近の議論は局所的な環境への適応自体が生殖隔離を主導するものを生態的種分化と呼び注目するものだ.そしてこれは同所的種分化とイコールではない.
  • 生態的種分化の例とされるのは,トゲウオ,シロアシマウス,アノール,ガラパゴスフィンチなどだ.
  • ここではテントウムシの事例を紹介しよう.
  • テントウムシには様々な植物を利用する種が存在する.進化的に出現したのは新しく20百万年前とされる.
  • 日本ではヤマトアザミテントウ→アザミ,ルイヨウマダラテントウ→ルイヨウボタン,エゾアザミテントウ→アザミとルイヨウボタン両方という利用植物に重なりがある3種が分布する.このうちエゾは地域的にも分離しているが,ヤマトとルイヨウは地域的分布に重なりがあり,食事のみで隔離されている.さらにこの両種は交尾可能で,F1はどちらの植物も食べる.面白いケースなので過去から調べられてきた.
  • 今回,いくつかの地域で採集し食性と形態の違いを測定した.まず食性は明確にヤマトとルイヨウで分離した.形態的にもこの両種は分離している.
  • ミトコンドリアで集団遺伝的に解析すると両者の距離は小さく,ほとんど分岐していない.さらにサンプル数を増やして分析を繰り返しても話は同じで,地理的構造も遺伝的分岐もない.
  • さらに調べると最近の集団規模の拡大があることがわかった.開けたところに分布が広がり,急速に拡大したようだ.時期を推定すると12万年前〜7千年前という結果が得られた.どうも最終氷期に日本列島内で放散したようだ.遺伝子の流動を調べると同所的に分布していてもかなり制限されている.わずかにルイヨウ→ヤマトがあるが形態は分化したままだ.
  • さらに調べた結果(様々な分析結果が次々に示される),生態的に隔離された中の雑種種分化が生じたらしいことが浮かび上がってきた.
  • 全体的な構図としては最終氷期以降まずヤマトとエゾが分岐し.さらにヤマトが北集団と南集団に分岐する.その後エゾとヤマト北集団の間で2千年から4千年前に雑種が形成され,それがルイヨウの北集団になり,またヤマトの南集団からルイヨウの本州集団が分岐したという図が描けた.


最終結論にいたるまでの様々な分析が丁寧に説明され,非常に迫力のある講義だった.

ゲノムに刻まれた地域集団特異的な遺伝適応の痕跡とその検出法 木村亮介
  • 今日は特にヒトの集団遺伝学について話をしたい.
  • DNA解析は飛躍的に進歩している.マイクロアレー,次世代シーケンサー,HapMap,1000ゲノムプロジェクトなど.
  • これは人類学に応用されている.特に(1)疾病や形態に関与する遺伝子の同定(2)過去の人口動態や移住,現在の集団構造の解析(3)自然淘汰の働いたゲノム領域の探索(4)古代DNAの分野が進んでいる.今日はこのうち(3)を扱う.
  • この世界は大きく変わっている.それはこれまで尾行に頼っていた探偵がGPSを使えるようになったようなものだ.
  • 使われているのはRAD-seq(Restriction Site Associated DNA Sequence)などの技術だ.GWSS(Genome Wide Scan for Selection)は2015年時点で135のプロジェクト(うち75はヒト)が走っている.
  • どのように自然淘汰を検出するか.種間の置換を比較するもの,種間の置換を種内の多型から見るもの,FSTによるもの.集団内の多型から見るもの(Tajima’s Dなど)がある.
  • ヒトの多様性は淘汰とドリフトで説明できる.そして淘汰は集団遺伝学的に解析できる.種内集団の遺伝的分化をFSTなどを使ってみることができる.このよい例はチベット集団の高地適応を示した論文だ.中国集団とチベット集団でEPS1の変異頻度が特異的に異なっており,これが低酸素環境に関連しているのだ.
  • また集団の規模の動態と遺伝的分化の関係がどうなっているかも分析できる.(具体的な説明がなされる)
  • Tajima’s Dも正負で淘汰を示せる指標になる(詳しい説明がある),ただしTajima’s Dは組換えがないという前提を用いているので,2000年以降これを補正する様々な手法が提案されている.(様々な手法が解説される)
  • これらの様々な統計量をまとめて評価する手法CMSも開発されている
  • ハードスウィープとソフトスウィープの違いも重要.
  • これまでに示されたヒトの集団特異的淘汰の例としては,耳垢のタイプ,アルコール分解能力,皮膚の色などがある.
  • 最近淘汰の例として面白い発見があった.それはEDGAR遺伝子で,髪の毛の太さ,シャベル状切歯,毛根の数,髭の濃さ,耳たぶの大きさ,顎の形状などに関連していることが示されている.このようにいろいろな形質表現型と関連し,アジアで3万年前〜広まっている.ただし今のところこの多面的な表現型のどれが淘汰の原因になったのかはわかっていない.
  • まとめると,GWSSは有効だ.淘汰遺伝子の探索,集団間の差をもたらす遺伝子の探索,知られていない淘汰形質の発掘(過去の感染症の手がかりなど)を可能にしてくれる.


以上で今大会の夏の学校は終了だ.レベルが高く,面白い話をたくさん聞けた学校となった.

 「医療現場の行動経済学」

医療現場の行動経済学―すれ違う医者と患者

医療現場の行動経済学―すれ違う医者と患者



本書は行動経済学の知見を応用して医療現場をより良いものにしたいという思いで書かれた本だ.編者は大竹文雄と平井啓で,行動経済学者や医師などこの問題に取り組んでいる17人の分担執筆になっている.日本では長らく医師がよかれと思う治療を(医学的知識がないと想定される)患者に施すパターナリズム型の医療が主流だったが,ここ20年ぐらいで,医師が患者に医療情報を提供して医師と患者の合意による治療にかかる意思決定を行うインフォームドコンセント方式に切り替わっている.そしてこのインフォームドコンセント方式は患者が確率を含む情報を理解して合理的に意思決定ができることが暗黙の前提になる.これはまさしく経済学は人間をホモ・エコノミクスと仮定していることとパラレルになり,行動経済学の知見が応用可能ではないかと考えられたということになる.

第1部 医療行動経済学とは

第1部は全体の概説になる.まず最初に診療現場での典型的な医師と患者のやりとりと,その際にどのようなバイアスが観測されるかが紹介されている.抗がん剤の副作用の負担が大きくなっているので中止してはどうかを勧める医師とサンクコスト・バイアスから中止を嫌がる患者,症状悪化に対して緩和治療を開始することを勧める医師とこれまで大丈夫だったからという現状維持バイアスからそれを拒む患者,延命措置についての決断を迫る医師と今は決断したくないとしりごむ患者の家族*1,抗がん剤治療を勧める医師と利用可能バイアスから代替治療にすがろうとする患者の例が取り上げられている.意思決定において行動経済学で問題になるバイアスが医療現場でも現れていることがよくわかる.
ここから行動経済学の枠組みが概説されている.意思決定とバイアス,プロスペクト理論,自信過剰傾向,損失回避,フレーミング効果.現状維持バイアス,現在バイアス(将来価値にかかる双曲割引問題をこう呼んでいる)とコミットメントによる回避戦略,社会的選好,限定合理性(サンクコスト・バイアス,限りある意志力,選択過剰負担,情報過剰負担,平均への回帰が理解できにくいこと,メンタルアカウンティング),ヒューリスティックス(代表性,アンカリング.極端回避など),ナッジなどがコンパクトに解説されている.
そして最後に医療への応用(医療行動経済学と呼ぶようだ)についての概説がある.応用についての研究には2つのタイプがあり,1つ目はバイアスがどのように医療に影響を与えているかを調べるもの,2つ目はナッジの研究になる.バイアスの研究では以下のような知見が紹介されている.

  • リスク回避的であるほど積極的な医療健康行動(肥満を避ける,血圧を管理する,歯磨きをするなど)をとる傾向がある.ただし乳がん検診を受診しにくい傾向も報告されている(がんが見つかるリスクを避けようとするのではないかと推測されている).
  • 将来への時間割引率が高いほど医療健康行動をとらない傾向がある.ただし前立腺がん検査についてはせっかちな人ほど受診する傾向があるという報告がある.

ナッジの研究においては.医療健康行動に現在の利益を追加する,他人がどうしているかの情報を提供する.将来時点の損失を強調して大きく見せる*2,コミットメント手段を提供する(ワクチン接種に際して時間帯まで書き込ませるなど),デフォルト設定の変更などが調べられている.

第2部 患者と家族の意思決定

第2部は患者側の具体的な意思決定問題を扱う.がん治療,がん検診,HPVワクチン,終末期治療についての家族の選択,高齢患者の意思決定,臓器提供意思の表示などが扱われている.主な内容は以下のようなものだ.

  • がん告知はなお難しい.コミュニケーション支援ツールも開発されているが,医師にも家族にも患者への悪い知らせを先延ばしにしたいという傾向がある.バイアスがあること,そのバイアスは合理的意思決定の妨げになることを自覚することが大切だ.
  • 緩和ケアを拒否して代替治療に走ってしまう例は多い.緩和ケアの決断は損失確定と受け止めることによる損失回避バイアス,怪しげな広告や体験談の利用可能性バイアスが効いているのだろう.
  • 近年治療にかかる同意書の種類が増えており,治療について狭いフレーミングを患者に与えている.これにより例えば「抗がん剤だけは絶対嫌だ」などの反応が生じる.
  • 医師側にも,サンクコスト・バイアス(ここまでこの方法で治療してきたのだから),利用可能性バイアス(この前同様な患者で奇跡的な回復が生じたから)などのバイアスが働く可能性がある.
  • 終末期の延命措置の選択を家族に迫るのは,家族の持つ道徳感情から考えて残酷である.そこから自由になれるようなナッジが好ましいのではないか.(なおここではこのナッジの持つ倫理的な問題についてもいろいろ書かれている)
  • がん検診を受けることで死亡率が下がることについては確固としたエビデンスがある.であれば検診率向上に向けたリバタリアン・パターナリズムは是認されるだろう.具体的な事例としては,無料配布と損失フレームを用いた大腸がん検診向上の取り組み(申し込みなしで検査キットを送付し,受診がないと来年は送付できないというメッセージを添える),プロスペクト理論に則った乳がん検診向上の取り組み(受診をためらう人をステージごとにセグメントし,それぞれに対して効果的なナッジを設計:めんどくさいと考える人には受診の容易さを強調,がんが見つかるのが怖い人には受診のメリットを強調,私は大丈夫だという人には損失フレームの強調)などがある.
  • 日本ではHPVのワクチン接種の意思決定は主に母親が行っている.母親たちには顕著な負の同調傾向があり(皆が接種しないのなら娘には接種させたくない),副反応の疑いに過大評価し(特に確率がゼロでないことを非常に重要視する),ワクチンの有効性について過小評価する傾向が強い.これらにはプロスペクト理論の確率加重関数や利用可能性バイアスや現在バイアスなどで説明可能だろう.さらに自分の決断で娘に副反応が出ることによる後悔を極度に恐れる心理も働いているのだろう.(ここでは母親のバイアスだけが論じられているが,この不安につけ込んで儲けようとする悪質な人々,イデオロギーにとらわれてしまっている人々,きちんとリスク評価を報道しようとしないメディアの影響も大きいというべきだろう.)
  • 日本ではがんの終末期の治療選択を本人だけですることは少なく,家族が意思決定の中核になっていることが多い.そしてこの決定は現在バイアスにより最善の選択が難しく,家族は決定の内容,決定の時期について後悔を抱きがちになる.後悔はメンタル・アカウンティングと参照点(現実には採らなかった反事実仮想的選択を参照点としてしまう)により大きな影響を受ける.特にやらなかったことについては様々な仮想的参照点が設定可能なため後悔が生じやすい.また現在バイアスが強いと将来になってみたときに後悔が生じやすいということもある.後悔を減らすためには,自らの現在バイアスを知り,参照点を意識的に状況に即したものに変えていくことが有効だろうと思われる.
  • 高齢者には治療方針を自分で決めるには難しい場合が多い.多くの情報を素速く処理できずに,思い込みに沿ったヒューリスティックスをもちいた情報収集・意思決定に偏りがちになる.これには情報負荷の軽減,バイアスの補正などの適切な意思決定支援が望まれる.
  • 男性の高齢者に多い前立腺がんについては経過観察が望ましい場合にも治療を選択しがちであり,特に配偶者が同席しているとそうなりやすいという報告がある.
  • 終末期の処置方針については意識障害の可能性を考えて事前指示が望ましいが,病気が進行すると本人が決断を避ける傾向があることが報告されている.
  • 臓器提供意思の表示割合の国際的な差異については,社会文化的な問題よりもデフォルト設定が大きく効いていることがわかっている.しかしデフォルト変更は(あまりにも効果が大きいために)倫理的な争点となってしまう.それ以外のナッジとしては「互恵性の強調」などが提案されている.
  • 日本での臓器移植の実務としては本人の意思が明らかでない場合(意思表示カードにチェックがない場合を含む)に家族の同意が条件とされている.このドナー家族に対する意思決定支援も望まれる.

第3部 医療者の意思決定

第3部は医療側の意思決定問題を扱う.生命維持治療の中止,急変期の意思決定.医師による判断の違い,看護婦のバーンアウトの問題が扱われている.かなり具体的で迫力のある問題が多い.

  • 日本の医療実務では,最初に生命維持治療を始めるかどうかについては選択の自由が認められているが,一旦始めた生命維持治療を中止することはできないとされることが多い.(英米では一貫して差し控えと中止を同一視しているが日本の実務はこれと異なっている)これは論理的には矛盾しているが,フレーミング,損失回避バイアス,現状維持バイアス,不作為バイアスなどによりそう考えられてしまうのだろう*3
  • なお法的には過去生命維持の中止により警察の介入の受けたケースが2004年と2007年に1件ずつあるが,いずれも不起訴に終わっており,その後10年以上の間警察の介入はない.しかしこのケースが報道されたことが医療サイドに大きく影響を与えていると思われる.これも確率ゼロを極端に重視する確率加重関数の影響と考えることができる.
  • 2018年には厚生労働省から終末医療の決定プロセスについてのガイドラインが公表されているが,具体的な要件が示されていない.専門家団体や各医療機関がそれぞれの専門領域について具体的要件を示したガイドラインを出しているケースもある.(ここでこれらのガイドラインについて行動経済学的に視点からはどう考えられるのかがかなり詳しく議論されている.重い意思決定にかかる複雑な問題であることがよくわかる)
  • 循環器領域においては,急変期に蘇生措置を行うかどうかの意思決定は一刻を争うもので,いろいろな問題が絡む.(どのような問題があるかが詳しく説明されている)実務的には蘇生措置を行うことがデフォルトになっている.
  • またこの急変期の意思決定は実際には医師による誘導が容易であり,気づかぬまま誘導してしまうケースも少なくなく,医師側は自覚しておくべきことだと思われる.
  • 2003年にアメリカで患者が病院で受診した場合ガイドラインで推奨されている適切な医療を受ける割合はわずか55%であるという衝撃的な論文が発表された.日本での同種のリサーチでも同じような結果が報告されている.
  • またアメリカの病院に関する別のリサーチでは内科の担当医が女性である方が死亡率が低いということが報告されている.女性の方がよりリスク回避的でありガイドラインを遵守しようとするためかも知れない.
  • アメリカでは最近,医師の診療行為の適正化のためのナッジが議論されるようになっている(風邪に対して抗生物質を処方するときには正当性を文章で説明させ,同僚がそれを読めるようにするなど)
  • 利他的な(特に純粋の利他性を持つ)看護師の方がバーンアウトしやすいことが(日本でなされた)リサーチにより明らかになった.患者の死や症状の悪化に直面すると看護師自身のメンタリティまで悪化するためではないかと思われる.これはこれまで漠然と信じられてきた看護師の適性とは整合的ではない.研修などの支援プラグラムが望ましいだろう.

以上が本書のあらましになる.経済学においては合理的経済人の仮定が当てはまらないとしても,多くのミクロ経済学的,マクロ経済学的な現象の説明力はかなり頑健で,ところどころ適宜修正を考えていけばいいという状況だと思われるが,医療現場では日々様々な問題が生じており,人の意思決定のバイアスや限定合理性が(金では済まない)より難しい問題を生じさせていることがわかる.本書ではそれを何とか補正しようとする様々な取り組みや提言があり,それぞれ傾聴に値するだろう.それとともに,それだけでは簡単に解決はできない人間の性のような難しい状況が医療の現場に濃縮して現れることがひしひしと感じられる.また取り上げられる題材もいずれもいつ自分自身に降りかかってもおかしくないもので,読んでいていろいろ考えさせてくれる.多くの人に読まれるとよいと思う.

*1:この家族の決断後回し傾向について現在バイアスによるものだとしているが,狭義の現在バイアス(双曲割引問題)とは少し異なる傾向だろう

*2:損失フレームの利用はあまり効果が高くないそうだ

*3:と書かれているが,不作為バイアス以外はあまり大きく当てはまるようには思われない.実際には次に示されている警察の介入が報道された影響が大きいと考えるべきだろう.

 日本進化学会2018 参加日誌 その6


大会第三日 8月24日 その2


朝一から始まったシンポジウムが終了して,11時からは今大会最後のプレナリー講演.

プレナリー講演

動物の嗅覚における遺伝子:行動連関 東原和成
  • 私は農芸化学の出身.農学の中で化学的な解明に関する分野ということになる.生体環境→アッセイ系→物質の同定(ものとり)→受容作用・機構の解明という形で生物個体から分子までを扱う.生化学の一分野でもある.そして農学であるので,得られた知見を社会へ還元することが目的になる.
  • わかりやすい例はファーブルの仕事だ.彼はカイコガのオスがメスに引き寄せられる現象から,アッセイを行い何らかの物質が関与していることを推測した.50年後にその物質(ボンビコール)は性フェロモンとして同定され,さらに50年後に受容体と作用機構が解明された.
  • 同じカイコガの摂食行動を引き起こす化学物質の解明にも歴史がある.1950年代から60年代にかけてアッセイをかけて誘因,摂食開始,摂食継続などにかかる様々な物質が報告された.この誘引物質の1つはたった1つの受容体にだけ反応する.
  • 哺乳類ではどうか.ウサギでは仔ウサギが乳房をぱくっと加えるフェロモンがアッセイとガスクロマトグラフィーを使って同定されている.マウスで母はマウスの養育行動誘引物質がありそうで,これを現在アッセイしているところだ.
  • マウスのオスに接したメスの受け入れ行動の物質を見つけようとしているが,これは行動が複雑でアッセイが難しい.で,やり方を変えてゲノムからやってみている.受容体の遺伝子の発現場所を確認し,逆薬理学的に遺伝子からものとりを行う.これはマウスの繁殖抑制に使えるだろう.
  • この受容行動についてはもっとメカニズムを知りたいと思っている.それには受容体遺伝子を見つけて神経回路への影響を見ていくことになる.
  • 臭い感知がどのように行われているかというのは昔から議論されてきた.膜への吸着,分子振動などが提案されたこともあったが,現在では受容体の分子構造によるとわかってきている.
  • 受容体の種類は嗅覚で1000,フェロモンで300.味覚で30ぐらいが知られている.臭いと受容体は多対他の関係になる.どのような受容体の組合せが反応するかによって臭いの感知が生じるのだ.
  • 嗅覚受容体の遺伝子の数を見ると.ヒトでは400(偽遺伝子含めると800),チンパンジーは400(800),オランウータンは300(800),マウスは1000,イヌは800,ゾウが最も多くて2000(4000)ある.そしてゾウはごくわずかな臭いの違いを感知することが知られている.
  • 少ないのはクジラやアシカやマナティーなどの海棲哺乳類になる.これは淘汰圧から説明できる.霊長類やコウモリも少なくこれも淘汰圧から説明できるだろう.霊長類の中では昼行性であるほど少なくなる.また曲鼻猿類より直鼻猿類の方が少ない.
  • これに対して味覚は単純で,受容体は甘味で1つ,塩味に1つ,酸味に1つ,旨味に1つ,そして苦味に25ほどあるだけだ.ちなみにネコには甘味受容体がなく甘味を感じない.
  • ヒト集団内における嗅覚の多型はいくつか知られている.有名な例はスミレの香りであるβイオノン.日本人で感じる人と感じない人で半々だ.これはアップルジュースへの好みなどに相関していることが知られている.
  • 臭いは行動とどうつながるのか.これは神経回路が問題になる.
  • そしてこの解明は光遺伝学によって大きく進んだ.光にセンシティブな遺伝子発現をさせ,神経レベルで操作することができるようになったからだ.その他,蛍光色素を利用することにより神経回路を視認する手法,トランスルミナンスなどの手法も使われている.経路的にはESP→鋤鼻器官→副鼻球→扁桃体→視床下部という回路があることがわかっている.
  • 霊長類はフェロモンを使っているか,異性を引き寄せているかという問題も古くから議論されている.1968年にアカゲザルでコプリンがそれではという報告があり,それ以降研究が盛んになった.なおこのコプリン自体については現在では否定されている.
  • ここでワオキツネザルには分泌腺がいろいろなところにあり,洋なしのような臭いを付ける.尻尾に付けて,それを振ってメスにアピールしていることも観察されている.
  • じゃあ,ものとりしたい.ガスクロマトグラフィーで分析すると,繁殖期かそうでないかで差がある物質が4つ見つかった.このうち3つについてはメスに嗅がせると興味を持って嗅ぐ.初めての霊長類のフェロモン報告になりそうだ.
  • ではヒトではどうか.体臭は情報を持つのか.疾病と臭いは関連するようだ.赤ちゃんは臭いに愛着を持つことがある.排卵期の女性の臭いは男性に好感をもたれるのかも知れない.まだよくわかっていないが解析していきたいと思っている.


普段聞くことのない農芸化学の話で面白かった.ここで午前の部が終了.私は所用あり一旦駒場を離れて夕刻の総会から再参加.



総会

今回法人化にあたっての細々とした説明があった.執行部の方々におかれましてはは大変お疲れ様でした.
なお今後の大会スケジュールについては.2019年札幌(8/7〜10),2020年沖縄,2021年東京(都立大),2022年湘南(遺伝研/総研大)が予定されている.
その後学会賞の授賞式があって,受賞講演へ

学会賞受賞講演

脊椎動物の付属肢を対象とした進化発生学的研究 田村宏治
  • 生き物の形に興味があった.鳥の翼とヒトの手は基本的に同じだが,形は随分異なる.こういう形態が一体どうしてできてくるのかを30年以上研究している.
  • それは発生の観察が基本になる.初期胚に対して移植などの操作を加えて四肢形態の変更を繰り返し見る.
  • ヒトの胚は観察しにくいので,ニワトリの胚の観察が中心.
  • 動物の形態は多様なので,ニワトリと別の動物を比較していく.比較発生学ということになる.
  • (脊椎動物の形態の模式図を示して)今日は(1)どこから脚が生えるのか(2)どういう脚が生えるのか(3)自分たちにとっての新しい研究という話をしたい.
  • (1)どこから脚が生えるのか.(写真を示しながら)1996年に脚の生える場所に何らかのシグナルがあることに気づいた.すべてはここから始まった.
  • ニワトリの背中にFGFを作用させると,脚の原型を背中に誘導できる.つまりニワトリの背中にはヒレを作る潜在性があるのだ.
  • マウス,カメ,ゼブラフィッシュでも実験を行い,いずれもFGFでAR(ヒレ状の構造)を誘導できることを確かめた.ヒラメの胚はその潜在性がすべての部分で顕在化しており,背中から腹まですべてヒレが生じるということになる.
  • ニワトリの胚の前肢と後肢の間にFGFを作用させると,最終的にはそこに第3の脚が生じる.魚でやるととても広い胸びれができる.背中だけでなく体側線上にも潜在能力があるのだ.脊椎動物は背側と体側線上のどこからでも脚を作れる.
  • ではこのラインのどこに脚を作るのか.ここで体節に注目する.脚が生えてくるはずの体節を別の場所に移植するとそこから生えるようになる.何らかのシグナルがあるに違いない.これを研究し,シグナルがGDF11タンパク質であることを特定した.
  • (2)どういう脚が生えるのか.脊椎動物には様々な脚がある.この多様性についてはよく指が注目されるが,多様性があるのは指だけではない.ガラゴやツメガエルは手首から指までのところが長骨化して関節が1つ増えたような形になっている.
  • これを調べるには「区画」を考えることが重要になる.区画とは細胞が混じり合わず,共通した細胞内には接着性があり,共通した遺伝子が発現している部分をいう.必ずしも最終的構造とは対応しない.
  • 形態に対応した区画を探索し,足首部分を観察した.(模式図を示しながら)かなり初期から区画が見える.ここでは発現セットがあり,構造との相関がある.
  • (3)新しい研究.今から18年前の進化学会ニュースに寄稿したことがある.当時34歳だったが,そのころから意識していたのは実験を忘れないと言うことだ.(比較発生学は)まず観察で,実験は1つの手法ということになる.そして実験してきたが,でも釈然としない部分がある.観察と実験を繰り返しても,どうやって生物の中に形態の多様性が機作見込まれているのかが見えてこないのだ.
  • で,やっぱりゲノムかということになった.鳥にしかない特徴が生じるには,発生過程の変更があるはずで,そこには分子制御があり.鳥特異なゲノム配列があるはずだ.とはいえ,そこにはなかなかたどり着けない.
  • 6年前から大きな転回を試みている.バイオインフォマティクス,エンブリオロジー,進化を統合的に考えたいということだ.全部つなぎたい.鳥類の全ゲノム48種分を他の動物群のそれに比べる.そして鳥類に特異的な保存配列を探そうとしている.
  • 今のところ得ている共通配列は,エクソンが0.3パーセント,イントロンが27.5%,残りは遺伝子間配列だ.そこで得られた遺伝子の中から発現解析を行って,発生のところに効いている遺伝子候補を4つに絞り込んだ.
  • そのなかの1つはSim1と呼ばれるものだ.この遺伝子は鳥だけでなくほかの脊椎動物にもある.共通して脳,腎臓,筋肉で発現している.しかし哺乳類や爬虫類では四肢で発現していないのに,鳥では前脚(翼)で発現している.前肢の肘から後ろの線上に発現し,風切り羽根の形成に関連しているようだ.証拠固めはこれからだが,ニワトリの後脚に風切り羽根が生える系統では後脚で発現することを確かめており,有望だと思っている.
  • 鳥と恐竜では風切り羽と尾羽が共通して進化していることがわかっている.Sim1は恐竜の時代から風切り羽と尾羽を作るためのエンハンサーだったのかも知れない.
  • ここまでに5年かかったが,技術はさらに進んでいる.ゲノム全体,ネットワークで考えることがこれからの課題だ.
  • またもう1つの方向として個体比較発生も考えている.集団間の多様性だけでなく集団内の多様性も調べてみたい.


これもあまり普段あまり聞くことのない分野の講演で楽しかった.以上で大会第3日は終了だ.

 日本進化学会2018 参加日誌 その5


大会第三日 8月24日 その1


大会第3日目は500キロも離れて西日本に上陸した台風が関東南部にも帯状降水帯を作って大荒れの天候下で始まった.シンポジウムは社会性コミュニケーション関連のものに参加

シンポジウム S14 社会性コミュニケーション創発のためのゲノム・脳・行動進化

趣旨説明 郷康広
  • このシンポジウムは新学術領域「多様な「個性」を創発する脳システムの統合的理解」(略称:「個性」創発脳 領域代表:大隅典子)と同じく新学術領域「共創的コミュニケーションのための言語進化学」(領域代表:岡ノ谷一夫)の共催になる.
  • 社会的コミュニケーションは単細胞生物からヒトまで幅広く見られる.これについてどのように生じたのか,種を越える共通性はあるのかについて多層的なアプローチから迫りたいという趣旨になる.


霊長類ゲノム研究を通して社会性コミュニケーション創発あるいは欠如とは何か考えてみる 郷康広
  • 社会的コミュニケーションというと一般的イメージは「コミュ力」みたいなものだろう.これは自閉症スペクトラムと同じようなもので,高い方から低い方まで連続的になっているはずだ.ある意味精神的な個性であり,こころの多様性だ.この遺伝的基盤を研究している.
  • 認知ゲノミクスにより脳や心の個性,多様性を見ていきたい.しかし操作実験にヒトを使うにはいろいろと制限があるし,マウスでは認知能力に疑問がある.そこで霊長類を使っている.操作実験により単なる相関ではなく因果を調べたい.
  • インフラを作りながらゲノミクスとトランスクリブトームをやっている.
  • ゲノミクス:ゲノタイプからサルを網羅的に調べてヒトの認知に関連しそうなところをスクリーニングする.
  • マーモセットを966個体使って精神疾患と関連していそうな479遺伝子を解析した.個性の候補遺伝子は71個に絞り込んでいる.表現型としては視線異常などを用いる.
  • マカクでは831個体503遺伝子.53遺伝子が候補になっている.表現型としては早老症,自閉症などを使っている.自閉症というのは役割交替課題ができないことを指している.このような個体にはミラーニューロンが少ないという報告もある.
  • トランスクリプトーム:マーモセットで発生中の脊椎形成においてシナプスの刈り込みについての個体差を分析している.これはヒトにおいて統合失調症において刈り込みが強すぎ,自閉症で刈り込みが弱すぎるのではないかといわれているものだ.
  • おそらく心の個性において種を越えた共通性がきっとあるだろう.今はカタログ作りの段階で,操作実験はこれからになる.
精神疾患関連遺伝子からみるヒトにおけるうつ・不安症傾向の進化 河田雅圭
  • 霊長類,類人猿に比べてヒトに特異的な社会的コミュニケーションはどのように進化したのか.これには集団内の攻撃性の低下,親の世話の長期化,ペアボンドの強化,オスオス競争の低下などが関わっているだろう.
  • 関連した有名な知見には,ハタネズミにおいてバソプレシン受容体の変異でペアボンドの強さが決まり配偶システムに大きな影響を与えているというものがある.
  • ヒトにおいて神経伝達物質受容体のSNPとアンケート調査結果の関連を調べてみると,いろいろと見つかる.
  • どうやら線条体においてこれが効いているらしい.チンパンジーからヒトになってアセチルコリンが低下しドーパミンが上昇し攻撃性が低下し社会集団が容易に形成されるようになっているのかも知れない.
  • 精神的個性や精神疾患には遺伝的な相関がある.これに関連する遺伝子588を解析してみると正の淘汰を受け,かつ平衡淘汰が多型をもたらしている遺伝子が3つ見つかった.そのうち1つはSLC18A1で,これはシナプス間のモノアミントランスポーター関連遺伝子で,小腸のほか脳でも発現している.
  • またスレオニン関連遺伝子のある塩基がThu(トレオニン)→Ile(イソロイシン)となる変異は鬱などの精神疾患と関連している.Ile変異型が増え,セレクティブスウィープもあり,おそらく出アフリカ以降に正の淘汰がかかっている.しかしそれだけではTajima’s Dの値を説明できないので平衡淘汰もかかっているようだ.
  • 平衡淘汰のメカニズムは理論的にはいくつかある.変異と浮動のバランス,変異と淘汰のバランス,負の頻度依存淘汰,超優性,創発と絶滅のバランスなど.
  • このどれによるのかについて7500人のアンケート調査とゲノムデータを使って解析した.鬱傾向,不安傾向はThr型の方が高い.ちょっと乱暴だが,子どもの数を適応度として分析するとヘテロの方が適応度が高いという超優性型になった.これを素直に解釈すると,出アフリカ後何らかの要因で抗鬱・抗不安型が有利になりIle変異が頻度を増した.しかしヘテロの方がより有利だったので平衡淘汰がかかったということになる.不安についてはスレオニンだけでなくセロトニンも関連すると言われており,全貌はもっと複雑なのだろう.
  • ヒトにおける平衡淘汰については免疫などであると言われてきたが,我々のこの研究のように遺伝子レベルで調べたものはあまりない.ヒトは様々な環境の中で生きているために長期間では平衡淘汰になるものもいろいろあると思う.
父加齢の次世代行動への影響:進化に与える可能性についての考察 大隅典子
  • 個性の神経基盤を発生と進化から理解したい.これがこの学術領域を作ったときの思いだ.
  • 個性のメカニズムを科学的に理解し,その科学を確立し,データベースリンクによって国際的に貢献し,個性の理解を社会に還元したい.領域では「ヒトにおける個性創発」「動物モデルにおける個性創発」「個性創発のための計測技術と数理モデル」の3チームが活動している.是非ホームページを見て欲しい.http://www.koseisouhatsu.jp/index.html
  • ここではまず父マウスの加齢による仔マウスの個性への影響のリサーチを紹介する.
  • きっかけは自閉症スペクトラムだ.コミュニケーションの障害や情動性の欠如などがよく問題になるが,実は多様な合併症があることでも知られている.癲癇,成長遅滞,不安症,運動失調,多動,注意障害,感覚過敏,消化器症状などだ.そして1人1人で症状の組合せが異なるのだ.
  • 自閉症発症の生物学的要因としては,遺伝的要因,と環境要因がある
  • 遺伝的要因は一卵性双生児での遺伝率が80%から90%とされている.関連候補遺伝子は800にのぼる.
  • 環境要因としては,まずワクチンは論文不正が明らかになり否定された.育て方の影響も否定されている.残る要因として議論されているものに母胎感染,薬物の影響,そして両親の加齢がある.
  • 両親の加齢についてのリスクリサーチによると,母加齢は20代を1としたときに40代以上で1.15,父加齢は20代を1としたときに,40代で1.28,50代以降で1.66とされている.
  • 父加齢の影響はこのほか統合失調症(50代で2.96),若年性双極障害などにも報告がある.
  • ここでマウス実験を行った.3ヶ月父と12ヶ月父を若いメスと交尾させてF1を作リ,比較する.この結果加齢父の仔マウスには低体重,コール数減少,母子分離,感覚フィルター機能異常,空間学習テスト成績低下などが見られた.
  • さらに個々のマウスの個性について個体識別して行動解析を行っている.解析に用いたのは母仔分離超音波発声頻度.これは社会性に正,空間学習に負に相関する.そして5分で数千シグナルが採取できるのでビッグデータ解析が可能だ.
  • さらにこれが孫の世代に影響するかも調べている.影響があるならエピジェネティックスの効果が疑われる.そこで精子のメチル化を調べるといくつか違いが見つかっている.
鳴禽類ソングバードの歌学習個体差をつくる生得的学習バイアス 澤井梓
  • 個体差はどこまで生得的でどこまでが生育環境によるのか,これを神経科学的に考えている.
  • 感覚運動学習というのは感覚メカニズムと運動メカニズムの協調的な学習で,獲得される運動に明確な個体差がある.
  • モデルとしてソングバードのキンカチョウを用いる.キンカチョウを父の歌を聴いて真似をする.まず部分的な音素をさえずるようになり,洗練させていく,獲得には2ヶ月ぐらいかかる.同腹の兄弟でも父の歌との類似度に差が出る.またペットとして飼育され,純系ではないので個体差が大きい.
  • まず科研費の範囲で飼育できる鳥を飼育し,片方で歌の個性を視覚的にパターン化して提示する手法を開発した.
  • ここでピーター・マラーの1980年のリサーチがある,これはSwamp SparrowとSong Sparrowを使って,ヒナの耳を塞いで歌を獲得させ,歌の学習には種特異的な拘束があり,その上で学習することを示したものだ.
  • そこでキンカチョウとカノコスズメを使い,雑種の歌獲得を調べることにした.この両者は近縁で6.5百万年前に分岐したと言われている.学習元は父を使わずに人工的な音源でそれぞれの歌をランダムにプレイバックさせる.
  • この結果雑種ヒナの約半数は中間的な歌を,1/4はキンカチョウ的な歌を,1/4はカノコスズメ的な歌をさえずるようになった.さらにこの獲得過程を24時間自動録音で解析した.すると獲得音素に最初からバイアスがあることが見つかった.
  • ではこのバイアスは認知のところなのか運動のところなのか.それを調べるために今度はどちらかの歌だけを聴かせて比較してみた.その結果やはり中間的な歌,キンカチョウ寄りの歌,カノコスズメ的な歌に分かれた.これは運動バイアスだと思われる.
  • この同じモデル音声でも獲得する歌が異なるという個性はどのように発現するのか.獲得した歌のパターンでグループ化して比較してみると,クチバシの形態,鳴管の形状,脳の関連部位の大きさともに差が無い.そしてどういう親だったのかのところにバイアスがある.つまり遺伝的に決まっているのだ.
  • ここから遺伝子の探索に入った.するとアレリックインバランスが見つかった.インプリンティングほど極端ではないが,父経由の遺伝子と母経由の遺伝子で発現がいつも1:1ではない.そしてこれが発達の過程や部位で変わっている.
社会との相互作用下で創発する霊長類のコミュニケーション 香田啓貴
  • 言語の進化の研究ではハウザー,フィッチ,チョムスキー2002の論文がよく引用される.この論文ではヒトの言語はほかの動物のプロト言語と連続性があることを認めている.私たちはヒトの言語になるためには「階層性」と「意図共有」が後押ししたのだろうと考えて,研究している.それが新学術領域「共創的コミュニケーションのための言語進化学」になる.
  • 階層性とは何か.それは1次元に連続的に並ぶ単語のマージの構造により無限の複雑性を生みだすものだ.ヒト以外にはあまり見られない思考経路だ.また意図共有は互いに相手の意図を推測しながら相互作用をするもので,これもヒト特有だ.この2つの要素で新しい構造が創発すると考える.キーワードは,社会における「相互作用」になる.
  • 社会とコミュニケーションの相関のよい例は霊長類の社会にある.まずテングザルでは性淘汰の影響で,オスの鼻の大きさ,コールの低さ,ハレムナイのメスの数が相関する.テナガザルではモノガミーの核家族社会で母と娘が同期して歌を歌う.このような社会とコミュニケーションの関係を通じてコミュニケーションの進化を考えたい.
  • ここで個体内個体間の相互作用をコントロールして,どのようなコミュニケーションが創発するかを観察した.
  • ヒヒとマーモセットで分割パネルの中で赤く光ったところを押していく課題を設定する.そしてある個体がミスしたときに次の個体がそのミスをどう解釈して,次にどこを押すかを観察する.ヒヒでは覚えやすいパターンに収束していく.マーモセットではランダムウォークのような動きが創発する.


個性について様々な視点からいろいろな取り組みがあることが眺められて面白いシンポジウムだった.確かにヒトやその他の動物の行動傾向やパーソナリティの多様性の説明は興味深い問題だ.すべてが頻度依存淘汰で説明できるのか,本当に超優性のようなことが効いているのか.アレリックインバランスの話も興味深い.まだとっかかりの段階と言うことだろうが,今後の進展を期待したい.


シンポジウムが終わることには台風の影響の雨風も収まってきた.

 「ハッパノミクス」

ハッパノミクス――麻薬カルテルの経済学

ハッパノミクス――麻薬カルテルの経済学

ハッパノミクス

ハッパノミクス


本書はオクスフォードで哲学,政治経済を学び,エコノミスト誌でエディターを務めるビジネス・ジャーナリストであるトム・ウェインライトによる経済学的及び経営学的な視点で麻薬ビジネスを扱ったノンフィクションだ.原題は「Narconomics: How to Run a Drug Cartel」.


冒頭では,麻薬カルテルの取材にかかる緊張感とともに,本書のアイデア「経済学を応用して全く別の視点から麻薬取引を分析したらいったい何がわかるのか」が提示されている.現在のメキシコの麻薬カルテルはある意味サプライ・チェーンを整備し,フランチャイズ方式で運営されている経済主体であり,オフショアリングやオンライン取引にも取り組んでいると考えることができるのだ.

第1章 コカインのサプライ・チェーン

まずはコカイン市場からレポートされる.コカインの主原料はアンデスで栽培されるコカの木の葉になる.著者の潜入レポートは伝統的な飲み物として一部の土地で制限付きで栽培が合法化されているボリビアになる.さすがに現地レポートは迫力があっておもしろい.
そしてこのボリビアの制限はざる同然で,その他の国の違法栽培畑とともに世界市場へのコカイン原料源となっている.アメリカからの供給を下げろという強い圧力を受けた中米各国政府は多大なコストをかけてこの違法畑を摘発する「根絶作戦」を展開しているが効果はあまり上がっていない.結局いくら摘発されても農家は別の場所で生産を続け供給は減っていない.また代替作物に補助金を与えて農家のインセンティブを変えようとする戦略はある程度効果はあるはずだが,農作物市況の変動幅の大きさや,コカイン栽培における緑の革命(!)によりうまくいっていない.
ここで著者は根絶作戦は経済学的に間違っていると主張している.農家に摘発逃れコストを賦課しても,カルテルはサプライ・チェーンを構築しているバイヤーであり,購買独占力を持つために買い入れ価格を上げないし,仮に上げたとしても末端価格に与えるインパクトはごく小さいからほとんど無意味だというものだ.


この麻薬カルテルのサプライ・チェーンとしての分析はおもしろい.コカイン・ビジネスの利益は原料購入のところではなく国際的な密輸の部分で生じるというわけだ.ただ著者は根絶作戦の目標は消費国における価格上昇であり,それは無理であるかのように書いているが,そこには疑問も残る.そもそもの麻薬流通量を減らそうという試みとしては根絶も意味はあるだろう.そして本当に原料供給を絞れれば,麻薬の流通量自体が減り,そもそもの麻薬が引き起こす悲劇は減少できるはずだし,価格についても末端価格は需要と供給の原則からいって(単なる買い入れコスト分ではなく)大幅に上昇するはずだ.ただそれが失敗しているという評価の方がいいのではないだろうか.

第2章 競争か,協力か

次は麻薬カルテルの本拠地であるメキシコでは何が生じているかが扱われる.結局麻薬ビジネスの付加価値の源泉は国境を越えた密輸であり,そのためには密輸ルートの支配が鍵になる.メキシコではアメリカとの国境検問所がカルテル同士の縄張り争いの主因となる.
そしてカルテルが簡単に警察を買収できることが事態を悪化させ,さらにメキシコでは市警察と連邦警察がそれぞれ対立カルテルに買収されて状況が不条理化している.著者は国境の町ファレルでの抗争の歴史を迫力満点に描写している.
エルサルバドルでは状況が異なる.ここでの対立する2つのカルテルが抗争を繰り広げていたが,2012年に地区分割の協定を内容とする歴史的な手打ちが行われ,殺人率は1/3に激減した(ただしカルテル間抗争と関係のないゆすりなどの犯罪は当然ながら減少していない).
著者は両国の差をこう説明している.

  • 犯罪グループ間の抗争の多くは,相手グループの兵隊の引き抜き合戦という形を取る.こうなると裏切りものへの制裁が重要になり,血で血を洗う形になりやすい.
  • エルサルバドルでは,どちらの陣営に属するかが出身地区によって決まり,さらに加入後には刺青によるコミットメントが求められるので,裏切りが生じにくかった.
  • さらにエルサルバドルでは政府が手打ちを歓迎し,メンバーへの合法的な仕事の斡旋,ギャング幹部の快適な刑務所への移動にコミットした.(これは国民からは不評だった.実際に後任の大統領がこのコミットを反故にすると抗争が再燃した.)


著者はこれらのことから導き出されることとしてこうコメントしている.

  • 市場の状況の変化によって抗争の程度は変わる.
  • 検問所の縄張り争いを低下させるには検問所の数を増やすことが効果的になるだろう.これは密輸を容易にさせるが,これまでの経験からみて密輸総量にはあまり影響を与えないと予測できる.
  • 警察の買収を防ぐには,まず警官の給料を上げること,そして警察組織を統合することを検討すべきだ.

第3章 麻薬カルテルの人材問題

第3章のテーマはヒューマンリソース.麻薬ビジネスは,利益が高い反面,優秀な人材は常に不足する.求人広告を打てず,労働回転率が高いが,契約の法的強制力がない中でビジネスをマネジメントしなければならない.だからこのビジネスの成功において人材問題への対処は非常に重要になる.ここではいくつかのトピックが扱われていていろいろとおもしろい.

  • 犯罪組織にとって人材の獲得や訓練にとって重要な拠点になっているのが刑務所だ.ドミニカではこの問題を解決すべく,これまでの(刑務所内の暴力事件抑制のための)ギャング別の収監慣習をやめ,ギャングリーダーを他の囚人から厳重に隔離し,囚人の役務報酬の一部を家族に支払い,さらに新規刑務所スタッフの給与を3倍に引き上げるなどの改革を行っている.
  • カルテル組織とメンバーの間には,長期的なリクルートの視点から下部メンバーへの搾取をどう防ぐかという問題がある.経済学者による犯罪組織の分析リサーチによると,ある組織は複雑な規則体系を定め,その中には搾取されていることを上部に密告する制度があったそうだ.
  • 富裕国においては麻薬密売組織は一斉摘発のリスクに対応して,小規模に分割され,フリーランサーのネットワークに頼り,緩く運営される傾向がある.それぞれに小規模組織はサプライ・チェーンの一部に特化している.このような組織で重要なの対人スキルになる.なるべく暴力に頼らずに紛争を解決しようとし,故意以外のメンバーのミスについては寛容に対処する.
  • メキシコのような大規模カルテルでは,内部抗争を穏やかにし,裏切りリスクを下げるために,メンバー加入において同じ民族集団を優先し,家族への報復を可能にしておく*1

第4章 PRとシナロアの広告マン

第4章のテーマはマーケティング.驚くべきことに麻薬カルテルもSCR(企業の社会的責任)を気にしている.実際にメキシコの麻薬カルテルのボスたちは民衆から奇妙な人気を集めている.
麻薬カルテルにとっては世間からの一定の支持を得ておくことは(密告されにくさというメリットを通じて)事業活動の自由にとって重要なのだ.カルテルは様々な方法で広告を打つ.昔は原始的な屋外広告が主流だったが,最近ではメディアの記事の買い取り,ジャーナリストへの脅迫,オンラインへの対応なども行っている.
また派手な慈善活動も行っている.メキシコのシナロアカルテルは子供たちにクリスマスプレゼントをばらまき,ローラーコースター場を作り,貧しい人への住宅まで提供している.多くの麻薬王が教会の建設費を出している.さらに復讐の代行を含めた契約の強制履行や紛争解決サービスも提供する.


著者はこれらの活動をくい止めるには,まず政府自らがよりよいサービスを提供するしかないとコメントしている.またかれらのPRを弱めるためには,彼らの炎上商法を理解し,抗争地帯ではなく敵対カルテルの縄張りに部隊を送り込むこと,ジャーナリストを保護することが効果的だともコメントしている.


マーケティングからの犯罪組織の分析もなかなか新鮮で面白い.政府が腐敗していると様々な問題がとんでもなくこじれることがよくわかる.

第5章 オフショアリング

第5章のテーマは事業活動の一部を外国に移転させるオフショアリングだ.メキシコの麻薬カルテルもコスト削減のために中米諸国へのオフショアリングを行っている.
ポイントはまず人件費.社会に見捨てられた貧困層が多い国は悪の道に進むことに抵抗のない若者の供給に事欠かないからだ.もう一つの観点が政府のあり方だ.グアテマラの弱体化した政府や,ホンジュラスの腐敗し犯罪組織に協力的な政府は,様々な犯罪行為のコストを下げることを可能にする.著者によるホンジュラスの「バナナ共和国」ぶりのレポートはなかなか衝撃的だ.


ここで著者は世界銀行のデータを使って国別の麻薬カルテル競争力指標を産出して見せ(グアテマラとホンジュラスがツートップ),いくつかの改善策を提示している.またこのオフショアリングの動きはこれまでの「根絶作戦」の欠点を明確化するものであり,あるいは流れを変えるきっかけになるのかもしれないとコメントしている.

第6章 フランチャイズの未来

第6章のテーマはフランチャイズ方式.1990年代にメキシコの麻薬密売組織はコロンビアのカルテルの下請け輸送業者にすぎなかったが,コロンビアの組織が取り締まりにより弱体化したのを受けてメキシコの組織がバリュー・チェーンの大部分を掌握するようになった.中でも急成長したのが2010年までガルフ・カルテルの実行民兵部隊にすぎなかったセタス・カルテルになる.セタスは各地のギャングをフランチャイジーとして仲間に引き入れる方式を採用した.セタスは残虐行為を繰り返して犯罪組織としてのブランド力を高め,各地ギャングはセタスのブランドを使用することによりゆすりなどの犯罪を効率的に行う.実際に多くのカルテルはブランドのロゴを持っていて,無許可使用に対しては死を持って制裁するそうだ.またこのようなフランチャイズ型のカルテルは全体として業務範囲が拡大しており,収益の一部がフランチャイジーからの上がりという形になるためそれまでのように密輸ルートのみに執着するのではなく地域的な縄張りをより重視するようになる.
フランチャイズ方式は急成長を可能にするが,一方でフランチャイジーとフランチャイザー間の利害の対立*2,トップダウンの機動力に欠けること,一部の間抜けフランチャイジーによってブランド力が毀損されるリスクなどのデメリットも持つ.
著者はフランチャイズ方式による犯罪組織の成長は市民にとって間違いなくよくないことだが,一方で犯罪組織はそれまでより脆弱な部分も持つようになっていると指摘している.

第7章 法律の先を行くイノベーション

第7章で取り上げられるのは合成麻薬いわゆる「脱法ドラッグ」だ.著者は冒頭にロンドンの脱法ドラッグ屋のルポをおいて臨場感を高めてから解説に入っている.
合成麻薬の流行はニュージーランドでの成功に大きく影響されている.ニュージーランドはコカインやヘロインの原産地から遠く,持ち込みコストが高いために,まずメタンフェタミンが人気を博した.この取り締まりが強化されたときに,マット・ボウデンがより安全で合法的な合成麻薬のビジネスを起こし,BZPを開発.これが大ヒットし,当局が禁止,そして新しい合成麻薬の開発と禁止といういたちごっこがスタートする.
このいたちごっこはサイクルが短期化しており,開発者側は安全性より規制のクリアを重視するように動機づけられており,だんだん危険度が増している.またこのビジネスで勝つには,技術開発力と法的規制への対応が鍵になり,大手への寡占化が進みやすい.
著者は後追いの規制は危険を高めるだけで実効性がないことから,食品医薬と同じ規制方式にして,メーカーに商品の安全性を先に立証させ,その上で許可してはどうかと提案している.

この提案はハイにする薬品を正式に認めることにつながるので,世間には受け入れにくい部分があるが,現状のリスクを考えると傾聴に値するように思われる.

第8章 オンライン化する麻薬販売

オニオン・ルーティングによるダークウェブ技術とビットコインなどの仮想通貨により現在は麻薬もネットで購入することができる.著者はまずこれがもたらすユーザー体験の変化を取り上げている.それまでの麻薬購入は(友人からの入手をのぞくと)ストリートでさんざん待たされたあげく怪しげな売人から買うしかなかったが,ネットで買うと説明は丁寧,ユーザーレビューも閲覧でき,迅速な取引が可能でアフターサービスも受けることができる*3.これは麻薬に関してはネット取引の方が売り手も買い手も多くの中から相手を選ぶことができ,一般的な市場に近いからだ.
これはカルテルにとっては消費国での縄張りの重要性がなくなることを意味し,縄張り抗争を減少させる.片方でこれは麻薬価格の低下を進め,新たな顧客が呼び込まれる可能性を増やす.


オンラインによる販売は取り締まりをきわめて困難にしている.著者はネットワーク分析の初歩を紹介し,それを麻薬の消費者のネットワークに適用した例を提示して,オンラインである程度の量を購入して,そこから周りにばらまいている「陰のディーラー」に焦点を絞ることを提案している.

第9章 多角化するカルテル・ビジネス

第9章は麻薬カルテルビジネスの多角化.メキシコのカルテルは麻薬の密輸で稼いでいる.これを可能にするのは公務員を買収しながら何かを秘密裏に越境させる技術だ.そしてこの技術は密入国ビジネスと親和性が高い.
著者はメキシコとアメリカの国境を巡る密入国の実態を解説する.最近の国境警備の強化は,しかし密入国を思い止めさせる効果はほとんどなく*4,プロの密入国斡旋組織の競争力を高めているとコメントしている.


もう一つの多角化は麻薬の種類の多角化だ.カルテルにとってえり好みの流行の変化の激しい麻薬市場においてコカインだけに頼るのはリスクになる.そしてコカインの人気はアメリカで低下傾向になっている.カルテルはまずクリスタル・メス,そしてヘロインに手を広げている.ヘロインはかつてとりわけ危険というイメージがついてアメリカで忌避されやすくなっていたが,オピオイド系鎮痛薬依存症の急増(この中毒はこれまで麻薬マーケットにいなかった裕福な高年齢層を取り込んだ)により復活しているそうだ.

第10章 いたちごっこの果てに

第10章は現在アメリカで進行しているマリファナの合法化の影響がテーマ.アメリカではいくつかの州*5で(医療用だけでなく)娯楽用のマリファナが合法化されている.著者は2014年に最初に合法化されたコロラド州のルポから始めている.コロラドでは解禁されてから合法大麻企業が台頭し,大規模な生産流通システムを構築し,一部の州外からの需要も取り込みながら売り上げを伸ばしている.
このような合法企業はこれまでの麻薬カルテルに比べて,規模の経済のメリットを享受でき,質の面でも有利になる.合法化州の麻薬が周りの州に浸透するのは防ぎようがなく,カルテルが合法化されていない州で対抗するには価格を下げるしかない.著者の試算ではメキシコの違法大麻がコロラドとワシントンの合法大麻に対抗できるマーケットはテキサスしか残らないだろうと予想している.これはそもそもの合法化の目的の一つ(犯罪組織の収益源を断つ)が満たされつつあるということだろう.

では今後どうなるだろう.著者は,カリフォルニア*6やニューヨークなどの主要州で合法化され,連邦法で合法になるとタバコ産業のビッグビジネスが参入してきてマーケット構造はまた大きく変わるだろうと予想している.

Conclusion

著者は最後にまとめの章をおいている.著者の政府の麻薬対策の誤りについての結論は以下の通りだ.

  • 誤り1:供給面へのこだわりは間違いだ.対策は需要側がより重要だ.原料生産コストを上げても最終消費者価格には影響しないし,仮に価格が上昇しても価格弾力性が低く需要は余り下がらないことが予想される.教育や更正プログラムなどにより需要を抑えられれば,価格は下がり犯罪ビジネスの縮小によりつながる.
  • 誤り2:目先の節約を優先させているのは間違いだ.事後の取り締まりよりも予防の方が長期的にはコスト効率的だ.
  • 誤り3:グローバルビジネスに対して国単位で対応するのは間違いだ.麻薬ビジネス摘発を一国で行っても他の国に追いやるだけだ.中南米の国からみると,アメリカが自国民の麻薬消費に甘いために自分たちの国に犯罪がはびこっているということになる.そして現在生産国と消費国の区画が曖昧になり,ロシアや中国など自国民の麻薬使用に非常に厳しい新興国の影響が増しつつある.
  • 誤り4:禁止とコントロールを混同してはいけない.本気で麻薬の流れをコントロールしてカルテルを廃業に追い込みたいのなら禁止は有効な手段ではない.危険であるからこそ政府の手でコントロールすべきなのだ.マリファナの合法化はその一環だ.ヨーロッパの一部では医師の関与を条件にヘロインを合法化しているところもある.


先述したが,誤り1の書きぶりには少し違和感がある.供給面から麻薬の全体量削減が可能なら,麻薬被害は減るのだからそれには意味があるだろう.実際には実行できていないこと,そして犯罪組織の収益にはあまり影響がないかもしれないことが問題というべきだろう.もう一つ,教育や更正プログラムの有効性について著者は何もエビデンスを提示していない.そこについても事実を抑えた上で経済学的に分析があればより説得力が増しただろう.

以上が本書のあらましだ.経済学だけではなく経営学的な視点で麻薬ビジネスが解説されていてなかなか面白い本だ.日本は本書にあるニュージーランドと同じで,コカインやヘロインの持ち込みコストが高すぎるために覚醒剤と合成麻薬が主流ということになっているのだろう.対策を考える上でいろいろな示唆に富んでいると思う.


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原書

Narconomics: How To Run a Drug Cartel (English Edition)

Narconomics: How To Run a Drug Cartel (English Edition)

*1:例外としてヘロインをヨーロッパからアメリカに密輸するカルテルが運び屋に白人女性を優先する例を挙げている.空港のチェックが有意に少ないためのようだ.

*2:フランチャイザーにとってなフランチャイジー密度は高い方がいいが,フランチャイジーにとっては自分の縄張りの近隣に別のフランチャイジーが認められるのは困ることになる.

*3:中にはフェア・トレードやコンフリクト・フリーをうたっているものもあるそうだ

*4:アメリカとメキシコの賃金格差,離ればなれの家族と一緒に暮らしたいという思いを考えると,1000ドル程度の追加コストが密入国を思い止めさせられるとは考えにくい

*5:本書執筆時点ではコロラド,アラスカ,ワシントン,オレゴンの4州だけだったが,2018年現在,カリフォルニア,メイン,マサチューセッツ,ネバダの4州とDCが加わっている.

*6:本書の原書刊行後2018年1月より合法化されている