From Darwin to Derrida その79

 

第8章 自身とは何か その19

 
ヘイグによるアダム・スミスの道徳感情論の読み込み.ヘイグは道徳を本能と理性と文化による混合物であり,そこに再帰的な相互関係があるものとして捉えている.まず本能的な要素が解説され,続いて理性的要素が扱われる.これは直感的な道徳感情に対して熟考的な道徳判断として議論されることが多いものになる
 

理性的要素

 

理性は疑いなく道徳の一般的規則の,そして我々が道徳実践のために行うすべての道徳判断の源である.しかし最初の善悪の感知が理性から生じうると考えるのは全く馬鹿げた考えだ.そしてそれはその善悪判断が道徳の一般的規則の形成に関わるものであってもだ.・・・
直接感じられないなら,あることの是非は決められない.

アダム・スミス 「道徳感情論」

そのような行為の一般的規則は,それを習慣的に熟考しているなら,ある状況下でどのような振る舞いが適切かの判断において,利己心からの間違いを正してくれるのに大いに役立つ.

アダム・スミス 「道徳感情論」

 

  • スミスは私たちの道徳的直感は感情から来るが,道徳的規則は理性から来ると信じていた.私たちは,胸の中の自分の判断から一般的規則を導くのではない.そのような判断は自分の行いを冷静に公正に見ることはできない.
  • 一般的規則は,他者の行動やそれについての第三者の判断を観察するときに感じる自然な感覚から導かれるのだ.特に私たちは自分たちの行動に対する賞賛を求め,非難を恐れる.私たちは道徳規則を,他者への第三者的観察の経験から導くのであり,自分たちへの第三者的観察から導くのではない.

 
ヘイグによるとスミスは道徳の理性的熟考的な判断についてそれは第三者的な観察から来るものだと議論している.純粋な抽象的な思考から演繹的に規則が生み出されるのではなく,第三者がある行動をどう判断するか,それが称賛されるのか非難されるのかの判断が道徳の理性的部分の基本だとしている.
  

  • 理性は,自分たちの行動や意見を合理的なものとして説明し,自分たちや自分たちの立場を正当化するために使われるのかもしれない.ハイトは道徳判断における理性の最重要な役目は後付けの正当化理由を見つけることだと主張した.この見方によると道徳的推論には,問題をリフレームしたり新しい道徳的直感を引き出したりして他者の行動を変える力はあまりないということになる.

 
すると意識が後付けの理屈をひねり出す報道官だというハイトの考えと近くなる.しかしそれだけではないし,スミスはそこを深く考察していたというのがヘイグの指摘になる.その上でのヘイグのここからの考察はなかなか面白い.
 

  • しかし理性は自分自身の理由を熟考するために使うこともできる.そして自分自身を他者と調和させるように変えることもできる.スミスは自己内省的な規則は束縛のない道徳的直感へのチェックとして働くと考えていた.道徳規則に従うように行動するというコミットメントは自己欺瞞を防ぎ,将来的に後悔するような行動への衝動に対抗することができる.
  • 理性は論理的に一貫した公平な行動をとるように指示することもできる.「sympathy」は他者をより理解するように進化し,理性は選択肢のコストとベネフィットをうまく計算できるように進化した.あなたのコストにおいて私が利益を得られるような状況下で,私は自分がとれる選択肢のそれぞれの期待効用を計算し,あなたのとれる選択肢のそれぞれのあなたの期待効用を計算してあなたがとりそうな選択肢を予測し反応するために「sympathy」を使う.予測の正確性はあなたの選択のシミュレーションの質と私の論理の質に依存する.さらに予測において3人称視点をとるなら,自分とあなたの区別を無視できる.だとしたら,感情を交えない純粋に合理的な疑問として,何故私は自分の効用をあなたの効用より高く評価すべきなのだろうか.
  • ここで感情が計算に入ってくる.そして感情は自分の効用があなたの効用より優先すると強く訴える.しかし理性は問題を両サイドから見て,私の効用とあなたの効用の評価の違いは,状況を非対称にするための全くの恣意的な基準に基づいているに過ぎないことを理解できる.実際に人々がどれほどこのような抽象的な思考で行動を選んでいるのかはよくわかっていない.しかしこのような合理的な議論は他者にある行動をすべきだと説得するときにはよく見られるものだ.
  • スミスは,目的因の視点から見て,この自分の効用へ与える特別な卓越は「恣意的」ではないと考えていた:「すべての人間は自分を第1に気にかける.そしてすべての人間は他者よりも自分の面倒を見るのにたけている(道徳感情論)」 ヒトは自分の面倒を見る,それはもしそうでなければ「彼は自分や社会の効用を下げるような状況を避けるための動機を持たなくなってしまう.そしてそれらを慈しむ自然は,彼はそのような事態を避けようとすべきだとするだろう(道徳感情論)」

 
この部分は難解だ.ヒトは自分の効用だけでなく他者の効用をも気にかけることがある.それは(評判などを通じて)社会的に排斥されないためにというメカニズムが感情を通じてビルトインされているためでもあるが,理性を通じて自分を優先する態度が全くの恣意的な基準に過ぎないということが理解できるという部分もある.そしてそういう理解は他人を(利他的に振る舞うように)説得する際にはしばしば使われる.だが,(スミスのように目的因から考えると)最終的にはヒトは(評判を通じた利他的な行動をとることを含めて)自分の効用を優先するはずだということになる.
(正しく理解できているかやや心もとないが)要するに理性的には「自他を区別しない全面的絶対的利他的な行動原則が正しい」と導けても,進化適応的に考えるとそのような態度が定着することは難しいということを解説しているのだろう.

From Darwin to Derrida その78

 

第8章 自身とは何か その18

 
ヘイグによるアダム・スミスの道徳感情論の読み込み.

さまざまな「sympathy」の整理を終えていよいよ道徳に入る.ヘイグは道徳を本能と理性と文化による混合物であり,そこに再帰的な相互関係があるものとして捉えている.ここからそれぞれの要素を見ていく.
最初は本能的要素.これは道徳をめぐる議論では直感的な道徳としてとらえられるものだ.
  

本能的要素

 

  • 道徳の多くの様相は本能的だ.そして個人的経験や理性や文化からの修正を受ける.
  • 私たちの基層的な感情反応のレパートリーは本能的だ.これには他者の利己性についての怒りや憤慨,他者の寛容に対する感謝,自分の間違った行為についての罪や恥の意識が含まれる.しかしこのレパートリーには,自分にないものを持つ他者へのねたみやそねみや憎しみ,自分たちの目的を阻害した他者への復讐心や報復心も含まれる.
  • 私たちの「sympathy」能力,他者の視点から世界を見る能力は道徳の本質的な基層だが,「sympathy」は「Schadenfreude」つまり(特に自分を悪く扱う)他者の痛みについて感じる喜びと共存する.

 
まずは道徳に関連するさまざまな感情を整理している.ねたみそねみだけでなく「Schadenfreude」まで挙げているのがちょっと面白い.
 

  • 私たちの道徳本能は,それが祖先たちの生存繁殖をそれを持たない他者と比べて有利にしたからこそ進化した.私たちの祖先の大半にとっては社会的グループに受け入れられることがその遺伝子の繁栄にとって非常に重要だったのだろう.受け入れられないと判断される行動をとる個人は避けられ,公共財の利用から排除され,部族から追放され,場合によっては殺されただろう.これにより受け入れられたいという欲望と拒絶への恐怖が最も強いヒトの動機となったのだろう.

 
そしてこれらの感情についての進化的な理由を,遺伝子中心主義的(表面的には個体淘汰的)に社会的グループに受け入れられることとしている.ボームやランガムの議論ともからむところになる.
 

  • 3人称「sympathy」はこの集団内協力のメリットと排除されることの高いコストから進化したのだろう.もし集団への受け入れが生存繁殖と相関し,集団への受け入れ基準が道徳的な行動の表出と非道徳的な行動の抑制にあったなら,ヒトは反社会的な行動をとらせる遺伝子を持つ個体を排除することにより自分自身を社会化しただろう.
  • 他者の利益を含めた選好に沿って行動することが(集団に受け入れられるための)分別あるやり方だとしたら,一番いいやり方は本当にそういう選好を持つことだ.最初は慈悲心をディスプレイすることがうまいやり方だったかもしれないが,自然淘汰はそれを実際の動機とするような遺伝的な変化を引き起こしただろう.慈悲心の理由は有用性から適応度に変わっていき,それは利己心に汚されない純粋な心理的な動機になる.そして私たちは他者に正面から向き合った上で「私たちはあなたたちの幸福を自分自身のそれと同じように評価しています」と心から誓えるようになる.実際には利己心は強力な心理的動機として残っており,自愛と慈悲心は私たちの心理にうまく溶け合わないまま共存している.

 
そして社会的グループから排除されないためには,どのような行動が受け入れられ,どのような行動が受け入れられないのかを知る必要がある.それには3人称「sympathy」が道具として有用だった.そして他者から真に評価されるためには単にディスプレイするだけでなくそれを真に望む方が有効になる.これが慈悲心だというのがヘイグの議論だ.これはトリヴァースの自己欺瞞の議論に似ていて面白い.
 

  • 協力の進化はしばしばグループ内淘汰とグループ間淘汰の緊張関係の結果だと説明される.この見方から見るとグループ間競争はグループ内協力を進め,グループ内ではただ乗りの利益が協力を蝕んでいることになる.そしてここでグループが非協力的メンバーを排除できるなら協力が進化することになる.するともし協力的なグループが(時に暴力的な方法で近隣グループを打ち負かして)よりテリトリーを防衛,拡張できるとするなら,グループ間競争はグループ内のポリシングを強めて団結を増進する強力な力になったのかもしれない.

 
ここもちょっと面白い.ヘイグは基本的に遺伝子中心主義者だが,ここでは敢えてソーバーとDSウィルソンのマルチレベル淘汰のフレームを用いグループ内のポリシングの存在を説明している.原理主義的な遺伝子中心主義ではなく,説明が容易なら敢えてほかのフレームも用いるというヘイグの柔軟なスタンスが表れているということだろう.またこの部分は一見ボウルズとギンタスの戦争仮説の議論に乗っているようではあるが,実はここで引用されているのはランガムの「善と悪のパラドックス」であり,ボウルズとギンタスには納得できないというヘイグの思いが感じられる.
 

  • 自然淘汰は同時に相互破壊を防ぐために停戦の交渉を行う心理的な能力を進化させたかもしれない.ただしそれは,武器を捨てることができないことがグループ内かグループ間の競争において不利になる場合に限られる.本能的平和主義者は地球を受け継ぐかもしれない.しかしそれには恨みを忘れない者たちより多く子孫を残せるならという条件があるのだ.停戦すれば双方に利益がある.しかしどちらの側も戦力の不均衡が相手の攻撃を誘引しないかどうかを警戒しなければならない.そしてそれは(しばしば見過ごされているが)リスクの小さな攻撃機会を見逃してはならないということも意味するのだ.

 
この最後のリマークは深い.結局単純な進化的理由から生じる本能的な感情だけでは(部族間闘争に際して先制攻撃が有効であるならそれを抑制する仕組みは進化しないので)世界平和は実現するとは限らないということだ.これはマルチレベル淘汰フレームで説明されているが,遺伝子中心主義的にも説明可能だろう.
 

関連書籍
 
ランガムによるヒトの攻撃性と寛容性についての本.ヒトは狩猟採集グループににおいて暴君への対処として処刑による排除を行うようになり,その処刑への対処として自己家畜化により攻撃性の低下が生じたという主張がなされている.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/2021/04/25/112359

From Darwin to Derrida その77

 

第8章 自身とは何か その17

 
ヘイグは2人称「sympathy」と3人称「sympathy」間の緊張,つまりあなたにとって望ましい私の態度が世間一般からも望ましいと受け取られるは限らないという問題を指摘したあと,ちょっと面白い随想をおいている.
 

レトリックと美しい手紙についての追想

 

  • このエッセイの初期原稿の唯一の読者は著者自身だ.(著者である)彼の最初の試みはうまくいかず改訂を迫られた.彼の言葉を読み,説得しようとする努力を観察し,(読者である)私のアイデアは形成され,読者と著者の反響の中で,私は自分自身の心を知る.著者である私は心のなかに2人称を持つ.それはこれを読んでいるあなただ.もし私があなたの視点から読むことに成功しているなら,あなたは私の視点から読めるだろう.ちょうど私がスミスの考えについての「sympathy」に入り込んだように,あなたは私の考えについての「sympathy」に入り込む.
  • 現代のアカデミアの書き手はさらに第3者を想定しなければならない.その第3者は著者と読者の2人称のやりとりを観察する.そしてその観察は,著者の意図した意味を直接得ることはできず,著者が使った道具やトリックを通じて意味を探るというものだ.著者の熱烈な2人称的読者との結びつきは,そのような理性的な判断を行うテキストの第3者的読者を満足させるとは限らないのだ.

 
再帰的な要素を持つイメージの反響について考え,執筆しているとこのような思いに捕らわれるということだろう.想定読者をある程度特定して書いていると内容がそれに引きずられ,そしてふとそれが第三者的にどうかが気になる.そしてそれは読者も同じかもしれないというわけだ.
 
ここからアダム・スミスの本の本来のテーマ「道徳」に話が進むことになる.
 

道徳

 

したがって,すべての人が心のなかで,人類全体より自分自身の方を優先しているというのは正しいかもしれないが,それでも彼はあえて人類を真正面から見ず,この原則に従うことを誓う.

アダム・スミス 「道徳感情論」

  • 道徳とは単一のものではなく,本能,理性,文化要素の不完全な混ざり物だ.そしてすべての進化するものと同じく,これらの要素間の関係は再帰的だ.文化は本能により形作られ,本能は文化により影響を受ける.理性的な選択は生得的な行動の進化を促し,その行動は理性なしで同じ目的を得る*1.理性は私たちの目的に最も役に立つ文化的アイテムを選択し,それにより文化は変容する.その一方で理性的な選択は文化的規範により制限される.道徳は深く個人的であるとともに強く社会的であり,内側から湧き上がるものであるとともに外側から強制されるものになる.

 
道徳が本能と理性と文化による混合物で,再帰的な相互関係を持っているというのはなかなか面白い捉え方だ.直感的な道徳と熟考による道徳という捉え方は多いが,さらに文化を含めたその要素間に再帰的な関係があるというのがここからの指摘になる.

*1:ここでボールドウィンが参照されている.

書評 「アメリカン・ベースボール革命」

 
本書は「マネー・ボール」に始まるメジャーリーグにおける数理統計やデータサイエンスの応用の最新動向を扱った本になる.著者はベン・リンドバーグとトラビス・ソーチック.いずれもジャーナリストで,ソーチックは「ビッグデータ・ベースボール」の著者でもある.

メジャーリーグにおける本格的な数理統計の応用は「マネー・ボール」で紹介されたセイバーメトリクスの利用から始まる.これは選手の能力や貢献を測るためには伝統的な成績指標(打率,打点など)よりも有効な指標(長打率,出塁率など)があることを理解し,フリーエージェント市場で割安に選手を調達し,強いチームをつくることを目指したものだ.しかしこの手法の有効性が多くの球団に認められると優位性はなくなる.次に現れたのは「ビッグデータ・ベースボール」で紹介された投球や打球のデータを利用して試合においてこれまで見つかっていなかった評価指標(フレーミングの巧拙)を利用したり,試合において有効な戦術(極端な守備シフト,ゴロを打たせやすい球種の多用など)を探るというものだ.そしてこれらもやはり多くの球団が採用することとなり,優位性は大きく下がった.そしてその後に何が起こっているかが本書の内容になる.原題は「The MVP Machine」
 
セイバーメトリクスで選手の評価にアノマリーを見つけることが難しくなったあと,同じ予算で良い選手を集めるためには「育成」が鍵になる.そして育成のために投球や打球のデータを活用するのが2014年〜2018年(本書が書かれた時点の直前シーズン)の最先端球団の戦略になった.本書ではそのデータ活用育成物語を,自分自身の能力を高めることに執念を燃やす孤高の理論派投手トレバー・バウアーとボールの物理学と運動理論から革新的能力向上手法を編み出したトレーニング施設「ドライブライン」経営者カイル・ボディを中心とした人間ドラマ,そしてこの面での最先端球団アストロズの逸話を交えて描いていく.
人間ドラマは手練れのジャーナリストたちの手になるだけあったなかなか読ませる.ここではデータ利用のところを中心に紹介しよう.
 

  • バウアーは伝統にとらわれず周囲との摩擦を恐れずに,可能性のあるありとあらゆる技術向上手法を試して自分の投手としての価値を高めることに成功した.彼やそれに続く成功例を見ると,上達のためには成長マインドセットとやり抜く力(グリット)が重要であるように思われる.
  • 球団におけるデータ利用においてはかつてはたたき上げの現場と統計オタクの対立という問題があったが,統計数理マインドを持つ選手がどんどん増えてきて,引退後そのままスタッフに残るようなケースも見られるようになってきた.また代理人ビジネスもそのようなマインドを持つものが求められるようになりつつある.

 

  • ピッチャーの球種は球速とスピン軸の方向とスピン角速度で記述できる.メジャーリーグではそれまでの光学カメラによる追跡システムPITCHf/xに替わり,ドップラーレーダー式測定機器トラックマンと光学カメラを組み合わせたデータ解析システムであるスタットキャストシステムが2015年に全球場で導入された*1.さらにリリースの瞬間の握りとボールの高解像度高速度の動画データがエッジャートロニック製のカメラにより得られるようになった.
  • 球速は筋力トレーニングとウェイティッドボールを用いた遠投と全力投球で改善できることがわかってきた.(伝統的にそういうトレーニングが行われてこなかったのは遠投の制限や球数の制限で肘の故障が防げるという信念が根強いためだが,それには根拠がない.*2)特に見逃されていたポイントは無意識になされる腕の振りからのブレーキング能力だ.
  • 良い変化球を習得するためにはエッジャートロニックスカメラが捉える動画が役に立つ.投手は握りとボールの相互関係と投球データを確認しながら練習でき,より効果の高い球種を習得できる.ボールを握る手の形,それぞれの指のどの部分がボールのどの部分にふれているかを記述する試みも始まっている.
  • どのような変化球が有効かについては,投げられた球種とその結果(打球や空振り率など)の関連分析(球速,投げられたコース,回転軸と回転数ごとの要因分析を含む),そしてその投手が持っているほかの球種と合わせたピッチトンネル*3の分析により調べることができる.分析の結果,球速よりも回転数が重要だという認識が広がった.またこの分析は配球戦術(特にあまり有効でない変化球を捨て,有効な変化球を増やすこと)にも使われるようになった.このような進展によりメジャーリーグでは全体的に変化球の割合が増加し,さらにその中でシンカーよりスライダーとフォーシームを,フォーシームは高めになどの変化が生じている.
  • (「ビッグデータ・ベースボール」で紹介された守備側のゴロを打たせることの有効性への対抗として)打撃側はフライを打ち上げてより多くのホームランを目指すようになった.データはメジャーリーグの平均的な投球は下向き6度の角度で入ってくることを示しており,バットの軌道はアッパースイングで上向き6度にしてベースのはるか手前でボールを捉えることが推奨されるようになった.これはフライボール革命として知られる.スタットキャストのデータは打球角度が30度前後のフライ(バレルと呼ばれる)が最も良い打球であることを示している.ただしどのようにすれば良い打者を育成できるかについてはなお未知の部分が大きい(このような打球を生むには引っ張るのが有効だが,うまく引っ張ることができる選手は少ない).
  • リハビリやトレーニングマシンも進歩している.3次元の抵抗を与えられるボストン・バイオモーション社によるプロテウスシステム,バットスピードや軌跡と身体の動きを関連付けて分析できるKベストバイオフィードバック装置などが開発されている.

 
またこれらの革命はメジャーリーグの野球競技の質に影響を与えており,最終章とエピローグでそのことが解説されている.私的にはここが一番興味深かった.
 

  • 球団が育成に力を入れるようになり,野球選手の質が全般的に向上した.その結果選手の若返り現象が生じた.球団は高いフリーエージェントを獲得するより報酬の安い若手を育てる方がコストパフォーマンスがいいとわかったからだ.そしてこれは1970年代から続いてきた報酬体系を不安定化させた.以前なら高い報酬を得られたはずのフリーエージェントはオファーを得にくくなり,(かつての)相場以下の契約を結ぶことが増えた.選手会はこれに合わせた戦略を考えざるを得なくなっているが,オーナーサイドも簡単に譲歩はしないだろう.
  • 突如選手育成の方法を知っているアナリストや球団幹部の価値が上昇し,引き抜きが横行している.
  • 一連の知見により四球とフライボールの価値は高く評価されるようになり,また三振はほかのアウトより悪いものではないと考えられるようになった.そして三振率の高い打者は四球やホームランも多い傾向があるのでコンタクトの上手な打者より高く評価されるようになった.この結果プレーに占める三振,四球,ホームラン(つまり野手のところに打球が飛ばず,打者が一塁に全力疾走しないプレー)の比率が上がった.これはスリリングなプレーを求めるファンの期待とは合致していない.
  • 現時点ではこの革命は投手により多くのメリットを与えている.打者は上向き角度6度のアッパースイングを会得したが,(角度4度の高めのフォーシームや角度8度の変化球で)そこから外そうとする投球術に対応できている打者は少ない.その要因の一つは試合で出合うのと全く同じ球種で練習できないことにある.現在の打者のスカウティングは球種の判断力の高い打者を見つけることにシフトしつつある.
  • この育成の技術革新により,最高のトレーニングには時間と高額な費用が不可欠になった.金銭的余裕がないプロを目指す若い選手は以前よりさらに不利になるだろう.
  • アストロズはこの革命の先駆者利益を得たが,今やその知見と技術は陳腐化しつつある.かつて最も保守的と見做されたオリオールズすらこの革命に取り組み始めており,ヤンキース,レイズ,レッドソックス,パイレーツ,ツインズも積極的に取り組んでいる.現在先行球団と遅れた球団に差があるためリーグの成績(勝敗)のチーム格差は著しく大きくなっているが,今後数年で平均化が起こると思われる.
  • 育成手法の革命により,球団はより少数精鋭で育成が可能になる.これは参加マイナーリーグ球団数の削減として現れている.

 
また本書の巻末には統計学者鳥越規央による「解説」がおかれている.これは大変ありがたい部分だ.そこでは本書内の議論がよりクリアーに整理され,さらに2019年以降の状況や日本での状況も解説されている.
 
以上が本書の内容になる.競争の激しいスポーツの世界では,いったん数理統計利用が有効とわかり,そのようなマインドが現場に浸透すると,変革が一気に加速するということがよくわかる.そして最近の具体的なトリビアがいろいろと紹介されていて大変興味深く読める.この本を読んだ後にメジャーリーグを実際に観戦するとまた楽しい.(配球の変革などのところにはなかなか気づきにくいが)今シーズン大活躍のエンジェルズの大谷翔平のホームラン動画などを見ると,フライボール革命の威力がまざまざと実感される.
数理統計やビッグデータの応用に興味がある野球ファンには「マネー・ボール」,「ビッグデータ・ベースボール」に続くぜひ読みたい一冊ということになるだろう.
 
 
関連書籍

原書

 
本書の著者の一人ソーチックによる「ビッグデータ・ベースボール」.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20160414/1460587238
 
同原書


マイケル・ルイスの描くセイバーメトリクスとアスレチックスGMビリー・ビーンの物語.今やこの分野の古典とも言うべき本.

 
同原書

映画化されたもの.

マネーボール [Blu-ray]

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  • ブラッド・ピット
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*1:このシステムは投球だけでなく打球や選手の動きも解析する

*2:アメリカンフットボールのQBは野球のボールよりずっと重いボールを投手より多い回数投げているがあまり肘の故障を起こさないということも傍証とされている

*3:異なる球種のリリースポイントやホームベースまでの軌道が(打者から見分けにくくなるように)ぎりぎりまで一致していること

From Darwin to Derrida その76

 

第8章 自身とは何か その16

 
3人称「sympathy」を説明したところで,2人称「sympathy」と3人称「sympathy」間にある緊張関係が議論される.
 
 

2人称「sympathy」と3人称「sympathy」間の緊張

 

  • 2人称「sympathy」はある特定の他者の視点からのものだ.これに対して3人称「sympathy」は一般的他者の視点からのものになる.そしてこの2種類の他者は,ある特定状況で私がいかに振る舞うべきかについて異なる見解を持つかもしれない.そして同じ行動に対して私の異なる反射イメージを持つだろう.

 
なかなか難解な言い回しだが,要するにある特定の他者が「私」に期待する行動は,客観的第3者(あるいは社会全体)のそれとは異なっていることがあるということで,その特定の他者と一般的社会の利害が一致していない場合には当然そうなるだろう.
 

  • ヴァージニア・ヘルドは,(著書「The Ethics of Care」において)道徳哲学は3人称的超然(third-person detachment)を過剰強調し,特定他者との2人称関係におけるケアの倫理を擁護していると指摘している.ヴァシュデヴィ・レディは,(著書「How Infants Know Minds」において)幼児の他者の心の推論における3人称的推論と2人称的関係の間の似たような不均衡をうまく整合的に扱える道を探している.

 
ここも難解だ.哲学的な素養がないので「third-person detachment」が何を意味するのか私の手に余るところだが,文脈からいってケアの倫理は2人称的なものと捉えられるものであって,3人称的な(つまり功利的な)倫理と相克関係にあることが前提になっているのだろう.

How Infants Know Minds

How Infants Know Minds

Amazon
 

  • 友人というのは,親密な2人称的「sympathy」を育みあった人のことであり,私たちは友人との関係においては3人称的視点を部分的に排除しようとする.
  • 友人の1人が私に尋ねもせずに公共の害になる陰謀に私を取り込んだ場合,私はどのように友人に対しての道徳的義務と社会に対しての道徳的義務を折り合わせればいいのだろうか.どこまで行ったら,私の友人といい関係でいようとする欲望が,社会的な立場を失う恐れにとって変わるのだろう.そして私のジレンマは私の友人について何を語るのだろうか.彼が私を(陰謀に)巻き込んだのは間違った私の2人称イメージ(私の良心についての「sympathy」の欠如)を持っていたからなのか.あるいは彼のイメージは正しく,私が折れることをことを知っていたのか.私の友人は相利的な状況の可能性を見て,その機会を私に呈示し,友情の価値を示し,それを深める手段を提供したのか.彼の視点から見ると私の良心の呵責は,私が彼よりも一般的他者や抽象的な原理を優先するサインなのかもしれない.
  • いつも肩越しの視点をとり,自分の行動が世界にとってどう見えるかを考慮しているような人物は冷たく超然としているようにみえるだろう.私たちは,自分と最も親密な対人関係においては,自分以外の人類全体ではなく自分に気を配ってくれるようなパートナーを望む.苦境において,私は,私を愛してくれて他者よりも私を優先してくれる人物を望むだろう.

 
このあたりはなかなか深い.「公共の害になる陰謀(a conspiracy against the common good)」という言い回しを使っているが,これはたとえば「互いの利益になるちょっとした抜け駆け」のようなことに「当然参加するよね」という感じで取り込まれることを指しているのだろう.友人は私の利益にもなるからと誘ってくれているが,私はその反道徳的な行為を行いたくない,しかし誘ってくれた彼とのいい関係を続けたいというジレンマ,そしてなぜ彼は私の苦境を理解しないのか,私とは道徳的な基準が異なっているとしてそれは友情にどんな意味を持つのか.そしてそれは私がどのような自分のイメージを友人,そして客観的第3者に投影したいかという問題に関連するのだ.そしてヘイグは常に客観的第3者イメージを追求するような人間は友人を作りにくいかもしれない(普通の人は,自分が本当に困っているときには社会全体の利益なんかおいといて自分を助けてくれるような友人を好ましく思うだろう)と示唆している.