From Darwin to Derrida その78

 

第8章 自身とは何か その18

 
ヘイグによるアダム・スミスの道徳感情論の読み込み.

さまざまな「sympathy」の整理を終えていよいよ道徳に入る.ヘイグは道徳を本能と理性と文化による混合物であり,そこに再帰的な相互関係があるものとして捉えている.ここからそれぞれの要素を見ていく.
最初は本能的要素.これは道徳をめぐる議論では直感的な道徳としてとらえられるものだ.
  

本能的要素

 

  • 道徳の多くの様相は本能的だ.そして個人的経験や理性や文化からの修正を受ける.
  • 私たちの基層的な感情反応のレパートリーは本能的だ.これには他者の利己性についての怒りや憤慨,他者の寛容に対する感謝,自分の間違った行為についての罪や恥の意識が含まれる.しかしこのレパートリーには,自分にないものを持つ他者へのねたみやそねみや憎しみ,自分たちの目的を阻害した他者への復讐心や報復心も含まれる.
  • 私たちの「sympathy」能力,他者の視点から世界を見る能力は道徳の本質的な基層だが,「sympathy」は「Schadenfreude」つまり(特に自分を悪く扱う)他者の痛みについて感じる喜びと共存する.

 
まずは道徳に関連するさまざまな感情を整理している.ねたみそねみだけでなく「Schadenfreude」まで挙げているのがちょっと面白い.
 

  • 私たちの道徳本能は,それが祖先たちの生存繁殖をそれを持たない他者と比べて有利にしたからこそ進化した.私たちの祖先の大半にとっては社会的グループに受け入れられることがその遺伝子の繁栄にとって非常に重要だったのだろう.受け入れられないと判断される行動をとる個人は避けられ,公共財の利用から排除され,部族から追放され,場合によっては殺されただろう.これにより受け入れられたいという欲望と拒絶への恐怖が最も強いヒトの動機となったのだろう.

 
そしてこれらの感情についての進化的な理由を,遺伝子中心主義的(表面的には個体淘汰的)に社会的グループに受け入れられることとしている.ボームやランガムの議論ともからむところになる.
 

  • 3人称「sympathy」はこの集団内協力のメリットと排除されることの高いコストから進化したのだろう.もし集団への受け入れが生存繁殖と相関し,集団への受け入れ基準が道徳的な行動の表出と非道徳的な行動の抑制にあったなら,ヒトは反社会的な行動をとらせる遺伝子を持つ個体を排除することにより自分自身を社会化しただろう.
  • 他者の利益を含めた選好に沿って行動することが(集団に受け入れられるための)分別あるやり方だとしたら,一番いいやり方は本当にそういう選好を持つことだ.最初は慈悲心をディスプレイすることがうまいやり方だったかもしれないが,自然淘汰はそれを実際の動機とするような遺伝的な変化を引き起こしただろう.慈悲心の理由は有用性から適応度に変わっていき,それは利己心に汚されない純粋な心理的な動機になる.そして私たちは他者に正面から向き合った上で「私たちはあなたたちの幸福を自分自身のそれと同じように評価しています」と心から誓えるようになる.実際には利己心は強力な心理的動機として残っており,自愛と慈悲心は私たちの心理にうまく溶け合わないまま共存している.

 
そして社会的グループから排除されないためには,どのような行動が受け入れられ,どのような行動が受け入れられないのかを知る必要がある.それには3人称「sympathy」が道具として有用だった.そして他者から真に評価されるためには単にディスプレイするだけでなくそれを真に望む方が有効になる.これが慈悲心だというのがヘイグの議論だ.これはトリヴァースの自己欺瞞の議論に似ていて面白い.
 

  • 協力の進化はしばしばグループ内淘汰とグループ間淘汰の緊張関係の結果だと説明される.この見方から見るとグループ間競争はグループ内協力を進め,グループ内ではただ乗りの利益が協力を蝕んでいることになる.そしてここでグループが非協力的メンバーを排除できるなら協力が進化することになる.するともし協力的なグループが(時に暴力的な方法で近隣グループを打ち負かして)よりテリトリーを防衛,拡張できるとするなら,グループ間競争はグループ内のポリシングを強めて団結を増進する強力な力になったのかもしれない.

 
ここもちょっと面白い.ヘイグは基本的に遺伝子中心主義者だが,ここでは敢えてソーバーとDSウィルソンのマルチレベル淘汰のフレームを用いグループ内のポリシングの存在を説明している.原理主義的な遺伝子中心主義ではなく,説明が容易なら敢えてほかのフレームも用いるというヘイグの柔軟なスタンスが表れているということだろう.またこの部分は一見ボウルズとギンタスの戦争仮説の議論に乗っているようではあるが,実はここで引用されているのはランガムの「善と悪のパラドックス」であり,ボウルズとギンタスには納得できないというヘイグの思いが感じられる.
 

  • 自然淘汰は同時に相互破壊を防ぐために停戦の交渉を行う心理的な能力を進化させたかもしれない.ただしそれは,武器を捨てることができないことがグループ内かグループ間の競争において不利になる場合に限られる.本能的平和主義者は地球を受け継ぐかもしれない.しかしそれには恨みを忘れない者たちより多く子孫を残せるならという条件があるのだ.停戦すれば双方に利益がある.しかしどちらの側も戦力の不均衡が相手の攻撃を誘引しないかどうかを警戒しなければならない.そしてそれは(しばしば見過ごされているが)リスクの小さな攻撃機会を見逃してはならないということも意味するのだ.

 
この最後のリマークは深い.結局単純な進化的理由から生じる本能的な感情だけでは(部族間闘争に際して先制攻撃が有効であるならそれを抑制する仕組みは進化しないので)世界平和は実現するとは限らないということだ.これはマルチレベル淘汰フレームで説明されているが,遺伝子中心主義的にも説明可能だろう.
 

関連書籍
 
ランガムによるヒトの攻撃性と寛容性についての本.ヒトは狩猟採集グループににおいて暴君への対処として処刑による排除を行うようになり,その処刑への対処として自己家畜化により攻撃性の低下が生じたという主張がなされている.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/2021/04/25/112359